2025年12月
ここはJR東日本 鎌倉総合車両所だった所いわゆる「JR大船工場」と言われる所です
木製の柱が1本だけ残ります
海軍時代のものかJR時代のものか不明
横須賀海軍工廠の拡張が計画されたのは1941年一旦は逗子市池子が分工場立地に内定するも、池子には火薬庫があり工場建設には危険が伴うとのことで、海軍は新たな候補地の選定を急ぎました
四方を山に囲まれた広大な土地であるこの場所が最適であると判断した海軍は、1942年1月、工事拡張先をここ深沢に決定1942年7月、「横須賀海軍工廠造兵部深沢分工場」の建設が決定
1942年9月、海軍の手によって工事開始
1943年4月、建築開始
この分工場は魚雷の生産を目的とし、魚雷組立工場、第一魚雷部品工場、第二魚雷工場、精密工場などの建物を次々と完成させました(最終的に9棟)1943年10月、海軍幹部と熟練工約200人で稼働開始

建物は急ごしらえの木造でしたが、数多くの精密機械を備え、当時呉など全国数ヶ所で生産していた魚雷工場の中でもトップクラスの生産高であったといわれています
二式魚雷は最盛期には月産60台
そのため従業員も増加、1945年5月には職員、労働者、勤労動員学生(中学生~大学生)、受刑者、植民地時代の朝鮮人労働者など、全てを含めて3,139名にも達し、さらに増員計画もあったそうです
戦火が激しくなるにつれ、ここ深沢分工場でも労働力不足が甚だしくなり、魚雷の生産は動員学徒に頼らざるを得なかったそうです(成年男子は前線に出払っていますからね)
ただ末期的様相を示し始めた戦局下では、もはや学徒たちが手掛ける作業は残っていませんでした
1945年8月15日、終戦を迎えた深沢分工場の従業員は約2,800名でしたが、この頃にはほとんど魚雷も生産されず、工場から魚雷が運び出されることはありませんでしたこの工場は米軍の空襲で爆撃を受けたことはなく、終戦まで工場の施設はそのまま残っていました

その後、運輸省からこの分工場を鉄道工場に転換する希望が出され、1945年10月、当時の占領軍の許可を得て鉄道工場への転換が実現
そして、東日本旅客鉄道株式会社が鎌倉総合車両所として使用しました
鎌倉市中央図書館近代史資料収集室 CPCの会「鎌倉・太平洋戦争の痕跡」


