AGENCYと呼ばれた過去
冷戦が終了し、東西の対決がほぼ終結し20年が経つ。
それからさらに10年前、人生を変える出来事に遭遇した。
私はその時タジキスタンに居て、古武道の指導に当たっていた。
棒術の師範であり、合気道や抜刀術も修めていた私は、
現地に2年住んでいる年上の「後輩」の家で住み、
現地の日本人のコミニティーにも顔を出したりしていた。
新聞やテレビで取り上げられたこともあり、
現地では割と有名な道場になっていた。
私が首都ドゥシャンベの道場に来て2か月目のことだった。
ラダ・ニーワ(4駈)に乗ったアメリカ人が道場にやってきた。
彼は「ニューヨーク・タイムズ」の記者で、
署名入り記事を見せながら、ソ連軍の新しい「地雷」について、
我々に向かって語りだした。
彼の語るところに依れば、ソ連軍は「子供用地雷」を作ったと言うのである。
彼は、その見本を所持しており、何とかアフガンの人々に、
この事実を伝え、見本を手渡したいと言い出したのである。
実は、我々の道場には、アフガンから逃れてきた人も来ており、
まるっきり、コンタクトを取れない事も無かった。
しかし、ソ連国内でその様な事が判れば、
確実に連行されて、旧ロシア保険会社のビルに入れられるか、
或いは国外退去が強制されるだろう。
また、喩えコンタクトが取れても、必ず会えるかどうかは判らない。
タジキスタン国境にも、ソ連軍は山ほどいるのである。
地雷は、ダンプカーの形のものや、戦車のデザインのものだった。
確かに、こんなものが落ちていたら、アフガンの子供は拾って遊ぼうとする。
戦争は確かに何でもアリだろうが、子供だけを狙った物は初めて見た。
結局、私と後輩は彼に協力する事にした。
3人の乗ったランドクルーザーは、指定された国境近くの農家に着いた。
小銃を持ったおばあさんが、我々を迎えてくれた。
あかぎれの手で、「AK47」を持った姿は、
今から思えば、「天空の城ラピュタ」の海賊のばあさんみたいだった。
クルマをその農家に置いて、指示された道を確認する。
「何時彼らは現れるのか?」
と聞くと、「あんたたちに尾行が付いてないと解った時」
という返事だった。
3人は登山道ともいうべき険阻な杣道を歩き続けた。
地図に書いてくれていた、ソ連軍の「監視所」は、
見事に爆破されて無くなっていた。
まだ、タジキスタン国境を出てはいない2日目。
突然、目の前に3人のゲリラが現れた。
銃口は、キチンと一人に一つずつだった。
簡易手錠の様なもので、両手を繋がれたときには、
周りには50人ほどのゲリラが居たと思う。
その場所から道を外れて、
全くの地図にない「ゲリラ道」を丸一日歩かされた。
漸くついた場所は、渓谷の谷あいにある洞くつで、
非常に大人数がこの場所を使っていたようだった。
我々はこの一団を纏めている人物に会いたいと、
事情を聴きに来た士官クラスに説明した。
翌朝、我々はこのゲリラの司令官と逢うことができた。
彼は埃も静めるかのような深い眼差しで、
「あなた方の言いたいことを聞こう。」
と言ってくれた。
荷物から「地雷の模型」を見せたのだが、
例のアメリカ人は、同時に封筒を司令官に渡した。
中身を見た司令官は、アメリカ人に、
「私も米国に住むなら、必ずニューヨークタイムズをとるよ!」
と笑いながら話していた。
案の定、彼は「CIA」のエージェントだったのである。
恐らく、米国政府からの資金援助か何かが、
その封筒に籠められた秘密だったのであろう。
用件は済んだものの、我々は中々帰れなかった。
ソ連軍の増派が盛んになり、国境付近が全く通れなくなったからである。
彼らと共にあった2週間は、非常に有意義で素晴らしい経験であった。
私が「日本人」であると解ると、
「ロシアに勝った東洋の最初の国」だと言って褒めた。
勿論「2番目はアフガン」という事だろう。
(つづく)