私は何をしていたかと言いますと、昼間はパチンコ関係の会社社屋清掃に行き終わってからは杉並区の図書館で2時間ほど清掃バイトしてました。
その日もテレビは全く見ず、ニュースも見ず仕事に行って働いてから夕方に図書館清掃に向かいました。
途中、新聞販売所前を通った時に外売り用のラックに夕刊が刺さっていました。その新聞に印刷されていた写真を見て、またどこかの国で戦争が始まったのかなと思いパッと手に取った時に見た大見だしに愕然としたことを覚えています。
以前から東京に直下型地震が来ると言われて来ていて、当たり前のように普段から震度3~4度くらいの地震ならたびたび来ている東京。それが東京で生まれ育ち住んでいる人間には当たり前で、関東大震災を経験していなくても9月1日の防災の日(1923.9.1に関東大震災があったから)には意識していました。
知り合いのコーヒーショップのママの彼氏は兵庫の人で「関西には地震なんてないから安心や(^o^)」といつも言ってました。
それがあのような大震災にみまわれるとは…。
後々にお好み焼屋で働くようになって、震災で被災したお客さん2人と知り合いました。
お1人は芦屋出身で神戸に住んでいたそうで、自身も倒壊した建物の下敷きになりなんとか瓦礫の中から助け出され、その直後から、他の倒壊家屋からたくさんの方々を救出したり亡くなった方々を運び出したそうです。
もう1人の方は東灘区に住んでいたのですが、当日は京都で飲み会がありご両親が住む家に「多分始発で帰るから先に寝ててイイョ(^o^)」と電話したのが、お母様との最後の会話となったそうです。地震を知ったのは当日にバイクで帰る道すがらだそうです。家に戻るにもなかなか戻れず、なんとか近くまで戻るもテレビや映画で見たことがあるような空襲でやられた町のように前日とは完全に違う悲惨な状況だったそうです。
2階建ての実家は完全に倒壊し瓦礫と化していて、数時間後に救出されたご両親は既に行き息絶えていたそうです。
それでもやはりこの方も隣近所のまだ助け出されていない方々の家を回って、救出作業を手伝ったそうです。
とにかく助け合う気持ち、人と人との繋がりが本当に大事だと思ったそうです。
お2人とも、それまでいろいろ小さなことを気にしたり小さなことでイライラしたりすることが多かったのが、震災を機になくなったと。
ウチの旦那さんはもちろん当時は岸和田にいて、震度4(4強だったのではと本人は感じていたようです)の地震を体験。
兵庫にある、ある筋の方々の本拠地に応援に行き、炊き出しや毛布や布団を配給する手伝いをしたそうです。
私が初めて神戸を訪れたのは復興から5年経ってからでした。高速道路は当時の悲惨な状況は想像出来ないくらい、普通の高速道路となってそこにありました。町並みも初めて訪れた私にとってはこの風景が当たり前のように写るほど【普通】の人気スポットである町並みでした。
ただ、その時もまだまだ所々にブルーシートがかけられた建物が見えたのが今も記憶に残っています。
果たして東京で大震災があったら我々は助け合えるだろうかと。そして普段からの防災に関した危機管理がどれほど出来ているか…
こんな時しか考えない自分に………(-_-)(苦)
その日もテレビは全く見ず、ニュースも見ず仕事に行って働いてから夕方に図書館清掃に向かいました。
途中、新聞販売所前を通った時に外売り用のラックに夕刊が刺さっていました。その新聞に印刷されていた写真を見て、またどこかの国で戦争が始まったのかなと思いパッと手に取った時に見た大見だしに愕然としたことを覚えています。
以前から東京に直下型地震が来ると言われて来ていて、当たり前のように普段から震度3~4度くらいの地震ならたびたび来ている東京。それが東京で生まれ育ち住んでいる人間には当たり前で、関東大震災を経験していなくても9月1日の防災の日(1923.9.1に関東大震災があったから)には意識していました。
知り合いのコーヒーショップのママの彼氏は兵庫の人で「関西には地震なんてないから安心や(^o^)」といつも言ってました。
それがあのような大震災にみまわれるとは…。
後々にお好み焼屋で働くようになって、震災で被災したお客さん2人と知り合いました。
お1人は芦屋出身で神戸に住んでいたそうで、自身も倒壊した建物の下敷きになりなんとか瓦礫の中から助け出され、その直後から、他の倒壊家屋からたくさんの方々を救出したり亡くなった方々を運び出したそうです。
もう1人の方は東灘区に住んでいたのですが、当日は京都で飲み会がありご両親が住む家に「多分始発で帰るから先に寝ててイイョ(^o^)」と電話したのが、お母様との最後の会話となったそうです。地震を知ったのは当日にバイクで帰る道すがらだそうです。家に戻るにもなかなか戻れず、なんとか近くまで戻るもテレビや映画で見たことがあるような空襲でやられた町のように前日とは完全に違う悲惨な状況だったそうです。
2階建ての実家は完全に倒壊し瓦礫と化していて、数時間後に救出されたご両親は既に行き息絶えていたそうです。
それでもやはりこの方も隣近所のまだ助け出されていない方々の家を回って、救出作業を手伝ったそうです。
とにかく助け合う気持ち、人と人との繋がりが本当に大事だと思ったそうです。
お2人とも、それまでいろいろ小さなことを気にしたり小さなことでイライラしたりすることが多かったのが、震災を機になくなったと。
ウチの旦那さんはもちろん当時は岸和田にいて、震度4(4強だったのではと本人は感じていたようです)の地震を体験。
兵庫にある、ある筋の方々の本拠地に応援に行き、炊き出しや毛布や布団を配給する手伝いをしたそうです。
私が初めて神戸を訪れたのは復興から5年経ってからでした。高速道路は当時の悲惨な状況は想像出来ないくらい、普通の高速道路となってそこにありました。町並みも初めて訪れた私にとってはこの風景が当たり前のように写るほど【普通】の人気スポットである町並みでした。
ただ、その時もまだまだ所々にブルーシートがかけられた建物が見えたのが今も記憶に残っています。
果たして東京で大震災があったら我々は助け合えるだろうかと。そして普段からの防災に関した危機管理がどれほど出来ているか…
こんな時しか考えない自分に………(-_-)(苦)