古い話で恐縮だが、終戦直後の東京の焼け野原に東京都電(以下都電)がたくましく走る姿が映し出されている映画がある。1946(昭和21)年の正月映画として公開された『東京五人男』(東宝・斎藤寅次郎監督)で、名作として黒澤明監督や山田洋次監督も高く評価している作品である。
5人の復員兵が焼け跡の東京でたくましく生きる喜劇で、その中の2人(花菱アチャコ・横山エンタツ)が運転士と車掌という役どころだった。都電5014号が超満員の乗客を乗せ四谷見附付近の勾配をかけ上がってくるシーンが、焼け野原の中でいち早く復興した都電の姿を印象づけていた。
■最盛期には213kmの路線網
都電は終戦後すぐに戦災から立ち上がり、都民の足として戦後復興と高度成長期の東京の発展を支えた。現在は荒川線の12.2kmのみだが、最盛期には営業キロ約213km、最大で41系統を擁し、都内23区を縦横無尽に走った日本最大、世界的にも稀な路面電車網であった。
筆者は1965(昭和40)年初頭に上京した。初めて乗ったのは渋谷―浜町中ノ橋に至る9系統だった。思い出に残る路線は、日本橋を経由して永代橋を渡る38系統・日本橋―門前仲町間である。当時の永代通りはまだマンションもほとんど見られない時代だったが、日本橋付近ではクルマが無秩序に線路内に進入して電車の行方を遮った。
高度経済成長期、道路は慢性的に渋滞が続き電車は定時運行が困難な時代でもあったが、その中を都電は都民の足として走り続けた。
上京して都電を利用し、まず不思議に思ったのは都電の1372mmというゲージ(レールの幅)だった。当時、筆者の知識の中では国鉄在来線をはじめ主な私鉄は1067mmの「狭軌」、新幹線や一部の私鉄は1435mmの「標準軌」、そして当時まだ地方にいくつも存在した軽便鉄道は762mmだったから、都電のゲージは初めて見る規格だった。
このゲージの由来を知るには、東京の市内電車の草創期までさかのぼることになる。都電の前身は1882年に開業した東京馬車鉄道で、1900年代初頭には電化され、のちに東京市(当時)の運営する東京市電となった。馬車鉄道は1372mmゲージを多用していたため、市電もこのゲージを踏襲した。郊外から都心へ向かう民鉄も市電への乗り入れを考えて同じ1372mmゲージを採用した例があり、現在も使用しているのが京王電鉄だ。
■東京「市電」から都電へ
地下鉄が1路線だった戦前、東京市電は主要交通機関として都心の移動を一手に担っていた。「騒音地獄一巡り」と題した1935(昭和10)年の朝日新聞の記事には「騒音の王者」は新宿とあり、特に市電は「“わめく鬼”」と酷評。市電に比べるとバスなど大した問題にならぬ……とあるが、輸送力強化のため大型車両を投入したことが騒音の主因になっていたのであろうし、反面それだけ市電が活性化しつつある時代でもあったようだ。
この当時の代表的な大型車が、冒頭の映画『東京五人男』にも登場した5000形だ。1930(昭和5)年に12両が製造された東京市電初の半鋼製3扉ボギー車で新宿車庫に配備され、最大幅が2440mmと大型のため大通りを走る11、12系統で活躍。1943(昭和18)年に戦時下の輸送増強のため12両が増備された。映画に登場する5014号はその増備車である。
1943年に東京都制が施行されて、それまでの東京市と東京府は「東京都」となり、市電も「都電」となった。戦中の東京大空襲などで壊滅状態になった都電だったが運行は維持され、その後も超満員の乗客を乗せて東京の戦後復興を支えた。
そんな中、1947(昭和22)年に戦後初の新形式として登場したのが6000形だ。6年間で290両も製造され、戦後の都電の顔として活躍。1972(昭和47)年に荒川線を除く都電が廃止された際、1両を残して姿を消した。唯一残った6152号は、応急車として荒川車庫に在籍し登場時の塗装に復元されて走ったが、今は荒川遊園で静態保存されている。
戦後の都電最盛期は昭和20年代後半~30年代初頭で、この時期には先進的な技術を取り入れた電車も登場した。アメリカの先進的な路面電車「PCCカー」のライセンスに基づいて1953(昭和28)年に製造された5500形は「防振防音電車」と呼ばれた。現在は荒川車庫に隣接する「都電おもいで広場」に5501号が資料館として静態保存されている。
■荒川線を残して廃止へ
だが、昭和30年代後期から40年代初頭にかけてモータリゼーションが急速に進展し、都電の軌道敷内への自動車乗り入れによって定時運行率の低下が著しくなった。昭和30年代後半には一部路線の廃止が始まり、1967(昭和42)年には都交通局が財政再建団体の指定を受けたこともあり、路線廃止が推進されることになった。
これによって1967年から1972年にかけて181kmもの路線が廃止され、首都東京の路面電車網は事実上消滅した。だが、三ノ輪橋―早稲田間については、路線の大部分が自動車に邪魔されない専用軌道であること、バス代替ができないことに加えて都民の都電存続を望む声も大きかったため、生き延びることとなった。これが荒川線だ。
唯一の都電として残った荒川線に引き継がれた車両の1つが7000形だ。1954(昭和29)年に登場した車両だが、ワンマン化の際に車体を近代的なデザインに改装。現在も最新の制御装置とレトロ塗装に更新され、7700形として現役で活躍している。
1962(昭和37)年に登場した7500形も荒川線に引き継がれた車両である。1980年代には都電初の冷房車となり、車体も新しいデザインに更新されて、塗装もそれまでの黄色から白と緑の塗装へ一新された。こちらはすでに引退しているが、車体更新されなかった旧7500形が「都電おもいで広場」や、小金井市の「江戸東京たてもの園」に静態保存されている。
7000形や7500形の更新で面目を一新した荒川線には、その後新しい車両が次々と投入された。1990(平成2)年には7500形以来28年ぶりの新型として8500形が登場。パールホワイトに緑のラインと、明るい近代的なイメージを強調して荒川線のスター的存在の電車となった。
現在の主力は、車両によってさまざまな色のバリエーションがある8800形と8900形で、従来のデザインを一新した「東京さくらトラム」の愛称にふさわしい電車といえよう。また、レトロ電車といわれる9000形はダブルルーフ(2段屋根)など昔懐かしいデザインを再現しており、イベントにも使用できる車両として親しまれている。
■路面電車は街の顔だ
このほど東京都交通局の2017年度決算が発表された。その概要によると、荒川線の乗車人員は1743万7000人(1日平均4万8000人)で、前年度に比べて76万5000人(4.6%)増加。乗車料収入は21億3900万円で、前年度に比べて8600万円の増収となったという。乗車人員の増加は喜ばしい傾向だといえよう。
筆者はかつてヨーロッパなどで路面電車のある都市を積極的に取材した。その都市の中央駅に降りると、その目前に路面電車乗り場があり、クルマが排除され人とトラムがしっかり守られている光景を見たとき、その都市の文化水準の高さ、市民の路面電車を見つめる優しい心を感じたものだ。特にスイス、ドイツ、オーストリアなどはその印象が感じられた。
我が国でも広島、富山、福井、豊橋などで新型車両投入をはじめとする路面電車活性化の機運が感じられるのはうれしいかぎりだ。宇都宮市のLRT新設なども進んでいるが、後戻りせず積極的な導入を強く望みつつ筆を置きたい。