これは、小学生の頃に体験した決して忘れられない恐怖の物語です。


夏休み、父と姉と共に茨城県にある山奥の親戚の古民家を訪れました。その家は苔むした木々に囲まれ、夜になると街灯ひとつなく、黒い闇がすべてを飲み込むような場所でした。風が木の葉を揺らす音さえも不気味な囁きのように響き、古びた家の柱は軋む音を立てながら、まるで見えない何かが歩き回っているかのような錯覚を与えました。


親戚のサトシくんと裏庭の小屋でかくれんぼをしている途中、埃まみれの古い箱の中から一枚の手鏡を見つけました。その鏡はくすんだ銀色の縁が錆び、冷たい金属の感触が手にひんやりと伝わってきました。鏡面は厚く積もった埃と汚れで曇っていましたが、指でそっと撫でた瞬間、不気味なほど澄んだ鏡面が現れました。そこに映る自分の顔は、どこか違和感を伴い、目の奥が暗く沈んでいるように感じました。


持ち手には、かすれた文字が刻まれていました。「○み○い用」…。誰かのお古の手鏡だと思った私は、何の気なしに家に持ち帰ることにしました。帰宅後、水道で埃や汚れを洗い流すと、くっきりと「恨みれい用」という文字が浮かび上がりました。幼い私は、その不吉な意味を理解することもなく、ただ奇妙な装飾が施された鏡だとしか思いませんでした。


その夜、手鏡を覗き込んでいると、頬に小さな腫れ物があることに気づきました。翌朝になるとそれは黒く膨れ上がり、異様なほど太く硬い毛が生えていました。恐怖と不安で胸が締め付けられる中、父に打ち明けると、彼は青ざめた顔で車を走らせ、再び親戚の家へ向かいました。


親戚のおばあちゃんの家に到着すると、彼女は私の顔を見るなり、無言で古びた三面鏡の前に座らせました。おばあちゃんは低く湿った声で呪文のような言葉を呟き始め、空気が凍りつくような気配が漂い始めました。その瞬間、鏡の中から現れたのは、赤い服を着た長い黒髪の女。女の表情はまるで生気がなく、暗い瞳は深い憎悪の淵を覗かせていました。女はゆっくりと手を伸ばし、鏡越しに私の首を絞めつけてきました。氷のように冷たい指先が肌に食い込み、息が詰まり、視界は暗転していきました。


気を失った私は、どこか分からない暗闇の中で目を覚ました。そこは現実とも夢ともつかない不気味な空間で、足元には赤い服の女が立っていました。女の目は血走り、焼けただれた皮膚はひび割れ、黒ずんだ肉が不自然に顔を覆っていました。布団を引き剥がす女の手は骨ばって冷たく、私は恐怖で体が動かせず、ただ震えるだけでした。


その瞬間、暗闇の中から親戚のおばあちゃんが現れ、呪われた手鏡を女に向けました。女は耳をつんざくような悲鳴をあげ、歪んだ表情のまま鏡の中へと吸い込まれていきました。


目が覚めると、私は親戚のおばあちゃんの部屋にいました。彼女は静かに語り始めました。それは、この家に住んでいた少女、名を「みれい」といいました。みれいは美しい顔立ちを持ち、自分の姿を映す手鏡を何よりも大切にしていました。しかし、火事の事故で顔に大きな火傷を負い、醜く変わり果てた自分の姿に絶望し、やがて鏡そのものを憎むようになったのです。その強い怨念は手鏡に宿り、彼女の魂もまた鏡の中に囚われ続けました。


今も私の頬には黒い痣が残り、そこから不気味な毛が生え続けています。夜になると、鏡の中からみれいの視線を感じることがあり、ふと振り返っても誰もいないのに、ガラス越しに赤い影が揺らめき、耳元では遠くから囁く声が聞こえるのです。


あの手鏡が今どこにあるのかは分かりません。しかし、みれいの呪いは今も私の中で生き続け、静かに、そして確実に私を蝕んでいるのです。


そういえば、最近ふと気づいたのです。私の部屋の鏡の端に、かすかに赤い染みのようなものが浮かび上がっていることに。


……それが、ただの汚れであることを願うばかりです。


あなたの後ろには、誰か立っていませんか?


 

個性とはなんだと思いますか?

 

個性って一体何かわからない人も

見ている人の中にもいると思います。

 

そこで、

人が求めている個性って何か

私なりに考えてみました。

 

 

私が思うに「個性」とは、

 

‟自分らしい話し方・表情をする人”

 

なのではないかと思います。

 

 

 

特に

会社や学校の場面を題材に言うと、

 

個性を生かして働くとは

自分らしい表情で話ができ、

場の空気を作りながら自然と

仕事ができることではないかと思います。

 

そういう人に会うと、

感じのいい仕事のできる人

って私は感じます。

 

 

しかし、

個性を間違えて捉えている人を

会社や学校で見かけると

少し残念な気持ちになります。

 

会社や学校で

奇抜な行動や言動、見た目などで

個性を主張しようとすると、

 

周りの人の反応は

「なにそれ。」という視線をします。

 

あからさまにはしませんが

皆さんもそう思うのではないかと思います。

 

それは、言い換えると

 

「己所為」(こせい)

 

になってしまっているのだと思います。

 

 

私がこの答えに行き着いたのは

自分もそういう人間だったからです。

 

少し貧しい家に生まれたこともあり、

小さい頃から自分のことは自分ですることが

当たり前になりました。

 

そうすると人は不思議なもので

「自分は正しい。間違っていない。」

そういう思い込みをするように

なっていきます。

 

そして、

友達に何を言われても

「個性を大事にしたいだけだ」

と思うようになります。

 

曲げたくない、譲りたくない

そういう己の為にしか考えずに

発言してしまうことを

個性的な考えであると

勘違いしていました。

 

でもそういう風に人と接していると

個性ではなく、わがままな奴という

レッテル張られてしまうのです。

 

そして

「自分の所為で個性を己所為に変えていってしまう」

のではないかと気づきました。

 

個性を大事にするとは、

周りから見て自然でありふれた

表情や言動のその中に

答えがあるのだと思います。

 

親や先生が、

‟言葉は自分に跳ね返るもの”

と言っていた意味がその時にわかりました。

 

言葉選びこそ、個性ではないか。

笑顔こそ、個性ではないか。

自然体でいられることこそが

個性なのだと私は思います。

 

もし読まれている人で、

私は個性がない。と悩んでいる人がいたら

 

一人一人、

言葉使いや話すトーンや仕草、

表情が違うように、

 

一人一人に個性はあるのだ。

 

そういう気持ちで

頑張って欲しいと思います。

 

だからこそ

個性を生かした仕事とは何か

自分に合った仕事は何か

みんな考えているのだと思います。

 

私も今の自分の個性を大事に

これからも生きていきます。

 

 

おぼつかない文章ですいません。

 

長らく読んでいただき

ありがとうございました。