前回のお話で出てきた、北朝鮮の成り立ちについて今回は取り上げていきたいと思います。今回ですが、固有名詞が多くややこしいです。
北朝鮮は、ソビエト連邦による朝鮮占領期に国家の基盤が形成されました。建国当初は、北緯38度線以北の朝鮮を領土としていました。
しかし、朝鮮戦争休戦以降は朝鮮半島の内、軍事境界線以北を領土としています。
目次
1.建国のきっかけ
2.建国直後
3.朝鮮戦争
4.金日成主席の慈悲深い粛清
1.建国のきっかけ
1945年8月8日、ソビエト社会主義共和国連邦は突如、対日宣戦布告をしました。ソ連は朝鮮北東部に位置する咸鏡北道より日本統治下の朝鮮半島を次々に制圧していきました。1945年9月2日に日本が降伏したとき、ソ連は北緯38度線以北の朝鮮全域に進駐していました。
なお、1920年頃より、朝鮮半島には高麗共産党や朝鮮共産党などに代表される朝鮮人独自の共産党組織がありました。しかしソ連は、東欧の衛星国に対して採った方針を踏襲しました。すなわち、第二次世界大戦期をソ連で過ごした朝鮮人の共産党員に、権力を与えようとしました。そのため、1946年2月にソ連赤軍は、ソ連で朝鮮人共産党員の指導的役割を担っていた金日成を北朝鮮臨時人民委員会の委員長に任命しました。
金日成率いる満州派は、朝鮮の共産主義者の中では少数派でした。しかし、帰国直前にモスクワで行われたスターリンとの会談で、ソ連が樹立を考えていた朝鮮の共産党政権の指導者として認定されました。1946年11月3日に総選挙を実施した北朝鮮臨時人民委員会は、1947年2月に立法機関である「北朝鮮人民会議」を設置すると共に、北朝鮮臨時人民委員会を行政府「北朝鮮人民委員会」に再編成し、北朝鮮を統治する政府組織を構成していきました。金日成は北朝鮮の社会主義化政策を進めると共に、朝鮮共産党北朝鮮分局(後の朝鮮労働党)を結成し、徐々に反対派を権力の中枢から追放していきました。
筆者のコメント このあたり、ソ連の恐ろしさが分かりますね。
2.建国直後
朝鮮民主主義人民共和国は、ソ連の朝鮮占領軍が監督する中、1948年9月9日に独立を宣言しました。
1949年6月30日、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党は合併し、朝鮮労働党が成立しました。建国当初の朝鮮民主主義人民共和国は、まだ金日成首相への権力集中が完成されていませんでした。中国の満州でパルチザン闘争を行っていたとされる金日成の満州派の他、甲山派、南労党派、延安派、ソ連派などの勢力に分かれていました。
甲山派は朝鮮北部甲山郡を根拠地に満州派と共に東北抗日聯軍を構成し普天堡の戦いを共に戦った派閥です。南労党派は日本統治時代に朝鮮地域内で抵抗運動を続け、戦後は南朝鮮労働党を結成した派閥です。延安派は中国共産党や八路軍に所属し、抗日闘争を共闘していた派閥です。ソ連派はソ連国籍を有していた勢力です。なお、この東北抗日聯軍は朝鮮共産党の満州総局にあたる組織です。
朝鮮共産党北部朝鮮分局がソウルより分離した1945年10月10日は、北朝鮮では特別な日と考えられています。
筆者のコメント 派閥、多すぎですね。さすが、3人いれば7つの派閥ができる人たちです。
3.朝鮮戦争
1950年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国の大韓民国侵攻によって朝鮮戦争が勃発しました。午前4時ごろ北朝鮮軍の砲撃が開始し、4時半には「暴風」の暗号命令をうけた10万人の北朝鮮軍が大韓民国に侵攻しました。南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていました。6月27日には李承晩大統領による保導連盟員や南朝鮮労働党関係者の処刑命令が出されました。いわゆる保導連盟事件です。同日、韓国政府は首都ソウルを放棄し、水原に遷都しました。
6月28日、ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落しました。この時、韓国軍は漢江にかかる橋を避難民ごと爆破しました。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力での脱出を強いられました。陸軍はまたたく間に潰滅し敗走を続け、貧弱な空軍も緒戦における北朝鮮軍のイリューシン Il-10攻撃機などによる空襲で撃破されていったのでした。 北朝鮮は、ついに韓国の李承晩大統領を釜山に追い詰めました。大韓民国は、建国以来最大の危機を迎えたといって良いでしょう。
優勢だった北朝鮮の朝鮮人民軍ですが、仁川上陸作戦や多富洞の戦いにより、その優位を失い始めます。特に、多富洞の戦いでは、北朝鮮軍は装備面において圧倒的に優勢だったにもかかわらず、韓国の白善燁准将らの活躍もあり、勝利をつかむことができませんでした。北朝鮮軍はダグラス・マッカーサー率いる国連軍の朝鮮半島北上により押し戻されました。1950年10月には、韓国軍は中朝国境の鴨緑江にまで達しました。
しかし、この国連軍北上に対抗して中華人民共和国から抗美援朝義勇軍が派遣され、ソウルは再び共産主義者たちの手に渡ることとなりました。この朝鮮戦争は朝鮮半島全土を荒廃させました。国連軍によるソウル奪還後、1953年7月27日に朝鮮戦争休戦協定によって38度線を挟んでの朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国との休戦が実現しました。なお、朝鮮戦争の際の中国の介入により、中朝連合軍が結成された際、彭徳懐司令官は金日成首相ではなく延安派の朴一禹を副司令官に任命しています。
筆者のコメント このあたり、よく知らない韓国人も多いようですが、韓国人が直視すべき歴史の一つだと思います。
4.金日成主席の慈悲深い粛清
朝鮮戦争では北朝鮮による武力統一は実現しませんでした。しかし、軍事委員会委員長となった金日成首相の権力が強化されました。金日成は、甲山派・延安派・ソ連派と連携協力して、南労党派の打倒へと向かいました。1953年、朴憲永、李承燁など主要構成員13名がアメリカのスパイ、政府転覆の謀議などの容疑により次々と逮捕され、朴憲永を除く12名が起訴されました。同年の裁判で李承燁ら10名に死刑、尹淳達に15年の懲役刑、李源朝に12年の懲役刑が言い渡されました。1955年には朴憲永が起訴され、死刑を言い渡され、その後執行されました。なお、1953年の裁判で死刑を言い渡されていた被告は朴憲永の裁判まで死刑を執行されず、朴憲永の裁判に出廷し、朴憲永に不利な証言をさせられました。
この事件を契機に南労党派に対して大規模な粛清が行われ、他の南労党派も粛清を受けました。1956年4月の党大会で多くの南労党派が解任されたが、生き残ったものもいます。白南雲、朴文奎、洪命熹、許成沢は処刑を免れ、監禁されていた朴甲東は釈放されました。朴甲東によると、この釈放は1956年のフルシチョフ第一書記によるソ連共産党第20回大会におけるスターリン批判の影響らしいです。スターリン批判では、個人崇拝も批判の対象となったためです。
スターリン批判は金日成の個人崇拝を進めようとする北朝鮮にも影響を与えました。これ以降、朝鮮労働党内の延安派、ソ連派が金日成の批判を強めました。同年4月、朝鮮労働党第3回大会においてソ連のレオニード・ブレジネフは、朝鮮民主主義人民共和国に対してフルシチョフの路線への協力を求めました。
同年6月、金日成はソ連・東欧諸国ならびにモンゴルを歴訪し、経済援助を得ようとしましたが思うほどの成果は得られませんでした。スターリン批判を受け、この頃の北朝鮮国内では、延安派とソ連派が金日成の独裁体制を打倒するためのクーデターを計画したとされています。延安派の徐輝・尹公欽・崔昌益、ソ連派の朴昌玉、金承化、朴義琓などが中心的人物でした。金日成は政変が起こることを察知し直ちに帰国しました。
金日成が帰国した後、8月30日と31日に朝鮮労働党中央委員会全体会議が開かれました。ここで延安派やソ連派の幹部たちは金日成の個人独裁路線や重工業優先政策を批判しました。しかし、思うように支持を得られませんでした。逆に金日成側から党指導部に対する「宗派的陰謀」「反党的陰謀」を企てた不満勢力として処分されました。ソ連派の崔昌益、朴昌玉、延安派の尹公欽、徐輝、李弼圭らは公職から解任され党籍を剥奪されました。
延安派で駐ソ大使の李相朝がソ連共産党中央委員会に全体会議の顛末を報告し金日成の個人崇拝を断罪するよう求めたため、ソ連と中華人民共和国が共同して異例の内政干渉を行いました。翌月、ソ連の第一副首相アナスタス・ミコヤンと彭徳懐が朝鮮民主主義人民共和国を訪問して再度全体会議を開かせました。この全体会議により、ソ連派・延安派の除名処分が撤回されました。ソ連と中国の介入を求めたソ連大使の李相朝は直ちに現地でソ連に亡命しました。これは朝鮮民主主義人民共和国で最初の外交官の亡命事例です。
ソ連と中国による介入後も、金日成は延安派とソ連派に対する粛清を続けました。この影響で最高人民会議は1959年までに定数の4分の1が粛清されたため、補欠選挙が行われました。北朝鮮国内では、粛清が開始する前に懐柔されていた金昌満・南日など少数の幹部だけが生き残りました。そして、一連の政変を逆手に取った金日成の満州派と甲山派が権力をほぼ独占するようになりました。
筆者のコメント 北朝鮮は恐ろしいですね。