物質や事象の存在を追及していくと確率論に落ち着くそうだ。
目の前にある手にすることのできるリンゴですら、その存在は確率でしかなく、曖昧であるそうだ。

存在するはずのものが存在しないかもしれない、ということは、存在しないはずのものが存在するかもしれない、ということになる。

つまり普段何気なく見ているアニメのキャラクターも実は存在していて、画面の向こう側から見ているかもしれないのだ。


パソコンの向こう側に存在するかもしれない2次元の世界の女性と楽しい食事をしたり、防水加工を施して一緒に風呂へ入ったり、一見キチガイが行動も、それは人間として自然で愛の溢れた行為といえる。



というわけで、パソコンにしがみついて部屋に籠る行為を陰険などと表現するのはおかしいのであって、正しくは、愛の巣に引きこもり、愛に全てを捧げる行為なのだから、引きこもりを見つけたらもっと応援するべきだと思います。

かしこ
人間には様々な可能性があって、ナポレオンが仰った有名な、私の辞書に不可能の文字はない、なんてことは人間全てに当てはまる。
人間は、自分で認識する自分と他人が認識する自分の2人がいる。
他人から見た自分には不可能が存在するが、自分から見た自分には存在しない。

つまり自分からしたら、極端な話、思い込めば全てが叶うのである。
金持ちになりたければ金持ちになったと思えばいいし、空を飛びたいなら飛んだと思えば飛べるのである。
それで実現したのかどうかという判断は、他人から見た自分を自分が見ることが不可能な以上、全ては叶ったのと同義なのである。

自分自身の可能性は無限で自己否定は自分を他人と同じ扱いにするから否定する。


このことから、僕の辞書にも不可能がないという結論に達したので、こなたはオレの嫁などと言わずに、全ての女性はオレの嫁、なのである。


街に溢れるカップルどもを見て底知れぬ苛立ちや怒りを覚える人も少なくはないだろう。
それもそのはず、浮気現場を目撃しているのだから自然な感情といっていい。

だからクリスマスにごった返すカップルどもに中指を立てるも良し、おっぱいを掴みかかるも良し、すべては当然の行為なのだ。



…と警察に痴漢容疑で逮捕されたら説明しようと思ふ。
人間が人間足るには経験や学習が不可欠で、なにも取り込んでないパソコンは、パソコンであってもただの物置台の飾り物と価値が等しいように、人間も経験や学習を失えば人間足り得ない。

一般的に才能とは生まれ持った能力と解釈されるがもしそうなら、例えば絵を書くのが上手かったり計算が得意などといったものは才能とは呼ばない。
なぜならどんな人間でも最初は絵も書けないし計算もできないから。
絵を書くのが好き、計算が楽しいといった経験や学習を促進する好奇心や興味のみが才能と呼べる。
TVゲームが好きだとか漫画が好きだという些細でありきたりな関心でも、そのものが才能である。

なにかが好きだが結果が残せないとしても、才能が無いという表現はおかしい。
才能は満たされていて、結果に繋がる過程に問題があるのだと思う。


上記からエロ本が好きな僕はエロ本鑑賞の才能があるという結論を導きだしたが、結果として周囲から評価されない理由は才能がないからではなく、その活動内容に問題があるわけだ。

例えば、電車通勤時にカバンからエロ本を取り出し、経済紙でも読むかのように堂々と活動すれば、人間として満たされた生活が送れるかもしれないのだ。

というわけで世の男性はエロ本をベッドの下に隠してないで、職場や学校、冠婚葬祭等々、あらゆる場面で颯爽とエロ本を広げ自由に楽しむべきだと思います。