知識は足跡です。思考は進む方向です。でもこれだけでは足りないのです。

 では何が足りないのでしょう。
 目標が足りないのです。今広い砂漠で歩いているとします。誰かが足跡をたどってきたら"どこに行くのですか?"と聞くでしょう。なぜなら足跡とその進む方向だけではどこに行くのかわからないからです。

 目標は必ずなくてはいけないのでしょうか。
 それはわかりません。しかし目標があるほうが歩きやすいのは事実です。目標がなくても歩くことはできます。それはただ単純にやる気の問題です。つまり歩くか歩かないかです。

 さて、口から出る言葉には3つの種類があります。今まで説明してきた知識、思考、目標です。
 言葉では、知識は二次的な情報です。必ず誰かから聞いた、何かから見たという言い替えができます。
 言葉では、思考は一次的な情報です。それは内からくる感情や知識と知識を繋ぐもの、理由やインスピレーションなどです。
 言葉では、目標は目標のままです。何々がしたい、将来の夢などです。
この中で言葉だけで他人に伝えることが一番簡単なのは知識です。知識は二次情報ですから自分以外でも知っている人がいるからというのも理由のひとつですが、知識というのは言葉に出すだけで相手に知識として伝わるからです。それで十分かどうかは問題ではありません。もし相手が納得しなかったら、それ以上の知識を得る努力をするのは相手の仕事です。

 それに対して思考は相手が納得するまでつきあわなくてはなりません。なぜならそれを伝えられるのは自分一人だからです。もしかしたら前に納得してくれた人がいて助け船を出してくれるかもしれませんが、その人が本当に理解しているかは別問題です。
 目標も自分で伝えなくてはいけませんが、思考よりも大変ではないでしょう。なぜなら、思考より単純にであることが多い上にあまり他人の目標に興味がないからです。あったとしても"何故"なのかを問われることが多く、これは思考の説明になるからです。


続く。
 知識は足跡であり、現在と過去のものだと前回書きました。

 では思考はなんでしょうか。
 思考は道もしくは進む方向です。
 どの方向に行けば幸せになれるか、金持ちになれるか、楽かなどは足跡とその先にいる人の現状を見ることである程度予想できます。足跡と現在の人の姿を見て、自分はどうすればいいのかと考えるつまり思考するわけです。

 では思考の正しさとはなんでしょうか。
 思考が正しいとは、思考したことをそのまま実行して、自分の思った通りの結果を出せるということです。
 思考の正しさは未来にならないとわかりません。よって、誰も他人の思考を否定できません。
 しかし私達は他人の意見を否定的に思うことがあります。私達は、他人の目標と他人の思考と足跡を見て、未来を予想することができます。そして、他人の目標と予想した未来が違う場合、他人の意見を否定的に思うのです。

 
 何故予想した未来は人によって違うのでしょうか。 これは足跡に対する印象が違うからです。同じ足跡を見ても印象が違えば目標や思考に対する重要度が違ってきます。同じ映画や小説を見ても感動したりしなかったりする人がいるのと同様のことが知識に対しても起こっているのです。
 そして、知識と目標が同じでも印象が違えば、思考が違うということも起こります。
 実際には知識が同じというのはあまりありませんが、知識の有無だけではなく知識に対する印象も思考に与える影響は大きいのです。


続く。
 この世のすべてを知っている人の思考が正しいとは限りません。

 知識は過去または現在のものです。過去に正しかった知識が現在では正しくなかったり、現在正しい知識が将来正しくなくなったりします。
 しかし、過去でも現在でも未来でも、その瞬間において、正しい知識は決まっています。(「人間は哺乳類である」というのは現在正しいですが、20年後には正しくないかもしれません。しかし、「人間は哺乳類である」、「人間は哺乳類ではない」とゆうそれぞれの知識はどちらも、それぞれの時代においては正しいです。)
 これは知識が足跡だからです。
 私達は生きながら足跡をつけています。地面についた足跡は、いくらか制約はありますが、自由に見ることができます。
 現在足跡が100個あるとします。その足跡を見て「人間は哺乳類である」と決めます。20年後には足跡が300個になりその足跡を見て「人間は哺乳類ではない」と決めます。20年後の世界の人々にとって現在の人々の知識は幼稚だと感じるかもしれません。しかし、現在の人々は何も恥じることはありません。知識の正しさにおいてはどちらも同じだからです。



続く。