懐かしい崇仏論争

覚えていますか、崇仏論争。

 

幼い頃に読んだ『マンガ日本の歴史』(タイトルは不明瞭)に、ガッツリ描かれていたことを覚えています。

 

百済の聖明王が日本に仏像を贈る。

蘇我稲目はこれを機に仏教を崇拝すべきと主張。

外国の神は不要だとする物部尾輿。

困った敏達天皇は、聖明王からもらった仏像は蘇我氏に預けてたなぁ。

 

寺院なんか建てちゃった蘇我に対して、物部は嫌がらせして、

寺院を燃やしたり、仏像を難波の海に捨てたり、

尼さんを鞭で打ったりしてたシーンが脳裏に浮かびます…。

 

物部氏はひでぇヤツだ、そう思っていました。

 

結局、物部氏は、仏教を篤く信仰する聖徳太子を含む蘇我軍に敗れ、滅亡。

 

この一連の動きを「崇仏論争」と呼んでいました。

もう、この言葉ありません。つまり、死語。

 

確認したところ、すでに1997年出版の山川『詳説日本史』にも、もうないです。

ないのですが、まだ生きてるところがあるんです!!

 

崇仏論争を載せる教科書

中学の教科書では以下の2社。

育鵬社『中学社会 新しい歴史教科書』(令和3年検定)と

自由社『中学社会 新しい日本の歴史』(令和2年検定)です。

 

いみじくもこの2冊www

とりわけ自由社のものは「仏教伝来と崇仏論争」という見出しまで付けています。

両方の記述を見てみましょう。

 

育鵬社の方は、軽く流している程度です。

わが国では6世紀後半、大和朝廷の有力な豪族の間で争いがおこりました。仏教をめぐり、積極的に受け入れようとする蘇我馬子と、これに反対する物部氏が対立し、蘇我馬子が物部氏を滅ぼしました。

こんな感じ。「崇仏論争」というワード自体はないのですが、状況からいって「崇仏論争」ですよね。

 

では自由社

 百済の聖明王は、日本との同盟を強固なものにする決め手として、552年仏像と経典を大和朝廷に献上しました。

 天皇は仏教を受容すべきかどうかを豪族たちにはかりました。国際情勢に詳しい蘇我氏は、「外国はみな、仏教を信仰している」として導入を主張しましたが、軍事と祭祀を担当する物部氏は、外国の神を拝めば、日本の国の神の怒りを買う」と述べて反対しました。これを、崇仏論争といいます。欽明天皇は結論を出さず、蘇我氏が仏教を私的に拝礼することだけを許しました。

 両者の争いは、大和朝廷の主導権をめぐる戦いにまで発展し、蘇我氏が勝利しました。

な、長い。

さすが見出しをつけているだけあります。

さらに、物部が蘇我が崇拝する仏像を難波の海に捨てるシーンを描いた絵画資料も掲載しています。

ほら。

 

 

なぜ、崇仏論争が消えたのか

では、なぜ崇仏論争が(上記2社以外の)教科書から消えたのか。

理由は以下の通りです。

 

①物部氏が本当に仏教否定派か、わからなくなってきている。

②ゆえに、物部と蘇我の対立の背景は、仏教問題ではない可能性がある。

③仮に仏教問題で対立していたとしても、物部にとってそれは、手段にすぎない可能性がある。

④崇仏・廃仏というWordが、幕末or明治チック。

 

説明しましょう。

 

①については、平成に入ったころから調査開始された、大阪府八尾市にある渋川廃寺という遺跡が背景にあります。

渋川は、物部氏の本拠地。

そこから寺の痕跡が見つかったというわけです。

なので、物部氏も仏教寺院を、しかも氏寺?を建てていたと推測できるのです。

 

遺構から、推古朝、つまり守屋より少し後の時代なので、

守屋が仏教受容していたとは断定できない

という説が有力なようですが、

 

八尾市だけでなく、愛知県や関東の方にも物部氏が関与した寺の遺構が見つかっているので、「守屋は廃仏派だ」と、ただちに断定できないわけです。

 

②物部氏が仏教を受け入れている可能性があるならば、物部と蘇我の対立は、単に政治的な主導権をめぐる対立だろうと考えられるわけです。

自由社の記述だと、まず仏教問題で対立して、結果、主導権争いになってますが、そうではなくって、勢力争いが先にありきという認識ですね。

 

③百歩譲って、仏教マターで両者がガチで対立していたとしても、それは物部にとって手段であって、本当に仏教を嫌っていたわけではない可能性がある。

あるいは、個々人や家が仏教を受容するのはオッケーだが、天皇が仏教を崇拝するのは反対という立場だったのかもしれない。

 

④どこがどうとは言えないけど、

「崇仏論争」「崇仏」「廃仏」という言葉自体が明治っぽいなぁ、

という感覚はあります。

厳密にいうなら、江戸時代からあった言葉らしいのですが、

でも、確実に室町以前にはないんですよね…。

 

明治チックな歴史Wordって、確かにあるんですよ。

 

が、とりわけ発掘成果が崇仏論争に与えた影響は大きいです。

 

単純な話ではない

だから、

蘇我。仏教サイコー

物部。仏教反対!

 

こんなふうに綺麗に色分けできる話ではないんですよね。

 

そんな背景があって、崇仏論争は教科書から消えたのだと、アゲハは思っています。

世の中そんなに単純じゃないんだよ、と。

 

試しに、自由社・育鵬社以外の中学社会の教科書を見てみましょうか。

東京出版の『新しい社会_歴史』(令和2年検定)です。

その中で、渡来人と結びつき、新しい知識と技術を活用した蘇我氏が、物部氏を滅ぼして、勢力を強め、6世紀末に女性の推古天皇を即位させました。(中略)

中国や朝鮮の影響を受けた聖徳太子と蘇我氏が仏教を重んじるようになったため、飛鳥地方とその周辺に寺がいくつも造られるようになりました。

 

次に高校の教科書を見てみましょう。

山川出版社の『詳説日本史_日本史探究』(令和4年検定)です。

6世紀中頃には、物部氏と新興の蘇我氏が対立するようになった。蘇我氏は渡来人と結んで朝廷(ヤマト朝廷の王権組織)の財政権を握り、政治機構の整備や仏教の受容を積極的に進めた。

 

ね。

蘇我の仏教推進までは言えるけど、物部の反仏教は言えないのよ。

よって、蘇我・物部との対立軸として仏教があるとは、とても言えないのよ。

 

だけど、とりわけ自由社は、単純な話として教科書に載せているわけですね。

『日本書紀』を鵜吞みにした、単純な歴史観が好きなのか、

あるいは、子どもの頃になじんだ歴史観を捨てられないのか。