黒々とした焼杉板で覆われたその建物は、どこかモダンな匂いを漂わせる、建築家安藤忠雄らしいそれだった。
建物の内部は、入口から既に全くの暗闇だった。
左手が壁を這う感覚だけを頼りに歩を進めていくと、ある辺りで「どうぞお座りください。」という案内員の声が聞こえ、その場に腰を下ろす。コンクリートかなにか冷たい感触が背中とおしりに感じられた。視覚に訴えるものは何もない。
「見る」とは、ただ視覚から与えられる情報を受け取ることではない。思考を重ねて先を想像することや過去を振り返ってああでもない、こうでもないと考察することも、「見る」ということの一部である。人は見えなくても見ることができる生き物なのである。
そのため、こういった形で視界を奪われ、他の感覚が一層研ぎ澄まされるのと同時に、妙にゆったりとした時間の流れが私の中に流れ込んで懐疑的な気分にさせられるのも、必然と言えるのかもしれない。
五感というのは人間にとって、いささか十分すぎる感覚なのではないだろうか。
ちょうど今右隣に座っている彼が、なんでもないように振舞いながらも、実は息苦しさに喘ぎ苦しんでいるということに私が気づいてしまったのも、視覚を奪われ、見えるようになったからかもしれない。
実際に今、彼の目から涙が流れているのか、そうでないのかはここでは問題ではない。
彼の心が泣いているんだと、そのことが私の心を痛い程締め付けた。
暫くすると、部屋の奥のほうに大きな長方形のスクリーンのようなものが見えてきた。元々その部屋にあった微弱な光を、暗闇に慣れた目がとらえ始めたのだ。
「光が見えた方は、お立ちになって是非近くまでお越しください。」
案内員の声に、周囲の人たちが一斉に立ち上がる気配がした。
近づいてスクリーンのように見える光に手を伸ばすと、それはスクリーンではなく、ただひたすら空洞だった。
辺りに驚きの声が轟いた。
「自分が正しいと思ったことが、全て正解だなんて高慢ね。」
口をついて出た言葉はとても小さかったけれど、隣にいる彼には届いたのだと、彼の息を飲む気配で伺えた。
「始めからそこにあったはずなのに、気づけずに見過ごしてしまうことだってある。
生きているうちに気づけたら、それだけで儲けもんさ。生きていればやり直せる、何度だって。」
抑揚のない声でそう零した彼がそのときどんな表情をしていたのか、私には「見る」ことができなかった。
彼が私に告げたのか、それとも自分に言い聞かせていたのか、それすら当時の私には分からなかったのだから。
ジェームズ・タレルの「Backside of the Moon」を見た、この15分にも満たない時間を、私はきっと永遠に忘れないだろう。
いつだって自分の心は自分のものでなければならない。
