発達障害の息子と「共依存」し、ストレスで自分の髪を抜く母親の告白

ノンフィクション作家の石井光太さんが、自ら生んだ子供を手放す母親たちを密着取材していく本連載。彼女たちが「我が子を育てられない」事情とは?

ストレスで抜毛症に

母親の中には、自分では子供を育てられないとわかっていながら、手放すことができない人がいる。

このままではどんどん子供に暴力をふるってしまう。あるいは、ネグレクト状態に陥ってしまう。そう思っていても、子供を児童相談所などに引き渡すことができないのだ。

母親と子供の「共依存」が起きてしまっているのである。

ある人は、それを「母親の母性」だという。ある人は、「母親の身勝手だ」という。「何も考えていないだけ」と切り捨てる人もいるだろう。

 

ただ、私が出会った母親たちは、みな一言では片づけられないほど複雑な事情を抱えている人たちばかりだった。そんな中から、1人のケースを考えてみたい。

 

彼女は32歳だが、ウイッグをかぶって私の前に現れた。ストレスから髪を抜いてしまう抜毛症(トリコチロマニア)で、ほとんど髪が残っておらず落ち武者のようになっているという。ウイッグはそれを隠すためのものだった。

名前を、田村景子といった。

ふすまや壁には常に血しぶき

岩手県の片田舎で、田村景子は2人姉妹の長女として生まれた。次女は生まれながらにして知的障害をかかえていた。

両親は、景子が幼稚園に入園する前に離婚。父親が景子を引き取り、母親が知的障害のある妹を引き取ることになった。

父親はとび職をしていて帰宅時間が不規則だったため、保育園から小学校の低学年にかけて、景子は夜の間、父方の実家に預けられていた。父親が帰宅する午後8時頃まで、そこで過ごすのである。

 

実家の思い出は嫌なことばかりだった。叔母夫婦が住んでおり、嫌がらせを受けていたのだ。家にいる間は邪魔者扱いされて小言を言われつづけた。夕食の時は、毎日のように「あんたのお父さんは食費を入れていない」と罵倒され、塩をかけたおにぎりしか出してもらえなかった。

 

小学校中学年に上がると、1人で留守番ができるという理由で、景子は自宅で父親の帰宅を待つことになった。これが景子の生活を一変させた。酒乱だった父親は、毎晩のように景子に暴力をふるったのである。

景子は回想する。

 

「父は家に帰ってきてすぐに酒を飲むんです。最初はブツブツ文句を言って、次第にいらだって物に当たる。壁を殴る、コップを投げる、私のノートを破る……。学校で買ってもらったリコーダーを破壊され、翌日先生に『私が壊してしまいました』と言って謝った記憶もあります。

間もなく、父は私に直接暴力をふるうようになりました。訳もなく殴るんです。目の前にいるだけで拳が飛んでくるので、ふすまや壁には私の血しぶきが常についていた状態でした。一度、突き飛ばされて頭から大量出血して病院に運ばれたことがありました。薄れる意識の中で、父がお医者さんに『娘が転んで頭を打った』と説明しているのをぼんやりと聞いていたのを覚えています」

 

父親は景子に食事も服も買い与えなかったという。衣服はすべて親戚のおさがり、食事は父親の酒のつまみの余りを食べていたそうだ。そのため、景子は小学校の時に好きな食べ物を尋ねられて「鮭トバ」「漬物」と答え、好きな飲み物を「梅酒」と答えていたという。

 

発達障害の息子と「共依存」し、ストレスで自分の髪を抜く母親の告白

 

気づけば夫も父親そっくりのDV男に

こんな生活が幕を閉じるのは、小学校6年の時だった。景子は衣服をくれる親戚のおばさんと会った際に、家で父親から暴力を受けていることを話した。おばさんはすぐにこう言った。

「それは虐待よ。すぐに市役所に行って相談しなさい」

 

暴力まみれの生活に嫌気がさしていたことから、景子は自らバスを乗り継いで市役所へ行き、家庭内での事情を話した。その場で児童相談所の職員が呼ばれ、景子は一時保護された。

本心では母親のもとで暮らしたかった。だが、母親は知的障害のある妹の面倒をみるのに精いっぱいで景子を引き取る余裕はなかった。それで景子は児童養護施設で暮らすことになった。

 

施設では、人間関係をうまく築けなかった。虐待の影響で心がズタズタに引き裂かれ、荒んでいたのだろう、誰も信頼できず、試し行動ばかりとってしまう。些細なことで職員や同じ子供たちと口論になり、殴りかかることもあった。

 

高校3年の終わり、景子は6年間暮らした施設を離れることになる。施設職員を殴って怪我をさせてしまい、追い出されるような形で親戚の家に預けられることになったのだ。だが、その家はワンルームしかなく、プライバシーがまるでなかった。景子は耐えきれずに1ヵ月で家出。当時付き合っていた大学生のアパートに転がり込んだ。

 

卒業後、彼氏の家で暮らしながらパチンコ店に勤めはじめるが、間もなく妊娠。彼氏からは「学生だし金もないから堕して」と言われた。中絶手術をきっかけに、彼女の心の病が顕著になった。うつ病、極度の不振、パニック障害……。これまで保っていた心の均等が崩れてしまったのだ。

景子はパチンコ店を辞めてパートを転々としたが、精神の不安定さから、頻繁に彼氏とぶつかった。彼氏の方も景子を理解しようとしなかった。そうこうするうちに、景子は20歳で2度目の妊娠をする。最初の中絶の苦い記憶があったため、結婚して産むことにした。生まれたのは男の子だった。

 

2人は埼玉県に仕事を求めて引っ越してくるが、正社員の仕事は見つからなかった。夫は非正規雇用の仕事をしていたが、給料の大半を趣味の音楽や飲食費につかってしまう。さらに、それを非難する景子に暴力をふるいだした。

 

「気がついたら、夫があれほど嫌だった父親そっくりのDV男になっていたんです。苦痛だったのが性行為。彼は性欲だけは盛んで、毎晩のように求めてきて、私が断ると激怒して、全裸にして何時間も正座させて説教をしました」

 

「息子が成長すると、さらなる問題が出てきました。後に重度のADHDと診断されるのですが、多動の傾向があまりにひどかったんです。歩けるようになると、私が寝ている間にどこかへ行ってしまう。手に負えない状態で、私の精神状態はどんどん悪化していきました」

 

景子がストレスから頭髪を抜きはじめたのはこの頃だった。髪はあっという間になくなり、落ち武者のようになった。体重は30キロ台にまで落ち込み、3日も4日も眠ることができない。睡眠薬でようやくうウトウトすると、今度は息子がどこかへ行ってしまい、警察から連絡が入る。

 

そんな中、景子は再び妊娠をする。もうこれ以上子供は育てられない。彼女は中絶を決断。そして市の子育て支援センターへ駈け込んで助けを求めた。

「もう夫と暮らせません。DVに耐えられないし、子育てもできない。助けてください!」

 

1回目は「もう少しがんばって」と支援を断られたが、もう一度行って「お金がなくてご飯も食べられない」と訴えたところ、ようやく保護してもらった。景子は長男とともに母子生活支援施設(旧・母子寮)に入居することになったのである。

 

人里離れたところに建つアパートのような施設にいたのは3年間だった。ここで生活保護を申請し、職員に手助けしてもらいながら母子での生活を送るのだ。小学校へ上がっていた息子は改めてADHDの診断を受け、そうした子供に対する対処法を教えられる。だが、景子は精神疾患が治らないまま、「市営住宅に当選した」という理由だけで施設を出されることになった。

息子に家を乗っ取られる

市営住宅での親子2人での生活が幕を開けた。小6の息子は地元の小学校に転校したが、大きくなってADHDの傾向が強まっていた。外出する度に見知らぬ土地まで行ってしまって帰ってこられなくなったり、人とケンカして学校から呼び出されたりするようになったのだ。

やがて息子は学校で人間関係が築けず、自宅に引きこもりをはじめた。そしてストレスからさらに異常な言動をするようになる。手当たり次第に家具を壊す、景子に飛びかかる、「何も食べない」といって絶食をする……。

景子は語る。

 

「母子生活支援施設にいた頃から、こうした行動はありました。息子は小4で措置入院させられていますし、私が精神を病んだ時はレスパイト入院(介護者を休めませるための一時的な入院)されています。けど、小6になって体も大きくなり、余計にストレスを爆発させるようになったのです。私が咎めれば、殴りかかってくるような始末。対応している私の方がおかしくなって、またどんどん髪を抜くようになりました」

 

中学に上がってから、息子の暴言や暴れ癖は余計にひどくなった。そんな時、景子は家から逃げ出して何日も外で外泊した。漫画喫茶やファミレスを転々として息子がおとなしくなるまで待つのだ。家を乗っ取られたも同然である。

景子はそんな息子を家から追い出したいと考えている。もう2人で暮らすことは不可能なのだ。

 

「市にも相談しましたが、一時的な入院しか手段がないと言われています。一時入院では意味がありません。仕方ないので、警察署に行って息子の監視を頼みました。数日に一度電話をかけてもらい、息子を諭したり、様子を見たりしてもらっているのです。でも、これでは解決にはなりません。結局、私が倒れるか、息子が事件でも起こさないかぎり、助けてもらえないのです」

 

精神を病んでボロボロになった景子の姿を見れば、限界に達しているのはわかった。きっと彼女は幼少期に受けた虐待によって社会に順応できないようになり、夫のDVや息子の行動によって次第に精神疾患を悪化させていったのだろう。息子にしても、もともとADHDを抱えていた上に、精神疾患を患う母親の不適切な養育からより障害が複雑化していったに違いない。

 

ゆくゆくは共倒れに

私は景子の話を聞いて、1つ疑問に思ったことがあった。

景子は息子を手放したいけど社会がそれを許してくれないと語っていた。だが、本気になれば、何だってできるはずだ。彼女が完全に育児放棄をしてしまえば、児童相談所が息子を引き取ることになるだろう。

なぜ彼女は息子を手放すことを望んでいるのに、それをしないのか。

このことを問い詰めたところ、景子は苦々しい表情になって言った。

 

「もしかしたら、息子を手に負えないと思う一方で、息子に依存しているのかもしれません。これまで十数年間、ずっと息子との関係の中で自分の人生があった。それがなくなってしまったら自分が壊れてしまう。あるいは、どうなるかわからない。そんな恐怖があるんです。だから、いざ離れるとなると怖くなる……」

 

精神を病んでいる母親と、重度の発達障害を抱える息子とが、共依存の関係にあるのだろう。だが、一つ屋根の下で暮らしている限り、2人は傷つけ合うだけで、ゆくゆくは共倒れになるのは明らかだ。

やはりいったん離れた方がいいのではないか。そう言うと、彼女はこう続けた。

 

「息子がいなくなったら、市営住宅から出ていかなければならなくなります。そしたら、私はどこへ行けばいいんでしょう。自分じゃ、住むところを探すことなんてできません」

インタビューの前、私たちは改札口が1つしかない駅で待ち合わせたにもかかわらず、彼女は「迷子」になった。彼女はそんな不安定な自分をわかっているからこそ、息子と別れて1人で生きていく勇気がないのではないか。

 

「息子もそうなんだと思います。あの子は私にだけ甘えて、他の人には絶対に変なところを見せない。そのぶん、他のところへは絶対に行こうとしないんです。施設にだって行くはずがありません」

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息子を育てることができない母親と、抑制できない息子。この2人が支え合うように一つ屋根の下に暮らしながら、お互いを傷つけ合っているのだ。さらに言えば、こうした共依存の中で親から子へと負の連鎖が行われてしまっているのだろう。

 

日本の社会には、問題を抱えた親や子を個々に支援する福祉制度はある。だが、共依存して悪影響をお互いに与えつづけている母子をともにサポートする態勢はまだまだ整っていない。こうした親子をどう支えていくべきか。今後ももっと議論されなければならない問題である。