いじめ加害者の告白」春名風花さんと読む「周りに笑ってほしくてエスカレート」「グループの空気優先」
夏休み明けの新学期は、学校生活になじめない子どもにとって、つらい時期です。文部科学省の調査によると2016年度、1千人あたりの不登校人数は過去最多となり、小学校で4.7人。中学校では30.1人にのぼります。withnewsでは「いじめている君へ」「いじめていた私」。ふたつのテーマで、10代に作文投稿を募りました。被害者からは「君のことを許さない」という苦しみ、恨み。加害者からは「自分の身を守るためだった」という告白がつづられています。12歳の時からいじめ問題で発信を続け、絵本「いじめているきみへ」も手がけた女優・春名風花さん(17)に、投稿を読んでもらいました。
ひとりになってしまう、怖い
投稿は、7月末から8月上旬にかけて、朝日新聞のサイトで募集しました。回答欄で自分の年齢を選んでもらい、自身の経験談を投稿してもらいました。
高校生向けニュースサイト「高校生新聞オンライン」の協力も得て、15~19歳まで約20件の投稿が集まりました。
まず春名さんが注目したのは、「いじめていた私」、つまり加害者たちの投稿でした。
春名 「投稿してくださるくらいなので、やはり罪の意識があって、言葉が重くてリアルですね…」
春名 「学校で独りになることって、やっぱり重いんだなと思いました。個人としてどう過ごすかより、グループとしてどう過ごすか。自分の中の正義より、グループの空気として正しいことが優先されてしまう。この女性の友だち2人も、本当にいじめをしたかったわけじゃないかもしれないのが、怖いところだと思います」
春名さんは、12歳の時に朝日新聞に「いじめている君へ」を寄稿し、大きな反響を呼びました。同じ10代の投稿に、何を感じるのでしょうか。
春名 「投稿してくださるくらいなので、やはり罪の意識があって、言葉が重くてリアルですね…」
例えば、16歳の女性からの投稿(抜粋。年齢・性別などは自己申告。以下同)。
<小学校高学年の頃、私は2人の友達と一緒にいじめをしていました…(略)…本当はごめんね、ごめんねって謝りたかった。だけど2人の前でそんなことを言ったら、「なんで謝ってんの?」なんて言われてしまう。2人に嫌われたら私は1人になってしまう。怖い。結局私は謝れませんでした。
私にはその友達しかいませんでした。「あの子1人なんだ」って思われるのが怖くて、その友達とずっと一緒にいるために、いじめにのっていた。私は悪いことをしていないなんて1度も思ったことはない。
今でもその子のことや自分のした事を思い出して、泣く時があります。たまに朝の通学路でも会います。 話す機会はあるのに、謝りたい気持ちがあるのに、謝れない。私は弱い人間です>
正義感で、いじめていた
「正義感でいじめていた」という告白もありました。
埼玉県の19歳の方です。
<私は小学生の頃に、いじめをしていた。同じ通学班だった男子を猿と呼んで菌扱いし、ランドセルを蹴り飛ばし、班旗で叩いていた。ケガをさせた事もあるし、彼の親に直々に怒られた事もある気がする。申し訳ないが、あまり覚えていない。
大人にはずっといい子だと言われてきたし、男女問わず友達になれるし、周りの人にはできれば笑っていてほしい。私にとって彼へのいじめは、その延長だった。私が彼をいじめる事で、周りで見ている人が笑ってくれるのだ。いじめをしているというよりは、どちらかというと正義感だった。
最初のきっかけは、私が彼にキツい言葉でツッコミを入れたのを、周りが笑ったとかそんな些細なことだ。それがどんどんエスカレートしていじめになった。
「誰かに認められるため」「自分を主張するため」にいじめをしている人がいたら、ちょっと冷静になってほしい。「いじめること」じゃなくとも、あなたの魅力を伝える方法はたくさんある>
春名 「いじめって、承認欲求からきているものもあるのかなと。人を傷つけるというのは、傷つけられた側の人に自分を刻み込むことだと思うし、いじめることで、一緒にいじめをしている仲間にも認めてもらえる」
「でもそこで得られる承認はすぐ消えてしまうもの。それに、楽しいという感情のうしろに『次は自分がいじめられるかもしれない』という恐怖も一緒についてきてしまいますよね」
「いじめていた私」に投稿した人たちは、もちろんいじめた経験がある人たちですが、同時にいじめられた経験もあるという人が、ほとんどでした。
凶器は包丁ではなく、ただの刃
いろんな事情はあれ、やはり投稿してきた加害者たちは、罪の意識をもっていました。「許してなんて言わないから、もう一度謝らせて」「私はひきょう者だ」という後悔の言葉が、異口同音に出てきます。
いろんな事情はあれ、やはり投稿してきた加害者たちは、罪の意識をもっていました。「許してなんて言わないから、もう一度謝らせて」「私はひきょう者だ」という後悔の言葉が、異口同音に出てきます。
春名 「人を傷つける時に使うナイフって、包丁みたいに持ち手が安全だと思っていたけれど、本当はただの刃で、握っている自分だって傷ついているんですよね。人を不幸にしたという罪の意識は、すごく重いものなんですね」
「いじめている瞬間に罪の意識をもっている人って、少ないと思います。学校の中で大事にしていたものが、大人になって大事でなくなった時に、なんであんなもののために人を傷つけていたのだろうという感情につながるのかなって思いました」
「いじめは意識の外で起きている」と書いた人もいました。
17歳の女性です。
<いじめていた感覚はなかった。それが良いこととは思わなかったけど、それが悪でいじめだとも思わなかった。当時は本当に罪の意識すらなかった。でも今は私があの子を傷つけてしまったことは確かだと思っている。こんな文をこうして書くのも、私がしてしまった罪を少しでも軽くしたいからなのかもしれない。
私は、いじめは意識の外で起こると思っている。多分最初はそう。「やってはならない何か」「制御するべき大切なもの」が意識の外に出てしまった時に、いじめが始まるのかもしれない。
いじめが進んでから、意識の中に大切なものが戻って来てももう遅くて、そこからは「もうこんなことやめたい」って気持ちと、「やるしかないんだ」って気持ちでごちゃ混ぜになる。
明日は当たり前に来ない
一方で、もうひとつの投稿テーマ「いじめている君へ」には、被害者が書いたものが多く寄せられました。
こちらは、大阪府の18歳の女性。
<私は君に怒っています。きっと謝ったら許してくれるなんて思わないでください。これは遊びの一環だと言って自分に都合よく生きないでください。いじめられた子は一生その痛みを背負ったまま生きていくんです。
君が変わらない限り私は君の事を許しません。いじめられている子に明日は当たり前には来ないんです。今日生きる事で精一杯です。君がそうさせているんです>
先日、その文章にイラストをつけた絵本「いじめているきみへ」(朝日新聞出版)を発売したばかりです。
春名 「ぼくは、傍観者のつもりで書きました。やっぱり被害者が書くものは、いじめた側を責める言葉がとても多いですね。でも結論は似ているところが、興味深いです
たとえばこちらは、千葉県の16歳の女性です。
<君のこと許さないよ。だけど、君が少し変われば私は君を許せるんだ。君には絶対に私の痛みはわからない。私には絶対に君の苦しみはわからない。それが普通。
春名 「最初に許さないよって書いているのに、少し変われば許せると。いじめた側の気持ちを想像して書いているのかなっていう気もして。人の意識に絶対はなくて、変わることもある。そこに希望を持っているというのが、とても……なんだろうな……強い人ですね」
許せないのは、大人
いじめの傍観者をめぐる投稿も、あります。
いじめの傍観者をめぐる投稿も、あります。
北海道の16歳の女性。
<「傍観者も加害者だ」「見て見ぬふりはいけないこと」。確かにそうである。だがそんな勇気が誰にだってある訳でもない。「私が止めたら次は私が標的に」 そう考えてしまう人間は多くいる。酷いもので、私の周りには「みんなやってるから大丈夫」という子もいた。
私が最も許せなかったのは、子供より断然大きな力を持っているにも関わらず、知らないふりをした大人。だから一つだけ。そんな大人にはならないでほしい。一歩間違えたら人が亡くなってしまう問題だからこそ、少しだけでも手を差し伸べられるような大人になって欲しい。
春名 「いじめの加害者は、いじめているとは思っていないと言いますが、傍観者は気づいていますよね。いじめの解決は、やはり当事者同士では難しい部分があって、第三者の存在が大きいと思います」
「自分は芸能活動をしていたので、他の子とは感じ方が違うのかなって思っていました。でも、投稿を読んでみて、同年代のみなさんとの差は感じませんでした。どんな生き方をしていても、学校という空間では、あまり差はないんですね。知ることができて、本当によかったです」