生物において最も神秘的で美しい行為は何だろう。
 

そもそも生物とはなんだろう。
 
 

生物の特徴を挙げよと言われれば枚挙に暇はないと思うがズバリこれといった定義を述べるのであればすなわち生物とは自己複製を行うシステムを有することであろう。
 
 
自己複製とは文字通り自己と同じものを複製することであるがそれは一般には生殖と呼ばれてはいる。
 
自己の複製、つまり自身のコピーとしての生命を残していく=子孫を残すという行為こそが生物が生物たる定義とされているのだ。
 
ここでもしかしたら「子孫を残す行為」という文字列を見つけて心魂の奥底に新たに発する何とも言い難い強い衝動を生じた者がいるかもしれない。

一つ言わせていただくと、そうした衝動が起こるのはこの文章を読み進めていく上ではまだ反応するのは早いというのと、もしかするとあなたは相当生物的(性的)欲求に飢えている飢え過ぎ謙信である可能性を有するので早急に対処されることを強く勧める。
 
もしかするとそうした行為に関わる部分ついてのR18のような情報が「生物の営み」から分離され、あるいは断片となって強調されてこの世の中に溢れかえっているのが原因であると思われるがここでは以上にて言及をとどめておく。
 
 
 
生殖も確かに生物にとっては重要な営みの一つであると考えることはできるが、それよりもより秩序だった生命の営みが意外と、我々の身近に存在しているような気がするので今回はそちらの方に言及することを許されたい。
 
 
 
 
 
さて本題に戻るがここで言いたいのはなぜ自己の複製が起こるのかということだ。
 
 

我々はいつまでも生きているのではなく、いずれは寿命を迎えそして死を迎える。
 
 
もしかすると、自己の複製の最終形態、つまり複製が行われなくなった状態として死があるのだと考えることもできる。
 
 
ここで言う自身の死に至るまでの自己の中に起こる複製を更新と呼ぶということにしておこう。
そしてそれはもちろん生物全てに対して言えることである。
 
 
すると生物の持つ特徴には自己の複製のほかに自己の更新も存在することになる。
 
(ここでこの節を記す直前に死なない生物がいないかどうかを調べてヒドラがヒットしたことをここに記しておく。)
 
 

では自己の更新はいつ起こるのか。それは今現在も、そして今後も生きている限りにおいては絶え間なく起きているのである。
 
 
例を挙げよう。
この文章を読んでくれているほとんど全員(もしかしたら全員ではない可能性も存在するので敢えてこういう書き方をするが)は毎日風呂に入り、体を洗うことと思われる。
 
なぜ体を洗うのか。
 
 
汚いから?
 
 
どうしてきたないの?
 
 
 
中には外の空気に触れたから体を洗うのだというある意味潔癖症じみた思想を持ち合せて体を洗っている方もいるかもしれないが、大多数は体に垢がついているから汚いのだと考えるであろう。(もちろん汗脂といった類のものも洗い流す)
 

では垢とは何か。ツイッターのアカウントである。(黙れツイ廃)それは簡単に言えば(簡単にしか私は説明できない)表面の古い皮膚が剥がれ落ちたものである。
 
 
ではどうして古い皮膚は剥がれ落ちて垢となるのか。ここまで書いてピンときた方もいるかもしれないが、そう、自身の体の中において毎日更新が起こっているからである。(生物系の人ごめんなさい)
 

毎日風呂に入って洗い流される垢を自己の更新と捉えるならば、それは我々が毎日自己の更新を行っているという何よりの分かりやすい証拠になるであろう。
 
 
毎日自己の更新がされると考えると、本当の意味でわれわれは毎日「昨日とは違う自分」でいることができる。そう思いたいだけならくよくよ何かに悩んでいるより体の垢を洗い流すという行為はよっぽど現実的である。(マジでやばい時は早めにどこかに相談した方がいいです。)
 

体表面の垢の話に限らず、我々の体は内臓や脂肪など、そのほかにも一見変化の一切ないかのように思える歯などでさえも常に更新されているそうだ。
 
 
その中で人間は自身の更新を続けていく、そのためにはその動力源がどうしても必要となる。
 
しかし人間は機械のように電池を回路に加えたら動きだしスイッチを切ったら体の全機能が全停止するといった単純な構造をしておらず、動力源を断ったとしてもこの生命の停止(=死)はゆっくりと訪れ、これもまた興味を惹くものである。
 
 
先ほどから動力源動力源と言って繰り返しているがこれはすなわち食事である。寿命を迎える迎え内の前提にはまず人間は、これも人間に限った話ではないが生物は食べなければ生きていくことができないのである。
 
 
つまり生きていくために必要な食事、これは生きているという生物としての条件、ここでは自己の更新のために必要なのだ。
そうすると我々が一般的に朝昼晩と食べるもの―もしくは生物の営みとしての食事―は自己更新を続けていくための動力源として最も身近に感じることのできる生命の活動であると言える。
 
 

食事をしていて今現在食べているものが単なる栄養源の意味にとどまらず、更新によって自身の一部となって自身を支え、そしてまた自身の一部ではなくなっていく―これほどまでに我々の意識は普段到底及ばないが美しい秩序立てられた流れはないであろうと思われるのである。

 
 
自身による自身のための自身の更新とそれを支えている食事という営み―これこそが生物が生物であるために原初にして秩序立てられている最も神秘的で美しい行為を生み出すものであるのではないかと考える。 
 
 
 
 
 
 
 
また最後に以上の文章は、もともと人間にとっての食事という営みについて生じていた私自身の疑問に対する一つの答えであることをここに記しておきたい。
 
 
 
最後まで私の拙い文章を読んでいただき大変光栄に思います。
 
ありがとうございました。
 
 
 

参考文献
福岡伸一「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書、2007年)