NHK大河ドラマ

天地人


9月20日と27日の放送はご覧になりましたか?


関ヶ原の戦いを中心にすると歴史上の人物の年齢や時代背景が見えると思いますので、少しブログで書かさせていただきたいと思います。


大阪城にて、豊臣秀吉が他界した後、豊臣家に天下を引き継がせ平和を考える大名と

豊臣秀吉の亡き後の天下を取るチャンスと徳川家康が、戦(いくさ)を仕掛けるところです。


1、豊臣秀吉の側近の石田三成上杉景勝(上杉謙信の亡き後を引き継いだ)、直江兼続(上杉景勝の家臣)をはじめ、毛利輝元(この関ヶ原の戦いでは、西軍の大将となった)と六文銭の旗印でおなじみの真田幸村


  もともと豊臣秀吉の養子であったが、豊臣秀吉と側室のチャチャとの間に男子が生まれたため、その生まれた男子に、引き継いでもらうために、養子であった子を外に養子として出してしまいました、その養子となって出た子供は小早川秀秋です。


  こちらを西軍(10万の軍勢)。


2、元々豊臣秀吉の大名であった家臣たちを上手く、そそのかして徳川側に付けた東軍との戦いとなりました。


3、徳川家康は、7万5千の軍勢を引き連れ、関東から大阪へ攻めるために、東軍は、移動をしておりました。


4、石田三成と毛利輝元をはじめとする西軍は、関ヶ原で迎え撃つ準備。


5、上杉景勝、直江兼続は、会津城を中心に、関東より北で、東北から責め降りる独眼流正宗を迎え討つ。


6、徳川家康の本体(秀忠軍)は、遅れて関ヶ原に入ろうとするが、その手前で真田幸村の軍勢に足止め。


7、石田三成率いる西軍有利の状況から、後ろから東軍を攻めようとしていた小早川が、裏切り、西軍を攻めて裏切り行為を行いました。戦の最中に、徳川家康より小早川へ伝令が出され、その上手い条件の話に乗って簡単に裏切ってしまったようです。


8、石田三成は、小早川の裏切りに会い、形成が逆転すると、毛利家の軍勢も、攻めずに引き返したことから、圧倒的に東軍有利となり、たった1日で、石田三成 敗退で終わった戦となりました。


9、天下を手に入れようと、戦(いくさ)に勝った徳川家康は、大阪城に入り、石田三成に味方した大名の国土を減らすペナルティーを与えた。

  (しかし、実際に、徳川家康が天下を取ったのは、この合戦から2年半以上後のこととなります。)


10、石田三成は、関ヶ原より生きて脱出し、再度徳川討伐を考えるため、数名の家臣と関ヶ原を逃げ出しましたが徳川家康の軍勢に追いかけられ、家臣は殺され、石田三成は、囚われの身となりました。


11、大阪にて、石田三成は、さらし者となり、討ち首となりました。


12、直江兼続は、なぜ、関ヶ原で敗退したのかわからないまま、上杉軍を引き揚げ、会津に戻りました。

   上杉景勝を無事に帰すために、直江兼続自身が、殿(しんがり)を務め、傷だらけで会津に戻ったのでした。


13、会津に戻り、小早川氏の裏切りがあったことを知り、憤りを感じているところに、徳川家康より、上杉景勝に上洛(大阪城へ呼ばれる)の命令が出され、上杉景勝の名代で、直江兼続が上洛することになり、大阪へ。


14、大阪に入った直江兼続は、徳川家康に会うために、待っているところ、直江兼続の待機所に深夜、広島の大名であり、この戦では、徳川側に付いた福島正則が、直江兼続のところへ訪ねてきて、徳川家康側に付いたことを後悔し、石田三成の方が正しかったと悔やんでいた。


15、その後、直江兼続は、小早川氏のところへ訪れ、小早川氏は、裏切ったことへの釈明をする。

   徳川家康が正義であったかどうかは、疑問となり、実際に徳川家康が天下を取るのに、時間がかかったのはこうした背景からだと思われます。


石田三成は、本当に賢く戦略家だったと思いますが、若くて切れものではありましたが人望が無かったようです。

直江兼続も賢いですが、石田三成のような策士ではなかったように感じますが、賢い人物であったことは間違いなく、人望は大変厚い人のようです。

徳川家康により討ち首となってしまった石田三成ですが、この賢い二人が、豊臣秀吉の亡き後も天下統一のために、石田三成と直江兼続が、政権をコントロールしていたら、どんな世の中に変わっていたのでしょう。

どちらも欲深くないため、国民のための平和な国を作ったことと思います。


どちらも親方様に忠実で、部下思いで、国民を主体と考え、親方様の片腕でありながら、抜群のリーダーシップを持っていた方々と思います。

こうした忠誠心ある部下が居たということは、豊臣秀吉も素晴らしいリーダーだったのでしょうね。

関ヶ原の合戦を中心に、石田三成のことを書いてみました。

直江兼続・上杉鷹山については、またどこかの機会で、書いてみたいと思います。


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