キングの歩み(前編)

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ブラジル時代のカズを追って 

~サッカー王国での7年半を知る人々の回想録~

(前編)


15歳でブラジルへ渡った三浦知良。様々な困難に直面しながら現地で約7年半プレーを続け、サッカー王国も認めるトップレベルの選手に成長した。カズの原点であるブラジル時代とはどのようなものだったのか? 当時を知る人々の話をもとに振り返る。

サッカー選手に求められるアスリート能力は、年々、上昇の一途をたどっている。その影響で、選手がキャリアのピークを迎える年齢は下降している。1990年代くらいまで、選手が最盛期を迎えるのは概ね20代後半だった。

 しかし、近年では20代中盤、さらには20代前半へと向かいつつある(たとえば、FIFA年間最優秀選手=2010年からFIFAバロンドール=受賞者の年齢は、2007年のカカが25歳で、2008年のクリスティアーノ・ロナウドが23歳。メッシは、2009年に22歳で選ばれて以来、3年連続で受賞している)。

 このような状況で、44歳6ヵ月(※原稿執筆当時)を越えてなお現役を続けていること自体、ほとんど奇跡と言っていいだろう。

「キング」と呼ばれる。欧州クラブで活躍する日本代表のスターたちの憧れであり、今をときめくなでしこジャパンの選手たちからも絶大な人気がある。

しかし、これまで「キング」がたどってきた道のりは、栄光ばかりではなかった。むしろ、挫折の方が多かった。困難に行く手を塞がれ、努力と工夫を重ねてそれを克服して栄光をつかみ、その後、新たな苦難に遭遇し、歯を食いしばってそれを乗り越える……。

その繰り返しだった。

 日本の中学、高校で能力を認められず、高校をわずか8ヵ月で中退。サッカー王国でプロになるという「99%無理」と言われた夢を抱き、15歳10ヵ月で地球の反対側に降り立つ。ユースレベルで結果を出し、19 歳になる直前、名門クラブと念願のプロ契約を結ぶ。

しかし、出場機会に恵まれず、ようやく出場した試合では全く力を発揮できなかった。それから、武者修行の旅に出る。南部の田舎町のクラブで腕を磨いた後、北部の海岸町のクラブでドリブラーとして人気を博する。

「キング」が「キング」になる以前に出会った人たち

 サンパウロ州内陸地の中堅クラブに入団すると、ブラジル有数のビッグクラブ相手にプロ入り初ゴールを記録。勝利に貢献して、一躍、有名になった。

南部の強豪クラブを経て、プロ初契約を結んだ名門へ復帰。今度はレギュラーとして活躍し、プロリーグ発足前夜の母国へ凱旋する……。

 その後の軌跡は、サッカーファンならよくご存知の通り。93年に発足したJリーグの顔となり、日本代表でもエースストライカーとして活躍した。しかし、「ドーハの悲劇」によって94年ワールドカップ出場を逃し、98年ワールドカップ最終予選では最初の試合で4得点の活躍を演じたが、その後は不調に陥る。

 ヒステリックなまでのバッシングを受けた後、ワールドカップ開幕直前、登録メンバーから外れた。その後、クラブで戦力外通告を受けたことが3度、監督の構想外となったことが1度あったが、その度に過去の栄光をかなぐり捨てて新天地を求めた。現在はJ2のステージに立つ。

「キング・カズ」がたどってきた軌跡は、日本はもちろん、世界のサッカー選手の誰とも違う。

誰とも似ていない。

彼の今日があるのは、ブラジルでの3年の修行時代と4年半の若手プロ選手時代の計7年半に及ぶ苦闘があったからにちがいない。「キング」が「キング」となる以前にかの地で出会った人々を取材し、当時の挫折と栄光の日々を振り返ってもらった。

1982年末、ブラジルに渡ったカズが最初に籍を置いたのが、サンパウロ市内に本拠を置く中堅クラブ、ジュベントスの17歳以下のチームだった。

 ジュベントスは、イタリア移民によって設立された総合スポーツクラブだ。広大な敷地の中に練習用グラウンド、体育館、トレーニングルームなどを完備しており、市内の別の場所に自前のスタジアムも保有している。ビッグクラブではないが、練習環境はすばらしい。

 クラブハウス近くの選手寮に住み、練習に励んだ。周囲は、プロを目指し、人生をサッカーに賭けているハングリー精神の塊のような少年ばかり。当時の日本はワールドカップに出場したことがなく、プロリーグすら存在しないサッカー後進国だったから、「そんな国から何をしに来たのか」という目で見られた。

ブラジルは極めて親日的な国だが、ことサッカーに関しては、長い間、日本は全く評価されていなかった。たとえば、この国で(人種、国籍を問わず)サッカー選手を指して「あいつはジャポネス(日本人)だ」と言った場合、それは「下手クソ」を意味していた。

 カズがユニフォームを着てピッチに立っているだけで、「おい、日本人がサッカーをやろうとしているぞ」と笑われた。練習試合や紅白戦で、自分だけパスがもらえないことも珍しくなかった。カズは、このような偏見とも闘わなければならなかった。

 サッカーと平行してフットサルのチームにも入り、テクニックを磨いた。当時、フットサルの少年チームの監督を務めていたオズヴァウドはこう回想する。

「最初は、全くポルトガル語が話せなかった。サッカー以前に、生活面で苦労していたな」

 言葉がわからないから、何を言われてもうなづくばかり。ブラジルの食事には比較的早くなじんだが、寮のベッドではノミ、ダニの襲来に悩まされた。

 また、日本から持ってきた貴重な私物が寮で頻繁に盗まれる。このことについて、オズヴァウドは、「サッカー選手を目指す子は、貧困家庭の出身者が多いから……」と口を濁す。少年カズは、このような嫌がらせにも立ち向かわなければならなかった。

 ブラジルにやってきた当初から、カズはサンパウロにある日本人経営の理髪店で髪を切ってもらっていた。

 店は、日本人、韓国人、中国人などの経営する食料品店、雑貨屋、レストランなどが密集する東洋人街リベルダーデの一角にある。客のほとんどが日本人か日系人で、店の内装は日本の地方都市の理髪店そっくり。店のオーナーが、熊本市出身で1960年にブラジルへ移住してきた木村光子さん。自らも鋏を持ち、カズの髪を切っていた。

「いつも明るくて朗らかだった。とてもおしゃれで、髪型やファッションには気を使っていたわね。散髪が終わると、たいていワンマンショー。シャネルズや田原俊彦の歌を、思い入れたっぷりのポーズで歌うの。カッコ良くて、女性従業員から人気があった」

 店では、生活面やサッカーでの苦労は決して話さなかったという。「いろいろ苦労しているらしいことは、他の人から聞いて薄々知っていた。でも、絶対に泣き言を言わないの。すごく負けず嫌いで、本当に根性があったわね」

「サッカーに全身全霊を捧げていた」

―キンゼ・デ・ジャウーのパウミーロ元会長―

 年齢別大会に出場する機会を求めて、1984年9月末、カズはジュベントスからキンゼ・デ・ジャウーへ移った。

 ジャウーは、サンパウロ市の北西約300キロの地にある人口13万人ほどの農業都市だ。サトウキビ、コーヒー、綿などの栽培が盛ん。サンパウロより暑く、真夏には気温が摂氏40度近くになる。

 この町に本拠を置くのが、キンゼ・デ・ジャウー。1990年代にリヨンなどで活躍したFWソニー・アンデルソン、2000年代にバルセロナなどで活躍したDFエジミウソンらを輩出しており、1990年代に清水エスパルスなどで活躍したFWトニーニョ、元ブラジル代表FWフランサ(元柏レイソル、横浜FC)らも在籍したことがある中堅クラブだ。当時はサンパウロ州1部リーグに所属しており、若手育成のうまさに定評があった。

 17歳のカズはクラブ近くの選手寮に住み、プロ選手を目指して懸命に練習を積んだ。当時のカズを誰よりもよく知るのが、会長を務めていたパウミーロ氏だ。「あれほどサッカーが好きで練習に打ち込む男は、それまでもその後も見たことがない。誇張でなく、サッカーに全身全霊を捧げていた」

次回、中編に続く・・