95 アシュラリスト 阿修羅鏡(あしゅらかがみ)

意に介せずも、今日も確執に放り込まれ、沈められる。



(荒ぶる魂よ!鎮まらないか、鎮められないか…。)



常時、口惜しくないか。何を得意がっている、何ができるという、本当に真実などがあるのか、あらゆる不善と疑いと錯乱を映し出す阿修羅鏡。この狡猾険(悪意のある意地の悪さ)は私の阿修羅鏡なのか。

真実は変わらないがイメージは勝手に動き出す。善いイメージを排除した上に悪いイメージに固定化しようとする阿修羅鏡。噴霧する懊悩自慢、飛沫苦痛比較、憤懣僭越飛ばし。しかし、壊すことは叶わない、それは自分自身だからだ。俺の俺を支えているのは阿修羅、理由ではなく、習慣でもない離脱と剥奪の狭間にもがく。

怒られることがあってもほめられることはない。

犬になるか、鬼になるか。

阿修羅に抵抗するな、阿修羅鏡が怒りに比例して余計に大きくなるだけだ。

ただ、放置しておくと阿修羅の毒が濃くなっていく。自分の眉間を割る覚悟で薄め、その気魄で毒消しをする。毒気から身を守らないと、心のない人が心に心と描いてもすり抜けてしまうように、消えてしまう。

阿修羅鏡とはまだ見ぬ破局に備えるため、その姿をあらかじめ映し出す鏡である。ほんの僅かな森羅万象(ユニバース:UNIVERSE)も見逃すな!天上と地下が同じ場所、違う時間に、ねじ曲がる空間。心の百家争鳴、精神の百花繚乱。

誘発が誘惑を導き、最悪が私を何かに向かわせる。

環境が魂を何かに仕向ける。

自然と心が方向転換される。

阿修羅鏡で幻想を見極め、テキストを軌道修正せよ、そのコントロールがゼーレを救う。カンタービレ(歌うように)に生きる、流れに逆らわず(ハドソン川の奇跡"Miracle on the Hudson")、TTB(てるてる坊主)に願いを込めて…。



心はいつもつまらないものをため込み、魂はそれらに精神という使者を送り、諦めることを促す。魂を切り裂く、降り積もる静かなる戦慄。

魂の居場所は体か心か?

切り裂いた魂の安らぐ場所、それは不安と告白。

心のジョグダイヤルはちょっと前がいい、ちょうど良いは、出遅れる、ゼーレのつまびき。勝ったときの悔しさを教えてくれる阿修羅鏡。阿修羅は勝ってはならない。他人の人生をもてあそぶな。阿修羅鏡に、いい人は映らない。幸福は隠れてはいない、いつも出過ぎているので、人は気付かなくなった。気付かれなくなった幸福はその扉を自ら閉める。閉じかけた幸福の扉を開くのは簡単ではない。理解とは、何だ。どこまでが理解だ、理解の深さは自分しか知らないがその深さは自分でさえ分からない、リアルゼーレへのレコメンド(おすすめ)は…。言論封殺、暗闇の連鎖反応、それは苦悩の反射効。クロスメディアも吸い込む阿修羅鏡。神がいないことは容易に確認できるが、神がいることを確信することは容易ではない。たゆたう魂、くべる心。一生懸命とは一瞬キラリと光ること。ゼーレの深みではしゃぐ闇。光り輝きはわずかでも目立つ。パーツでは正しいが、セットで悪くなる現実。



阿修羅と出会うかすれちがうか、それが問題だ。


ゼーレの眼目

クールベの「石を割る人々」

困難でも生活のために、つらい仕事をする。そういう仕事こそ労働者の中心に添えることをクールベは望んだか。大画面の中の二人の男、大画面に映る労働者、表情はうかがい知れぬが、無言に仕事に打ち込む親子の姿にも見える。


AEGIS シリーズ全編及び「ゼーレの眼」と画像(You Tubeコンテンツは除く)

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世の中、戦うことが多すぎる。戦わねばならないとき戦うしか、物事は進まない。優しい兵士は従属を強要され、愛も見つけられず、長生きはしない。優しさは優しさだけで、生命力の足しにはならない。しかし、私はそれをいとおしく思う。優しさは命は支えないが、思い出と精神を支える。

テーマにシンクロする曲:音譜

残酷な天使のテーゼ

http://youtu.be/TR2Dxj2T9o8


テーマに投影する絵画:クールベの『石を割る人々』
The Stone BreakersGustave Courbetカメラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gustave_Courbet_018.jpg