タウンゼント・ハリス。

(表記はタウンセント、タウンゼンド、などがあります)

 

初代在日アメリカ領事。

1858年、日米修好通商条約を締結させた人物として広く知られています。

 

条約の不平等、つまり領事裁判権の承認と、関税自主権の喪失の2点については、別のブログでお話します。

 

さて、ハリスさん。

 

不平等条約を幕府に認めさせたということで、

現代の日本人において、ハリスさんの印象はあまり良くないのではないでしょうか。

 

ハリスさんも、アメリカ代表として来日した身ですので、当然アメリカの国益を第一に考えねばならない立場であり、その点では職務を全うしたわけですね。

 

ただし、ハリスさんは、不平等な条約を結ぶために日本にやってきたわけではない。

彼なりに熱い思いで日本にやってきて、

信念をもってこの条約を成立させた、ということをお伝えしたいなと思いました。

 

ハリスさんは、最初から外交官、あるいは公職についていたわけではありません。

実は、来日する直前まで貿易商でした。

米中間の貿易を担う実業家です。

 

アメリカが日本に開国を求めたことの背景に、米中貿易の拡大や太平洋での捕鯨が関わっていて、貿易船や捕鯨船の薪水給与や遭難船保護のために日本の港が必要だったことは習ったかも知れません。

 

まさにハリスさんは拡大しつつある米中貿易を担う1人だったわけです。

中国をはじめとするアジア各国に滞在することも多かった。

つまり、当代きってのアジア通。

 

1853年、ペリーさんが浦賀にやってきて幕府に開国を迫ったとき、ハリスさんは上海に滞在していました。

そして1年後に再訪すると幕府に告げて日本を去ったペリーさんが滞在したのも、上海。

ハリスさんは居ても立っても居られず、上海にいるペリーさんに書状を送り、

次に日本に行くとき、自分を一緒に連れていってほしいと懇願したのです。

 

自分は東洋社会の実情、とりわけ商慣行に通じている、アジアの気質も知っている。

あなたが次に日本に向かうとき、ぜひ自分も同行させてほしい、、、

おそらく、こんな感じ(笑)

 

驚きですよね。

トップレベルの実業家とはいえ、なかなかできることではないと、思います。

会ったこともないのに…。

ペリーさんも驚いたに違いありません。

 

ハリスさんがなぜ、そのように熱い思いを抱いたのか。

これについては、あとで考えてみるとして、

結局、ペリーさんは、「軍人以外の乗艦を許さぬ」ということで、

ハリスさんの申し出を断りました。ざーーんねーーん。

 

ハリスの矜持(2)