地球-01


ワンダラーの三つの使命

「世の終わりの戦い」において、ワンダラーが果たす主な役は、次の三つである。

① 原水爆のカルマを解く役・・(H作戦)
② 儀式に参加する役・・(山での聖戦)
③ 新しい地球の建設の役・・新しい地球の建設要員となる人を、一人でも多く他の遊星へ救うという役

①のH作戦、原水爆のカルマを解く役目は、アメリカのワンダラーが担当。なぜかというと、原水爆を最初に開発・使用したのがアメリカだからである。「原子爆のカルマを解く」という意味は、ある一定範囲の原水爆に不発処理を施すこと。日本のワンダラーは、これを援助する役割であった。

②の儀式に参加する役目は、日本のワンダラーが主に担当する。1960年に「湧玉の儀式」がきちんと行われていれば、③の使命がスムーズに行われ、今頃の地球は新しい世になっていたという。

では、なぜこの使命が遂行できなかったのか?

それは、この使命が「目に見えない世界」で行われるからである。新しい地球の創造を阻止しようとするサタン(オリオン、ルシファー)とのテレパシーの戦いであったからである。

ワンダラーが自分の使命に正しく目覚め、正しく行っていれば、きわめてスムーズに、ごく短期間に完了するはずだった。だが、ワンダラーは大きく道をはずしてしまった。形に現れてわかりやすい「H作戦」に重きを置いてしまったのである。

1960年は非常に重要な年だったのである。

ワンダラーとは、心、肉体は完全に地球人であるが、その魂は地球に属さず、他の遊星からきた存在である。ワンダラーは、地球上の各地に生まれており、それぞれの地で、それぞれの使命を果たすが、その使命は、全体として一つで、神は「ワンダラー集団」に対して一つの使命を与えられる。「一つの使命」とは「地球と人類の生まれ変わり」である。

土台が腐っていては、その上にいくら立派な家を建て直しても、すぐ傾いてしまう。根本のカルマを解くということは、腐った土台を掘り起こし、基礎から完全に家を立て替えることであり、これが「儀式」の本質的な意味なのである。

いばらの道を・・・

1960年の結末は、「悪の力」の勝利であり、ワンダラーにとっては苦しみになった。1960年の儀式に失敗したことは、「失敗のカルマ」として、集団全体、個々のワンダラーにも、魂に強く刻印される。この「失敗のカルマ」は、ワンダラー集団が次に赴く遊星に持ち越され、そこでの働きを著しく困難にするのである。

以前にも述べたが、このような失敗が地球では6回(1960年含め)あり、今度が最後のチャンスであり、ここで失敗したら、地球は完全崩壊、人類は生命第一段階に堕ちる。

阿蘇山-02


1960年10月末、金星の長老サナンダ(AZ)は、天からの最後通告を受けることになった。阿蘇山付近において、宇宙船と円盤の大編隊が現れ、テレパシーで次のように語った。 (阿蘇山という記述があるのは本日偶然に発見しました)

「その道は厳しく険しいもの、汝等いばらの道を歩まんか」

いばらの道とは、ワンダラーの辿った道でもあるが、地球人類、地球自身にとってもいばらの道となってしまった。しかし、このメッセージも当時のワンダラーの指導者には届かず、この言葉をH作戦への叱咤激励と解釈してしまったのである。残念なことではあるが、千載一遇のチャンスは失われた。

天の嘆き

1961年1月、とうとう当時のワンダラーの指導者はサタンの手に落ち、多くのワンダラーは彼の後について、誤りの道へと入っていってしまった。

「かえらぬこととはいえ、残念でした・・」(サナンダの言葉)

こうして期は失われ・・一夜でできるはずだった②の聖戦の使命は、その後32年という年月をかけて果たされていくのである。準備万端が整っていた③の使命も、もちろん行われず、ワンダラーの働きは、振り出しに戻る形になったのである。

1960年のチャンスが失われたあと、外国のワンダラーはどうしていたのであろうか?

これについては、私も詳しいことはわからないが、日本のワンダラーの使命②が終わらなければ、③の使命を始めることができないので、ひたすら待っていたのではないだろうか。

とはいえ、待つのも「いばらの道」であり、長い間に死亡したり、道を見失い別の道に進んでいってしまった人もいるようである。

  
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1960年は日本と世界にとって非常に大事な年でした。

◎ 1945年(昭和20年) 終戦。数年間、国民の生活は凄惨をきわめた
◎ 1948年(昭和23年) 米国は急に路線変更をする。冷戦時代の幕開けである。日本をソ連からの防波堤に使う方向に政策転換することになる。
    
◎ 1950年(昭和25年) 朝鮮戦争勃発 戦争特需が生まれ経済活性化する。
◎ 1954年(昭和29年) ビキニ環礁で米国核実験 第五福竜丸被曝
◎ 1955年(昭和30年) 対米自立路線を目指した鳩山一郎を党首とする民主党が誕生。鳩山は「日ソ国交回復」を目指した。

◎ 1959年(昭和34年) 皇太子明仁親王、正田美智子さんご成婚
◎ 1960年(昭和35年1月) 新安保条約・日米地位協定調印
◎ 1960年(昭和35年11月) ジョン・F・ケネディ大統領就任

◎ 1964年(昭和39年) 東京オリンピック開催
◎ 1979年(昭和54年) スリーマイル島での原発事故
◎ 1985年(昭和60年) チェルノブイリ原発事故
◎ 2011年(平成23年) 福島第一原発事故

1960年にはあの「安保条約・地位協定」が調印され、秋にはケネディ大統領が就任しているんですね。本当に重要な年だったというのがわかります。

日本は未だに安保・地位協定によって「対米属国」をひた走っています。「対米属国日本」ではなく、「真の主権国家」であったならば、アジア、世界の情勢も確かに変わっていたと思います。各国の首脳陣が日本の真の独立を望んでいる意味もお分かりになるでしょうか?まさに「日本のいばらの道」の始まりの年です。

また、ケネディ大統領がサタンによって暗殺されなければ、世界の歴史は変わっていたでしょう。その後の戦争、紛争がここまで凄惨にならなかったのかもしれません

現在の日本で行われている各種のデモですが、まさにあの「安保闘争」を彷彿とさせます。多少の意味合いは違いますが、日本国民のデモが50年以上ぶりに行われたのですから、まさに「歴史は繰り返される」と言えるのではないでしょうか?

過去・現在・未来・・・歴史を学ばなければ見えてこないものがあるんですね。

デモ-01


新安保条約

1960年1月に調印された。正式名称は「日米相互協力及び安全保障条約」だ。

1951年の安保条約が、締結期限の10年を迎えるため、条約を更新する形で締結された。この条約は、日本とアメリカの集団的自衛を定めるものだ。

日米のどちらかが武力攻撃を受けた場合、アメリカ軍と自衛隊とが共同して軍事行動をとることが決められた。さて、この新安保に対し、大規模な反対運動が起こった。

国会内では、社会党や共産党が、審議拒否・座り込みなどの国会闘争をおこなった。また国会の外でも、東大学生などが集団デモをおこなった。彼らの主張は、「米ソの冷戦に巻き込まれたくない」というものだった。

当時は冷戦構造が激化している。アメリカと同盟を結べば、日本もまきぞえになって戦争に引き込まれる、と彼らは考えた。そのために大規模な反対闘争になったのだ。

政府が、国会で条約承認を強行採決したおりには、死者が出るほどの大混乱になった。まず、東大の女子学生一名が死亡した。その他、デモ隊と警官隊の双方に数百人ものケガ人がでた。この際には、史上初めて警察が国会内に導入され、事態を落ち着かせようとした。

※ この条約については「戦後史の正体」で新事実が判明しました。今回の説明文は一般的認識として考えてください。