坊さん、遍路を決意する。

サラリーマンだった主人公が突然お坊さんになる様子をユーモアある筆致で記したベストセラー書籍で、映画化もされた『ボクは坊さん。』。その著者にして、愛媛県今治市にある栄福寺の住職・白川密成さんの新連載をお届けします。 

 栄福寺は四国霊場八十八ヵ所の第57番札所なのですが、密成さんは意外にも歩いてのお遍路参りをしたことがなかったのです。そんな密成さんの四国遍路巡りと、お坊さんとして過ごす日常をお送りします。

僕は今、遍路をはじめる

 僕は今、四国遍路を巡ろうと思っている。

 みなさんは、四国遍路のことを知っているだろうか? 
 「白装束の人が木の杖をついて歩いている……感じ」

 そんな曖昧なイメージを思い浮かべた人たちが多いと思う。

 「千キロ以上の道をひたすら歩いて88のお寺を巡る……。お遍路(へんろ)さんですよね」

 元々、少しは興味を持っている人は、そういったいくつかの具体的な情報を持っているかも知れない。

 四国遍路の札所住職である僕から見ても、この四国遍路という場所は、一種独特の場所だと思う。まず宗教的な場所のわりには若い人が比較的多い。そして最近では、国を問わず、外国人お遍路さんの姿もよく見かける。

 『ニューヨークタイムズ』の「2015年に行くべき52ヵ所 – 52 Places to Go in 2015 – 」では日本の中で唯一、四国遍路が選ばれ(記事の35番目)、フランスの雑誌『フィガロ』は四国遍路の特集を数ページにわたって掲載した。日本国内でもたびたび雑誌の特集が組まれ、地元新聞は遍路の連載をし、テレビでは『クローズアップ現代』(NHK)から『世界ふしぎ発見! 』(TBS)まで遍路企画が組まれる。

 そしてお参りする人の数自体が、とても多い。上に挙げたメディア掲載などよりも、白衣を身につけた無数の人たちが、お寺で手を合わせて祈り、毎日、拝む。その事実のほうが、はるかに大きなことだろう。

 僕の住職をつとめる栄福寺は、四国の農村の大きくはないお寺だが、この場所にも毎年、数万人の巡拝者が朱印帳(四国では納経帳<のうきょうちょう>と呼ぶ)を持って訪れる。そしてハイヒールの女性(未舗装の道も多いので、もちろんオススメはしない)から修行僧、山伏まで、あらゆる人がジャンルを超えて集まる不思議な場所だ。なんというか生活色の強いポップ感があるのだ。

 なぜそのような多様な人たちが、ここ四国に集まるのだろうか? そのことには色々な要素があると僕は思うけれど、主に①「祈り」②「死」③「身体と自然」という3つの側面を感じることが多い。

 人間の歴史が始まって以来、人は自分達の「神や仏(のような宗教的対象)」を拝まないことはなかった。しかし今、意識的には拝まない人が増えている。それでも人間の身体には、しっかりと「祈りの記憶(それは宗教の記憶と言ってもいい)」とでも呼びたくなるものが残っていて、遍路の祈りは、そのことを思い出させてくれることがある。

 そして、その祈りの中で思い浮かべるのは、なぜかここにはいない「死者」や自分自身の「死」のことである。現代では、生活の中で死に触れることが少なくなった。

 そうすると自然と、人間の目線は「生」に向かう。これは実は人間にとってアンバランスな状態である。なぜなら、人間は確実に死に、またそれを死ぬ前から知っているからだ。「死」から目を逸らした「生」は苦しい。遍路はなぜか自らに柔らかく死を突きつける。それはありがたいことだと知る人もまた遍路に集まる。

 また遍路は身体を使う行為だ。頭で考え、四国を巡るお遍路さん達は、祈り、次の寺へ移動し、また祈り、移動し、新しい町に到着すると、宿を探し明日の準備をする。

 頭で考え、感じることが多く、机と椅子の上(あるいはパソコンやスマートフォンの上)で完結することの多い中で、これもまた人間という存在の「居心地」を世界と馴染ませてくれる。そしてそれを包む光に照らされた緑や青の美しい森や海は、自らの身体もまたひとつの自然であることを教えてくれる。

 それに加えて四国遍路の巡拝者達は、それぞれが現代の「通過儀礼(イニシエーション)」を試みていると感じる。それは、例えば「大人になろうとする儀礼」であり、「誰か、何かとの別れの儀礼」であり、時には「いつか死に行く自分自身」との名づけようのない儀礼でもある。

 今、自分自身もそのような名づけようのない儀礼を求めていると感じる。そして、その人生の節目における重要な儀礼こそ、現代日本や世界の中で「薄くなっている」ものではないだろうか。

 そして、人々は四国遍路を巡る。

 
 
人々の死に立ち止まる

 書店勤務をしていた24歳の頃、寺の住職であった祖父が病を得て亡くなり、孫の僕が住職を引き継いだ。すでに高野山で、真言宗の住職になることのできる僧侶の必修修業を終えていたが、あまりにも突然な出来事だった。

 寺の名前は「栄福寺(えいふくじ)」。奈良、平安時代を生きた僧侶である弘法大師(空海)が開いたとされる、四国遍路八十八ヵ所、五十七番札所の寺院であり、空海その人が創建されたと伝わる。幼い頃から白装束のお遍路さんが自分の住む寺を訪れるのは日常的なことだった。

 住職に就任以来、目に飛び込んできたシーンは、想像以上に印象的なものだった。はるか昔に日本にもたらされた仏教経典の功徳を得ようとする伝統的な行事、死者をおくるための村の手作りの葬儀、多くの人がお金や土地などの私的な財産を「寺」という場所に寄進し続けているということ。知識として頭で知っていたことでも、現実として、その場に身を置いて経験すると、そこには今までに感じたことのなかった、くっきりとした手ざわりに満ちた感触があった。

 しかし、そんな予想を越える充実した日々の中で、僕は再び、子供の頃から抱えてきたことを繰り返し感じることになる。それもまた「死」の存在だった。―自分はいつか死ぬ。―その声が、いつも耳に響く。

 それは、幾人もの亡くなった人たちを僧侶として拝む立場にあったから、より強くそう思ったのかも知れない。死んでいった人たちの中には、老人ばかりでなく働きざかりの青年もいた、生まれたばかりの子供もいた。

 今年も、若い美容師の女の子のお葬式を拝んだ。四十九日の法要で、女の子の祖母が、笑顔の遺影を見つめ、

 「死んじゃったら笑えないよね」

 とつぶやいた。

 その様子を、僧侶の袈裟をつけた僕は、なにも言葉にせずに(できずに)眺め、経を読み、その後で、短く、弘法大師の生死感を語った。

 「起るを生(せい)と名づけ、帰るを死と称す」
 (弘法大師 空海『遍照発揮性霊集』巻第四、漢文書き下し)

 「起きてくることを生と名づけ、帰って行くことを死と呼ぶ」(現代語訳)

 死は終わりではなく、帰る、ことである。何度も話した弘法大師の言葉だ。

 自分はこの場所で必要なことを話している。そんな確かな実感はあったけれど、寺に戻り我に返ると、ふと白々しいことを、わかった顔で言ってしまったような気分になることもあった。おもえば住職になって15年、「わかった」ことよりも、「わからない」ことのほうが増えている気もする。

 「四国遍路を参ろう」

 その頃、僕はなぜだかそう思ったのだ。理屈ではなかった。今まで何度かのお遍路を経験していたけれど、今、また四国遍路に行きたくなった。歩き遍路も途中になっている。

 そして歩いて巡る「歩き遍路」の前に、「車の遍路」をやっておきたいと思った。車のトランクに弘法大師の著作を詰め込んで、夜、宿でそれをじっくり読むような遍路に憧れもあった。

 そういうわけでこの連載では、まず僕の「車遍路」の様子を描いた後で、「歩き遍路」を書いていこうと思う。また遍路に限らずお寺での日々の生活や、ちょっとした仏教の智慧にも触れてゆきたい。

 
四国を歩いた弘法大師の言葉

 「焉(ここ)に大聖(だいしゃう)の誠言(じょうごん)を信じて飛燄(ひえん)を鑽燧(さんすい)に望む。阿国(あこく)大滝嶽(たいりゅうのたけ)に躋(のぼ)り攀(よ)ぢ、土州(どしゅう)室戸崎(むろとのさき)に勤念(ごんねん)す。谷(たに)響(ひびき)を惜しまず、明星来影(らいえい)す」
 (弘法大師 空海『三教指帰』、漢文書き下し)

 「そこでこの仏の真実の言葉を信じて、たゆまない修行精進の成果を期し、阿波の国(徳島)の大滝嶽(たいりゅうのたけ)によじ登り、土佐の国(高知)の室戸崎(むろとのさき)で一心不乱に修行した。谷はこだまを返し、明星が姿を現した」(現代語訳)

 これは弘法大師、若き日の僧侶になる宣言の著作である『三教指帰(さんごうしいき)』での場面だ。空海は、修行を志し、四国の地をかけずりまわった。

 「四国遍路はいつ発生したか? という問いが立てられることは多いけれど、「なぜ四国を巡るのか? その問いに対する答えは、この言葉にすべてが含まれているように感じられる。「空海は四国を求め、歩いた」僕にとっては、それで十分だ。

 弘法大師は、日本仏教における表現でよく使われる「わびさび」のイメージよりも、どこかカラフルな熱気を帯びていて、そのことが、今を生きる僕たちを惹きつけているように思う。そしてその熱気と色彩は、今も四国に形を変えながら残っている。

巡礼とは充電である

 チベット仏教の法王であるダライ・ラマ十四世はキリスト教を信仰する人たちとの対話の中で、聖なる場所を訪れること、「巡礼の意義」について問われ、素敵な言葉を述べられている。

 「その人が霊的に達成した力が、その場所に〝充電される〟とでも言うのでしょうか、そこになにかのエネルギーを与えるのだと思います。そして、今度はその場所のほうが、そこを訪れる人に〝充電する〟ことができるのです」
(『ダライ・ラマ、イエスを語る』ダライ・ラマ、中沢新一訳、角川書店)

 これは四国遍路を巡る僕たちにとっても示唆深い言葉だ。四国遍路という場所で行われていることが「魂の充電」のようなイメージを持つと、たしかにしっくりくる。

 いつもとは違う時間の流れる遍路の中で、その地から発せられるものに、耳をすませ、自分自身を省みることに、今、僕は身をゆだねたい。

 そこには、おそらく答えめいたものはないだろう。一度の巡礼で、答えが見つかるほど、人生も仏教も甘くはない。それは知っているつもりだ。

 でも、それでも。

 今、四国遍路を巡る。

 僕の耳の奥には、学生時代に遍路団体バスのアルバイトで歌わされた『津軽海峡冬景色』のサビの部分が、なぜか流れていた(季節は冬ではないし津軽でもないのに)。