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五月雨を集めて早し最上川 芭蕉。

五月雨を集めて早し最上川

ある本を読んでいたら、この句に出会ったんですが、その本の解釈では
一つ一つの小さな雨粒を集めて、最上川は大きなとても流れの速い川になっている、
世の中にはすぐに大きな成果につながることはほとんどなく、小さなことをコツコツと集めていくことで大きなものへと発展していくんのだ、という解釈がついていました。

松尾芭蕉が本当にそのような意味をこめてこの歌を読んだのかどうか、
真偽のほどは定かではありませんが、とてもいい解釈だと思いました。

人の生活や人生に、自然の営みを重ね合わせる。

洒落てるなと思います。

庵、苑、軒、の話。

お蕎麦屋さんなんかにいくと、「○○庵」というように、屋号の最後に、「庵」という字を使うところが多い。この「庵」と言う字、「いおり」と読めるんですが、その意味を辞書で調べてみました。

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「庵」

(1)草葺(ぶ)きの小家。僧侶・世捨て人・風流人などの住む、質素な小屋。いおり。草庵。

 「--を結ぶ」

  • (2)雅号や住まい・料亭の名などに添えて接尾語的に用いる語。

     「芭蕉--」

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    それと同じように、焼肉屋さんに多い「苑」。中華料理屋に多い「軒」も調べてみました。

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    「苑」

    (1)庭。庭園。また、花・野菜・果樹を栽培する区域。

     「桜の--」

    (2)(何かの行われる)場所。

     「学びの--」

    「軒」(けん)

    (1)助数詞。家屋などの戸数を数えるのに用いる。

     「右から三--目」

     「一--の家もない」

    (2)雅号や家号などの末尾に添えて用いる。

     「桃中--」

     「志道--」

    「軒」(のき)

    (1)屋根の下端で、建物の外壁から張り出した部分。風雨や日光をよける。

    (2)「庇(ひさし)」に同じ。

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    「庵」については、質素な小屋、というような、確かにお蕎麦屋さんらしいと言うか、日本的な

    奥ゆかしさのある、思慮深い意味が感じられます。

    あえて、自分の店に、質素な小屋と、名づけてしまうあたりが、なんか良いなと思いました。

    「苑」については、植物を栽培する地域、とか、何かをする場所、など、なぜ「苑」が焼肉屋さんに使われているのかよくわからない結果でした。

    何かをする場所、って言うのは、なかなか大掴みな感じで面白いですが。

    さらに「苑」について、もう少し調べていたら、こんな意見が。

    本場韓国の習慣で、韓国では身分の高い人の屋敷を「~苑」とか~「園」と呼ぶらしく、そういった屋敷を利用した焼肉屋さんが多かったので、その名残で焼肉屋さんには「苑」が多いと言うこと。

    信憑性は定かではないですが、これが本当だとすると、「庵」と「苑」は真逆のニュアンスだと思われます。

    「軒」についても、家屋であると言うこと以上の意味は出てこないので、中華料理との関係性は見えてきません。

    きっと、中華料理を食べさせる、家屋、建物、である、という以上の意味はないのでしょう。

    「庵」を日本、「苑」を韓国、「軒」を中国に当てはめてみると、

    日本は奥ゆかしく、韓国は格式高く、中国はわかりやすく。

    当てはめる必要もないんですが。

    けどなんとなく当てはまったような気がします。

  • 流れ者の宿命

    ここ近年手放せないものがある。

    手帳と手帳サイズの白紙のノートです。


    なんせ携帯電話の時代、いつ何時予定が入るかわからない。

    ありがたいもので仕事も遊びも、様々な予定が携帯電話と言うツールのおかげで

    時を選ばず受け取ることが出来る。


    電話だけではない、いつでもスケジュールチェックをして返答できる状態が求められる。

    社交場など人の集まる場所や、その辺のファミレス、道端でさえ

    作品創りやイベントの打ち合わせなどが始まりかねない状況で、手帳はいつでも

    手の届くところに携帯するようにしている。


    手帳サイズの白紙のノートは発想や考察を書き込む。

    偶発的にも意図的にもアイディアは産まれる。

    しかし書き留めることをしなければその多くは忘れてしまう。

    思いつきはすぐに書き留めるに限る、と思っている。


    文字や絵にして情報や発想を残すことは理屈では図れない効力を持っていると思ったりもする。


    手帳を本格的に持ち出したのはいつのころからだろう、あのころに比べれば

    だんだんと手帳の空白が埋まっていっているような気がする。


    ただ物忘れが多くなっただけなのか、細かなことまで書き留めるようになっただけなのか。

    受動的な予定を書き込むと同時に能動的に予定を書き込むこともする。

    行動目標と言ってもいい。そうすると計画的に動ける。気がしている。


    大げさかもしれないが、起きている間はほとんどずっと手帳とノートが身の回りにある。

    流れ者の宿命だろう。



    actrapart:ikedakei:アクトラッパート:池田圭