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| 「ハイカラでおしゃれ。モダニズムを地でいったお父ちゃんだった」と話す田辺聖子さん=兵庫県伊丹市の自宅(写真:産経新聞) |
作家の田辺聖子さん(83)の瞼(まぶた)に映る父、貫一さんは、44歳の若さのままだ。ネクタイにベスト、外出時にはイタリアブランド「ボルサリーノ」の帽子をかぶるハイカラないでたち。甲子園のテニスクラブに通い、洋画やクラシック音楽を愛する写真館の若旦那だった。当時、大阪に生産・販売拠点があったゼネラル・モーターズ(GM)の工業写真を請け負うなど米国人との付き合いも。
「昭和初期のモダニズムやったねぇ。外出のときは必ず洋食を食べ、フォークとナイフの使い方を教えてくれたわ」
「先端を行く写真館は、そうやって新しいものを取り入れていくべきだ」。父はそう考えていた。時代の感覚を先取りし、生活スタイルに積極的に取り入れる気風は少女時代の田辺さんの好奇心を刺激し、想像力を膨らませたことだろう。
明治38年創業の田辺写真館。田辺さんの祖父と曽祖母が、花見客相手にスタートし、昭和初め、大阪・福島に大きな店を構えた。結婚、七五三、入学式…。人生の節目ごとに記念写真を撮る人たちが足を運んだ。自宅を兼ねた写真館は、両親や弟妹、祖父母、曽祖母、叔父叔母、見習いの写真技師たちが暮らすにぎやかな大所帯だった。
「若い技師のお兄ちゃんたちがいっぱいいて、わいわいがやがや。ほんま楽しかったわぁ」
大阪に田辺写真館あり。「一人前に仕込んでほしい」と、地方の写真館の跡取りたちが写真技術の修業に来た。「この光線の当たり方は素晴らしい。この角度はだめだ」。技師たちは日夜、撮った写真を見ながら“口角泡を飛ばす”議論を展開。父もあれこれ弟子たちを指導していた。
そんな最中に太平洋戦争が勃発。技師たちに召集令状が届くようになり、一人、また一人と、戦地へ送られていった。
昭和20年6月、大阪大空襲。当時、田辺さんは女子専門学校に行き、留守だった。家族はみんな防空壕(ごう)に隠れて無事だったが、写真館は炎上。「入り口に大事なレンズが置いてあるんや」。燃え盛る写真館の中に入ろうとする父を、みんなが必死に押さえて止めた。
「どんな小さな所でもいい。もういっぺん、田辺写真館の看板上げるんや」。再建を願い奔走していた父は終戦の年の暮れ、あっけなく逝ってしまった。「先代の祖父から引き継いで3年。自分の代になった写真館の焼失は、相当こたえて心身の疲れが出たんやろね」
戦争さえなければ…。大阪大空襲で田辺写真館が焼失することも、父が心労で若死にすることもなかっただろう。「思い返しても、せんない(しかたがない)ことやけどね。お父ちゃんには生きててほしかった。きっと田辺写真館を建て直し、弟、そして次の世代へと受け継がれていたはず」
父の死後、「これからは私が働いて弟や妹を学校にやらなあかん」と誓った田辺さん。金物問屋の事務員となって働き、大阪文学学校や同人誌で文学修業を積んでいく。写真館の焼失、主の死、戦後の再出発-。作家「田辺聖子」の幕開けでもあった。(横山由紀子)
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≪メッセージ≫
お父ちゃんは長生きできなかったけど、戦前のモダニズムの良い時代を経験したことが、せめてもの救い。
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【プロフィル】田辺貫一
たなべ・かんいち 明治34年、大阪市生まれ。田辺写真館の跡取りとして、創業者の父親から写真師の技術を仕込まれる。外資系企業の工業写真などにも力を注いだ。昭和20年6月、大阪大空襲で写真館が全焼し、同年末に44歳で病死。
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【プロフィル】田辺聖子
たなべ・せいこ 昭和3年、大阪市生まれ。樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大)を卒業。39年、「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニィ)」で第50回芥川賞受賞。41年結婚。著書は、恋愛小説から古典、エッセーまで多岐に渡る。平成20年、文化勲章受章。
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