私は、45才で体の不調と会社の合併による環境激変が重なり退職してから、既に13年間無職で過ごしている。私の口を養うのは専ら妻の給与と、すこしばかりの障害者年金だ。生来の人間不信と人付き合いの苦手な性格が災いして、体を壊してからはあまり他人とは話をすることも少ない。せっかく「今日は寒いですねえ」なんて話しかけられても「はい」で済ましてしまう。話は広がりを欠き変な空気が流れる。いたたまれずにその場を去るのが常だが、私にはそれに対応する能力がない。そもそも寒いですねえなんてその人の主観の押し付けに他ならない。言われなきゃ気がつかないことも多い、心頭滅却すれば、火だって涼しいのである。どうせいうなら、「今日は最低気温が10度と昨日よりも4度も低いですねえ。」位言ってくれれば、「あなたはとても物知りですなあ。じゃあ最高気温はどんな予報ですか?」位のことは私にだって返答もできるのだが·····。まだ、会社に勤めているときに一念発起して、「雪がよう降るなあ」といわれた時、「これを人間が降らすとするといくらくらい費用がかかるのでしょうかなあ」と返してみたが変な顔をして黙ってしまった。やはり話は続かないのだ。このように人との関わりが持てない私は、人の集まるところには極力行かぬこととしているが、旦那寺の念仏の会というものに強い興味を引かれ、当日気が向けば出掛けてみることにした。何より自由に入場し、退場できること、行くとか行かぬとか約束も不要で、木魚を叩いて南無阿弥陀ーぶと言っていれば誰も話しかけてこぬばかりか、途中入場、途中退場すれば挨拶さえ不要なはずなのだ。もしも、寒いですなあなんて言われても、南無阿弥陀ーぶと言っていればやり過ごせそうではないか。私が数えたところ一分で約50回の南無阿弥陀ーぶが言えるのである。一時間続ければ約3000回の南無阿弥陀ーぶが言えることになる。大勢の人がいるのに、個々にはちっとも関わりがなく、みんなが同じことを言っている。こりゃあ面白いと私が思うのも皆さん頷けるのではなかろうか?
さて、今日は念仏の会の当日である。9時から開始だが、あくまでも途中入場·途中退場を狙っているので9時20分にお寺につくよう家を出た。お寺は、杖をついて歩く私の足でも5分とかからない場所にある。お供えも持たず手ぶらで、意気揚々と出かけた私を20人位の南無阿弥陀ーぶが出迎えてくれた。私も木魚のバチを持って、いざ南無阿弥陀ーぶの波へ飛び込もうとタイミングを狙う。隣の人の声を聞くとナンマイダブと言ってるように聞こえる。じゃあ私もナンマイダブと。いや、別の人はナムアミダブ、いや、ナンマイダー、ナムアミダー、ナーアンダーにも聞こえる。迷える子羊には南無阿弥陀仏を唱えるのもちっとも簡単でない。リズム的には南無阿弥陀仏とはっきりと発音するのは難しい。ナムアミダブか、ナムアミダーがベストかなと思う。そんなこんなで一日目、一時間の参加で心千々に乱れ、南無阿弥陀仏の真髄などわからずにいた。しかし、臨終のおりには必ず阿弥陀様は私を迎えに来てくれるにちがいない。無理矢理にそう思うのであった。明日2日目は、二時間に挑戦するつもりである。