『コクリコ坂から』観ました。
素晴らしい作品でした。
私の好きなジブリ作品ベスト5には入る!
一言でこんな作品!
とは定義できないけど、
あえて言うなら『耳をすませば』に近い系統かなー。
これまでの『ナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋』等のファンタジックな世界観とはがらっと変わって、
舞台は1963年の横浜。
(うちのお母さんが生まれた年)
東京五輪を一年後に控えた高度成長期という時代を背景に、人と人との営みがおりなされていくストーリー。
古いものを切り捨て、新しいものこそが素晴らしいと信じられていた時代に、「古いもの」「新しいもの」とどう向き合って関わっていくべきなのか、ということをすごく考えさせられた。
やし、やっぱりそれが大きなテーマのように思う。
でも、本当に一概に「こんな作品」と言えなくて、
ストーリー性、時代観(政治、食文化、男女や学生のあり方とか)、音楽、登場人物
等々、いろんな切り口からかなり多角的に楽しめる作品だと思う。
それに、主人公「海」(「メル」とも)は特異なキャラクターというわけでもない。むしろ「普通の女の子」として設定されてるらしい。
それは、監督(息子さん)の意図らしいんだけど、より「普通の女の子」らしくということで、衣装なんかを少し変えたんだって。
初めの駿さんの描いたポスターの女の子と、本編中の「海」とのイメージに少し差異があるのはそのためみたい。
だから観る側としては、「海」をそれぞれの立場からいろんな重ね合わせ方や見方ができたと思う。
だから監督が「より普通の女の子を」としたのは、受け取り手によって「海」をいろんな色に染められることを意図したからなんかな、とも思った。
ちがうか。
まあそれはどうでもいいねんけど、やっぱり私自身も「海」を自分色にして観てしまったわけです。
やっぱり強く心に残るのは〈《父》を待つ長女〉の姿
船乗りの父に向けて父が無事帰って来られるようにと、海が毎日あげる「安全な航海を祈る」を意味する信号旗。
朝鮮戦争で父を亡くした後も、毎日毎日父の帰りを待ち続けるかのようにあげる「安全な航海を祈る」。
事実として受け止めても、どんなに時が経っても、「海」の中ではお父さんはずっと生きているし、だからずっと帰りを待ってる。
それは現実逃避でも、信念でもなくて、ずっと「事実」だから。
漱石の『虞美人草』でも言われるように、この作品も「父の物語」としての色が濃いと思う。
『虞美人草』の主人公小野が宗近と甲野によって「父的要素」を与えられなければいけなかったように、「海」も〈父的な〉要素とか存在が必要なんだと思う。
〈父的〉〈父性的〉ってどんな?って言われると難しいけど、〈包むような厳しさ〉なんじゃないかなって思う。
だから海の風間くんへの「毎日父を待って旗をあげることで、父が代わりに風間さんを連れて来てくれたんだと思うことにする。」(かなりうろ覚え。)っていう言葉はしっくりきたし、一番感動・共感して涙が止まらなかった。
人は誰しも〈父性的な〉存在は必要だと思う。必ずしも父じゃなくてもいい。誰か一人でも、一瞬でも〈父〉を感じられる・求められる存在がいることの幸せに気付きたいと思った。
そんな〈父性愛〉に飢えた人物こそが『虞美人草』の小野だと勝手に思ってる。そんな小野にすっごく共感できてしまう自分に気づくとき少し怖い。
でも、「海」も私も父を知らないわけじゃない。ありし日の父の姿を、全て丸ごと包んでくれるような大きな愛を、厳しさを知っているから、〈古いもの〉を大事にしたいと思う。
〈新しいもの〉は決して、突然に当たり前にここに存在しているのではなくて、必ず〈古いもの〉を経てこそ得られるものなんじゃないかな。
だから、歴史を学ぶ意味もそこにあるんだって改めて感じたし、私たちが今ここにいる意味を考えるには、〈古いもの〉こそを知って、考えて、尊ばなければならないと思う。
だから私は古典文学を学ぶ。利便性や効率化こそを求める現代人よりもはるかにはるかに豊かな感性や心、そして人間の本質や、何より今はほとんど失われてる「日本人の心」が見えて来て本当に面白い。
(私の思想が偏ってることと、私が歴史に疎いことはおいといて、、)
こういうことを知らずに日本人として生きてるのは本当にもったいないなあって思う。
だから、こういう「日本」っていう大きな枠組みでも、自分の人生を考えるにしても、〈古いもの〉は絶対に切り話せないし、そこにこそ大切なもの、学ぶべきもの、ならう(習う・倣う)べきものがあるって私は信じてる。
だけど、後ろばっかり振り返って歩いてるような私は今すらも上手く歩けてない。
逆に前ばっかり向いてる人といるのもなかなかつらく感じることが多い。そんな人への愚かだな思う気持ちと、逆に相反して自分の無価値感が募るから。
だから「毎日旗をあげる海」からは学ぶことが多かった。
「旗をあげる」ためには必ず上を向かなければならない。
涙をこぼさないために。
未来につながる今を生きるために。
自分と愛する人の出生を知って、海たちは過去や自分の来た道っていう〈古いもの〉と向き合って、咀嚼して、受け止めて、自分たちのものにした。
そうありながら、海は旗をあげ続けて、上を向く。
「旗をあげる」の内容に関しては、「旗揚げする」なんて言葉もあるように、新しく何かを自らの手で開拓するなんて意味もこめられてるかもしれないけど、難しいしさらに脱線するから触れないとく。
こうやって考えてみると、サブタイトルの「上を向いて歩こう」がすごく身にしみた。
この時期にこの作品に出逢えて本当によかった。
思ったこと、感じたこと、考えたこと、全然うまく言葉にまとまらない(>_<)
もったいないな。
内なるものをもっともっと上手く外に出せたら、もう少し理解されたかな。
でもそういう人もなかなかいないし。
言葉にすると卑しくなる世界だとも思うし。
どこまでどんな風に言葉にしていいかって難しい。
だから論文なんか読んでると時々めんどくさくなる時もある。
何様ってね。
考えが浅いことも、感情的なことも、支離滅裂なことも、自己完結なところもあしからず。
ただの感情的備忘録。
素晴らしい作品でした。
私の好きなジブリ作品ベスト5には入る!
一言でこんな作品!
とは定義できないけど、
あえて言うなら『耳をすませば』に近い系統かなー。
これまでの『ナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋』等のファンタジックな世界観とはがらっと変わって、
舞台は1963年の横浜。
(うちのお母さんが生まれた年)
東京五輪を一年後に控えた高度成長期という時代を背景に、人と人との営みがおりなされていくストーリー。
古いものを切り捨て、新しいものこそが素晴らしいと信じられていた時代に、「古いもの」「新しいもの」とどう向き合って関わっていくべきなのか、ということをすごく考えさせられた。
やし、やっぱりそれが大きなテーマのように思う。
でも、本当に一概に「こんな作品」と言えなくて、
ストーリー性、時代観(政治、食文化、男女や学生のあり方とか)、音楽、登場人物
等々、いろんな切り口からかなり多角的に楽しめる作品だと思う。
それに、主人公「海」(「メル」とも)は特異なキャラクターというわけでもない。むしろ「普通の女の子」として設定されてるらしい。
それは、監督(息子さん)の意図らしいんだけど、より「普通の女の子」らしくということで、衣装なんかを少し変えたんだって。
初めの駿さんの描いたポスターの女の子と、本編中の「海」とのイメージに少し差異があるのはそのためみたい。
だから観る側としては、「海」をそれぞれの立場からいろんな重ね合わせ方や見方ができたと思う。
だから監督が「より普通の女の子を」としたのは、受け取り手によって「海」をいろんな色に染められることを意図したからなんかな、とも思った。
ちがうか。
まあそれはどうでもいいねんけど、やっぱり私自身も「海」を自分色にして観てしまったわけです。
やっぱり強く心に残るのは〈《父》を待つ長女〉の姿
船乗りの父に向けて父が無事帰って来られるようにと、海が毎日あげる「安全な航海を祈る」を意味する信号旗。
朝鮮戦争で父を亡くした後も、毎日毎日父の帰りを待ち続けるかのようにあげる「安全な航海を祈る」。
事実として受け止めても、どんなに時が経っても、「海」の中ではお父さんはずっと生きているし、だからずっと帰りを待ってる。
それは現実逃避でも、信念でもなくて、ずっと「事実」だから。
漱石の『虞美人草』でも言われるように、この作品も「父の物語」としての色が濃いと思う。
『虞美人草』の主人公小野が宗近と甲野によって「父的要素」を与えられなければいけなかったように、「海」も〈父的な〉要素とか存在が必要なんだと思う。
〈父的〉〈父性的〉ってどんな?って言われると難しいけど、〈包むような厳しさ〉なんじゃないかなって思う。
だから海の風間くんへの「毎日父を待って旗をあげることで、父が代わりに風間さんを連れて来てくれたんだと思うことにする。」(かなりうろ覚え。)っていう言葉はしっくりきたし、一番感動・共感して涙が止まらなかった。
人は誰しも〈父性的な〉存在は必要だと思う。必ずしも父じゃなくてもいい。誰か一人でも、一瞬でも〈父〉を感じられる・求められる存在がいることの幸せに気付きたいと思った。
そんな〈父性愛〉に飢えた人物こそが『虞美人草』の小野だと勝手に思ってる。そんな小野にすっごく共感できてしまう自分に気づくとき少し怖い。
でも、「海」も私も父を知らないわけじゃない。ありし日の父の姿を、全て丸ごと包んでくれるような大きな愛を、厳しさを知っているから、〈古いもの〉を大事にしたいと思う。
〈新しいもの〉は決して、突然に当たり前にここに存在しているのではなくて、必ず〈古いもの〉を経てこそ得られるものなんじゃないかな。
だから、歴史を学ぶ意味もそこにあるんだって改めて感じたし、私たちが今ここにいる意味を考えるには、〈古いもの〉こそを知って、考えて、尊ばなければならないと思う。
だから私は古典文学を学ぶ。利便性や効率化こそを求める現代人よりもはるかにはるかに豊かな感性や心、そして人間の本質や、何より今はほとんど失われてる「日本人の心」が見えて来て本当に面白い。
(私の思想が偏ってることと、私が歴史に疎いことはおいといて、、)
こういうことを知らずに日本人として生きてるのは本当にもったいないなあって思う。
だから、こういう「日本」っていう大きな枠組みでも、自分の人生を考えるにしても、〈古いもの〉は絶対に切り話せないし、そこにこそ大切なもの、学ぶべきもの、ならう(習う・倣う)べきものがあるって私は信じてる。
だけど、後ろばっかり振り返って歩いてるような私は今すらも上手く歩けてない。
逆に前ばっかり向いてる人といるのもなかなかつらく感じることが多い。そんな人への愚かだな思う気持ちと、逆に相反して自分の無価値感が募るから。
だから「毎日旗をあげる海」からは学ぶことが多かった。
「旗をあげる」ためには必ず上を向かなければならない。
涙をこぼさないために。
未来につながる今を生きるために。
自分と愛する人の出生を知って、海たちは過去や自分の来た道っていう〈古いもの〉と向き合って、咀嚼して、受け止めて、自分たちのものにした。
そうありながら、海は旗をあげ続けて、上を向く。
「旗をあげる」の内容に関しては、「旗揚げする」なんて言葉もあるように、新しく何かを自らの手で開拓するなんて意味もこめられてるかもしれないけど、難しいしさらに脱線するから触れないとく。
こうやって考えてみると、サブタイトルの「上を向いて歩こう」がすごく身にしみた。
この時期にこの作品に出逢えて本当によかった。
思ったこと、感じたこと、考えたこと、全然うまく言葉にまとまらない(>_<)
もったいないな。
内なるものをもっともっと上手く外に出せたら、もう少し理解されたかな。
でもそういう人もなかなかいないし。
言葉にすると卑しくなる世界だとも思うし。
どこまでどんな風に言葉にしていいかって難しい。
だから論文なんか読んでると時々めんどくさくなる時もある。
何様ってね。
考えが浅いことも、感情的なことも、支離滅裂なことも、自己完結なところもあしからず。
ただの感情的備忘録。