この3台で好みの音がやっとでた。この組み合わせでしばらくずっと聞き続けます。
オーディオ
たまにバスの終点に意味もなく来たくなる習性。
座頭石
8月7日の昼運行で今年の弘前ねぷたは無事終了となりました。
大きな事故等もなかったようです。弘前ねぷた
岩木川とその支流の河岸段丘の上に作られた館です。一段高いところにあり昔はかなりの景勝地だったのではと思います。津軽3代藩主の別荘だったようです。弘前偕行社も昔は津軽藩主の別荘であり昔は景勝地だったと記憶しています。また火薬庫などもあったようです。ここからは個人的な推測ですが、ここは弘前城の埋門のある方角ですので有事の際の逃げ込んだり反撃の拠点にしたりと出城的な役目もあったかもしれません。また南東方向からの侵入に対する見張りの役目もあったのでしょうか?
細かいことをいいますと先に取上げた湯口茶臼館は旧相馬村、青柳館は弘前市です。平成の大合併で相馬村はいまは弘前ですが。
http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/hirosaki/aoyanagi.html
青柳館
青柳館
 この湯口茶臼館は中世悲運の長慶天皇の武官であった溝口左膳亮が上皇を守るために築城したと言い伝えられています。
その後、その子孫が溝江と改名し子孫の方がこの周辺にいらっしゃいます。下にある覚応院の住職さんも溝江氏とのこと。
ただし長慶天皇津軽下向については諸説、異論もあるそうなので参考程度に。グーグルマップで長慶天皇陵と検索すると全国に数か所出て来ます。
覚応院の敷地と思われる小さな山を登っていくと頂上の本丸跡に行けます。途中城をとりかこむような形の腰曲輪というのでしょうか?認めることができます。頂上にはお宮がありとても眺めがよく東屋も設置されています。
 相馬村にある城跡の2つ里見館、湯口茶臼館はその長慶天皇おつきの家来が居城したといい伝わるものです。


湯口茶臼館
湯口茶臼館説明版
湯口茶臼館腰曲輪
湯口茶臼館本丸
湯口茶臼館頂上からの眺め

https://kotobank.jp/word/%E6%B9%AF%E5%8F%A3%E8%8C%B6%E8%87%BC%E9%A4%A8-180389
http://www.hb.pei.jp/shiro/aomori/?c=hirosaki
 相馬(村)の城跡第2弾、持寄城です。鎌倉幕府方の武将が最後の最後に戦ったとされる城です。本州で北へ北へ逃げて最後に相馬や目屋にたどりつくのは地元の地理に精通している人間としてなんとなくわかる気がします。
 元弘3年(1333)鎌倉幕府執権・北条高時が治める鎌倉幕府は、後醍醐天皇の倒幕計画によって滅亡したが、幕府の重臣・安達高景、名越時如らが幕府の再興を期して、奥州にいて反撃の機会をうかがっていた。
それに対し朝廷は北畠顕家を陸奥守に任じ平定、落ちのびた軍勢が最後まで応戦。それがこの地であり、持寄城の戦いであると伝えられている。現在では1本の供養塔が残るだけだが、当時は、周囲を堀で巡らせ、堅牢な柵を築く山砦だったといわれている。(弘前市相馬地区HPより抜粋)

http://www.city.hirosaki.aomori.jp/soma/history/
持寄城
持寄城解説看板
ポケモンgo効果で夜でも町中に人が戻ってきたよ。いろいろ問題も起こりそうですがメリットも多そうです。とりあえず駅前公園とそれから続く遊歩道に人々が戻ってきてにぎやかでうれしいです。
駅前公園
先週の金曜日から日曜日、百石町の夜店でした。
顔が映ってない暗めの写真を一枚
百石町夜店
今日から相馬の城跡です。相馬には私の調べた限りでは3つあります。そのなかで一番シンプルなやつから。築城、館主については詳細不明です。一説には長慶天皇津軽下向の際お供した里見氏が居住したとも伝わるらしいです?次に紹介する湯口茶臼館も同じような言い伝えです。
目屋に行く新しい県道に里見橋という橋があります。そこから城跡がみれますよ。私有地になっているようですから中には入りませんでした。きちんと集落の名前が里見で残っています。
里見館
里見橋

http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/hirosaki/satomi.html
福村城。津軽為信が大光寺城攻略の後堀越城の支城として築城したそうです。城主は後に暗殺されたとされる森岡金吾氏。場所から考えるに田舎館や浅瀬石城攻略に重要な役割を果たしたのではと推測します。本丸は老人施設。熊野宮は館神の名残でしょうか?土塁の残欠があるそうですが私は確認できませんでした。第5城東地区なので住宅開発が進んでおります。老人施設前に私有地と思われますが少し堀跡と思われるものが確認されました。

福村城
福村熊野宮