芥川賞は○高橋弘希(たかはし ひろき) 送り火 文學界 五月号
直木賞は△島本理生(しまもと りお) ファーストラヴ 文藝春秋
まずまず順当というか、
予想通りということに落ち着きました。
高橋弘希、
ちょっと読んでみたくなりました。
湊かなえの落選は何より。
窪美澄は残念でした。
さて今回の芥川賞では、
講談社、新潮社、文藝春秋の文芸3社が企てた盗用プロレス芸で、
中途半端に盛り上がりました。
島田雅彦は選考委員会で、
「盗用にはあたらないという共通認識はあった。ただ、(引用を)自分なりに取り込んだ上で、フィクションに昇華する努力が足りないという意見があった」
と述べましたが、
前段部分には異論があります。
「法的には問題にはならない」というのは、その通りでしょう。
引用部分はボリューム的にも小説が主で引用部分が従であるので、
マナー的には引用文献の明示があるべきだったかもしれませんが、
著作権侵害ではないでしょう。
盗用が法的に問われるのは、
一定以上のボリュームをがさっと引用する場合です。
で、
本件においては、
だからこそ悪質である、
というのが私の意見です。
法的には問題ないが、
作家の道義としてはどうよ、
ということです。
つまり、
引用部分は量的に少ない。
しかし、
複数の本から、
個々にはわずかな量を、
かなり多くちりばめているわけで、
違法ではないことを理解したうえで引用しているふしがあります。
しかも、
私の理解では、
それが文学表現として、
作品の質と個性を決める大事な部分であるように思えます。
本来なら、
その表現は作家が自らの感覚を信じ、
想像力をめぐらせ、
あるいは現場を取材したうえで、
自らの責任で書くべきところ。
そのことを島田雅彦は、
「(引用を)自分なりに取り込んだ上で、フィクションに昇華する努力が足りないという意見があった」
と指摘したわけですが、
そこは女好きの島田らしく、
その指摘は妙に優しくて気味が悪いです。
はっきりいえば、
モノを書く人間としての姿勢を疑わざるを得ませんし、
たち悪いなー、
というのが実感です。
今後、
北条裕子がどのような作品を発表していくかわかりませんが、
仮に才能がある人であったとしても、
その出発点で、
かなり重い十字架を背負ってしまったなあ、
と思いますね。
震災は創作の題材としていいな、
と思い、
でも自分の言葉では足りず、
よそから言葉を借りてきた。
この人の「創作する」という意思の源泉はなんだろう。
そこが見えないからこそ、
あの未曾有の悲劇を軽く扱っているように見えてしまう。
問われているのは、
作家としての志そのものなのではないでしょうか。
