大日本帝国が負けた日です。

どうも、その事実を受け入れきれない人がいるようですが、何がどうであれ、この国は一度負け、そして新たな国として生まれ変わったのです。その経緯がどうであれ、です。完膚無きまでに叩きのめされた、それを思い知らされた日です。

忘れたのなら、思い出すべきでしょう。それだけは、未来永劫、変わることのない事実ですから。

底を受け入れたうえで、新たな世界を築く必要があるのですが、残念なことに、その事実を受け入れがたいと思っている人々の集まりが、旧態依然としてこの国に蔓延っていることもまた事実のようで、その証拠に、明治維新を成し遂げた者の末裔が、今も尚、政府中枢に巣食っています。つまり、彼らの先祖が成し遂げた国の形を取り戻そうとしている人たちです。

そもそも、政治家が世襲されるということ自体、愚の骨頂。民主主義の根幹として、あるべきことではありません。世襲すれば、利権が絡んで来るのも当然のこと。少なくとも2代先まで、血縁から政治家を出すべきではないと思います。

そんなことだから、証拠がないから事実かどうかわからないとか、だから謝辞すべきではないとか、器の小さなことを申し述べて、結局争いでしか物事を解決させる手段を知らない輩が増幅してくるという次第です。恥ずべきことです。

かといって、どこの国がどうしているから、日本もそうすべきであるという意見も乱暴です。余所は余所ですから。

善し悪しより重要なことは、これからどうすれば武器を持たず、殺し合わず、話し合いだけで解決できる健全な世界を築いていけるかということを考えること。それ以外にはありません。このまま殺し合いやいがみ合いを続けて、何になるというのでしょうか。一部の人々の利益のために、殺し合いを認めることはありません。

話し合い、認め合い、平和を保つ努力をすることこそ、文明人の務めというもの。それを武器を持って暴力で解決させようという蛮行を認めるようなことは、愚者の極みをひけらかすようなものです。みっともない。

いかなる理屈があろうとも、戦争は殺し合い。
その事実だけは、決して曲げられません。

今日という日こそ、そのことに想いを馳せる日です。

ポケモンGOに興じていられるのは、平和があってこそ。決して前線に立たない、立とうとしない人のために、命を危険にさらされ、自由を奪われ、好きなように弄ばれたくなければ、考えるべきです。
選挙は毎回、参加しなければなりません。選挙を放棄することは、自分の生きる場所を放棄することですから。とはいえ、今は選挙の放棄云々を言いたいのではなく、今回の選挙は是が非でも参加する必要があるということとを申し上げておきたいと思います。

改憲。

アベノミクスやらなにやら(これらもすべてうまくいっておらず、これを押し上げようとする考え方自体愚かであると私は思いますが)、そのようなものよりも何よりも、今回の参議院選挙はこれが争点になっているといえるでしょう。そして改憲することは、単に自衛隊が軍になるという単純な問題だけでなく、いずれは徴兵制、国家治安維持法といった戦前の悪習を復活させようという動きに他ならないわけです。

こと徴兵制に限っていえば、戦局が悪化することさえなければ、40代以降のジジババには関係のないこと。前線に行って命を失い、命を奪い、大けがをし、極限の中で戦うのは20代が中心となります。これから先、少子化になっていく中で、若者の命だけが危険にさらされて、ジジババを他国から守れと言われるのです。

改憲に賛同するジジババは特に、自分の子どもや孫が戦に取られて死んでも、文句を言うべきではないでしょう。何なら、自ら特攻にでも志願すれば良いのです。自ら最前線に立って、銃や剣を取って戦うべきでしょう。それをしないで若者だけを命の危険に晒そうというのなら、これほど愚かしいことはありません。

それでも良い、という人だけが、改憲に賛同するべきでしょう。若い人たちは特に、自分の命が危険に晒されることを自覚するべきでしょう。自民党も公明党も、特に自民党の改憲草案に賛同するようであるならば、死んでもいいのだという意思表明であると思うべきです。

明後日。
その運命の扉が開くかもしれません。

単なる老婆心に過ぎないお話しになることを、願って止みません。

http://constitution.jimin.jp/draft/
憲法を変える……それも、戦後は戦争を放棄すると教育してきた第9条を変えて、自ら国を守るためにと嘯いて軍隊を持つようにするように変える。

そんな話がありますが、それを訴えている人の多くは、自らが武器をとって人殺しをする必要のない爺か婆です。

櫻井よし子という人は、自分たちを護るために、若人は命を懸けろと言っていることに気がついているのでしょうか。暴力から身を守るのに暴力で対抗できないのは、憲法として間違っているという割には、自らの手を汚しはしません。いざ暴力が振るわれようとしたとき、彼らは己の命を守るために、若人を盾にしようとしているのです。人殺しをしてこいと若い人たちに命じるのです。

よくよく考えてください。

人殺しにいかない立場で、国を守ることを言い訳にして、若い未来ある人々を戦場に送り込もうとしている人々。彼らは、自分が人殺しにいくことを想定してはいないのです。戦争に行ったこともなければ、これから先、戦地に赴く可能性すらない立場の人が、何故若人に、人を殺せと訴えるのでしょうか。

極論ですか?
いいえ、決してそうとは言えません。

彼らが言う外的危機というのは、暴力のことであり、それに対抗できる機能を持つことは近代国家として当たり前のことだということは、暴力を振るわれたら暴力をもって仕返しする権利があるという主張です。何と幼稚な発想でしょうか。何と野蛮な思考でしょうか。そしてそれは、言いがかりをつけて自ら人殺しの舞台に上がることすら可能にするということなのです。今までの歴史が証明してきたとおりに。

若者に銃をとって人を殺せ、国を守れと訴えている彼らは、自らの手では決して銃をとることをしないでしょう。そのような人々の意見に耳を傾けること自体、おかしなことです。少子化に歯止めをかけようと訴える一方、育てた若者を戦地に送って人殺しをしろ、国のために死んで来いという人々の言うことなど、聞く甲斐もありません。

あれは卑劣な生き物です。

気をつけてください。