3月28日に始まった「アジア音楽祭」は4日間で6つの公演が行われており、今回の特徴として海外作品を含め、(松下功前会長の作品を除き)ほぼ全曲が「初演」であるということが挙げられます。
その最終日である本日、3/31のマチネで行われる「JFC作曲賞本選演奏会」は、川島素晴自身が単身審査員を務め、且つ全作品の演奏をも担当するという内容です。
(最後に、審査員による新作《チュラリフォンとチェタロラ》の初演も行われます。)
事前に尾池亜美、大石将紀、菊地秀夫、橋本晋哉、山澤慧、山田岳という「現代音楽に精通し、真に創造的な演奏に恒常的に取り組み、自身の楽器演奏の枠を拡張し続けている」という意味で全幅の信頼をおける6名の奏者(及び私自身も演奏に参加)を決定・告知し、彼ら(私を含む)を想定した作品を書いてもらいました。
そして提出締め切り後に早い段階で試演し、奏者や私の意見を踏まえた改訂を認め、更に本番に至るまでのリハーサルでも修正を認めるという、「実演家との協働」をテーマに据えた内容です。
審査員が一名であること、及び審査員である私自身が演奏に参加する理由もそこにあります。提出段階の内容を根幹から覆すような改訂はあり得ないが、その発想を理想に近付ける修正を全面的に認める、ということを制御するためには、審査員も全ての修正を把握する必要があります。
その他、規定の詳細はこちらをご覧ください。
譜面審査だけで結論を出す方式に転じた某コンクールとは真逆の方針であり、もちろん、そのことへの強烈なアンチテーゼを込めたわけですが、演奏審査を行う一般的な作曲賞の規定とも著しく異なります。とにかく異例ずくめの作曲賞ではありますが、本来、実際に現場で創造的に活動し続ける作曲家を発掘しようとするのであれば、このような形式が理想だと思います。
応募作全曲にコメントした譜面審査の選考過程については、こちらにまとめてあります。
その結果入選した6作品は、いずれも個性的な作品で、コンサートとしてもとてもバラエティに富んだ充実したものになると思います。
そして何より、今回参加した6名は皆、優れた演奏者と協働して、より良い作品、演奏に仕上げる過程を体験できたのではないかと思います。
この作曲賞の規定を考えたとき、まず一番重要視したのはその点です。賞金の獲得いかんに関わらず、参加者には、少なくとも参加料以上のプライスレスな経験値を得てもらいたいし、コンクールであることを超えて、参加する全員が最高に面白い演奏会を作り上げるという共通した目的をもって協働することを体感してもらいたい・・・本番前ではありますが、現時点で少なくとも、そのように考えた目的は、果たせているのではないかと思います。
以下、演奏順に審査段階から入選後、審査当日に至る経緯と所感を記録しておきます。
上記の選考過程の記述は、誰の作品か伏せた状態で書かれていますので、以下、重複する内容もありますが、それも織り込んだ形でまとめます。
お読み頂くとわかると思いますが、どの作品もすばらしく、ここから一つを選ぶのは極めて困難です。
敢えて、長所と短所、どちらも記述しておこうと思います。
(たぶん、読んでも誰が受賞するか、わからないと思います。)
1)小栗 舞花/誰かさんの産声
スプリングドラム等:川島素晴、尾池亜美、橋本晋哉、山澤慧
大石将紀、菊地秀夫、小栗舞花、山田岳
(リハーサルの写真。実際は暗い中で演奏し、会場を取り囲む8箇所に演奏者が立つ。)
今回の編成規定では、楽器奏者6名は、受け持ち楽器以外の簡易楽器などの演奏も可、となっている。また、審査員、ならびに作曲者自身も演奏に参加可能となっている。つまりフル編成は8名ということになるが、そのような作品はこの1曲だった。また、全員が本来の受け持ち楽器を持たず、ひたすら創作楽器を演奏するという極端な設定も、この作品のみである。与えられた条件の、考えられ得る最大限の極北的拡大解釈である。しかもスコアは全編、インストラクションのみにより構成され、いわゆる五線譜はおろか、リズム譜すら存在しない。ところが、そうであるにも関わらず、「完璧な」ノーテーションと思える記譜内容であり、写真、動画へのリンク等も駆使して作品の再現性に問題がない状態を実現している。
最大の問題は、ここで指定されている(作曲者自身が開発した)大きなスプリングドラムによって、果たして想定されている発音を全員が習得できるのかどうか、であるが、それを果たせないことすら音楽的な意図として含み込まれているため、そのようなリスクが作品性を阻害しないし、今回の演奏者は皆、自分の本来の楽器ではないこの物体を最大の好奇心をもって扱い、全員が真摯にその演奏習得に取り組んで頂けたため、ある意味で理想的な演奏と言える。(もちろん、私自身を含め、この楽器の演奏について作曲者同様の習熟に至ったわけではないだろう。しかし、ここでは、音が出るか出ないかの狭間に聴き入る姿勢が問われており、その「姿勢」への理解は、皆が共有できている。)
スプリングドラム(別名サンダードラム)ときいて想像されるような強烈な音響は一切登場せず、長く細いバネの先端を板にゆっくり擦りつけるなど、極めて繊細な(そしていわゆる環境ノイズに近似した)音響を前提にしているが、実際の会場である市民交流室は手狭で響きのある会場であり、ここでの音楽体験は際立ったものになるに違いない。ただし、多分に、聴衆の集中力に左右されてしまうだろう。上演日が暖かくなってきた頃合いであることが幸いし、着衣のノイズはある程度軽減されるだろうが、それでも、部分的には「実際に演奏している音響」と「会場内で生じるノイズ」との境目が曖昧になってしまう可能性がある。(その意味で、この作品の理想的な聴取は、少数のみで聴くことに限定されるかもしれない。)
この手の作品は、簡易な、記憶し易い程度の設定を踏まえて譜面を見ずに上演できる範囲の進行であることが多いが、この作品は、ときには1秒から数秒刻みの細かい「段取り」があり、且つ暗い中での上演が求められいる。試演段階で、あまりに細かい設定は演奏時間をどんどん長くしてしまうので、規定時間を超えない工夫が必要との指摘がなされた。結果的には、演奏者の一人として参加している作曲者が、パソコン経由でWifiで繋がっているその他7名のiPad画面にスコアの進行を表示させることでタイムをコントロールする、という方式が採用された。その画面の視認性を高める工夫を含め、前日のリハーサルまでブラッシュアップが行われた。Maxを用いたこの仕立てそのものが、この手の作品の上演形態について新しい提案を含んでおり、自作楽器のみという本作品のアナログ的印象に対する、その上演背景に駆使される最新デジタル技術という今日的なバランス感覚は、とても興味深い。
こうした、一見「フリーな」演奏が求められるかのような作品であるにも関わらず細かな「段取り」が存在する点については、肯定的に見ることもできるが、一方、そうした「段取り」が介在することで、この作品の体験を「時間的な経過によってもたらされるドラマツルギー」に回収してしまう可能性を孕んでいる。奏者の体感としては、それぞれの楽器が「鳴るか鳴らないか」を探る世界は豊かな経験であり、それを時間をかけて開発した作曲者のオリジナリティは特筆すべきなのだが、果たしてその「聴き入る喜び」は(八方から暗闇の中届く響きのみで)聴衆に伝わるであろうか。結局、ノイズ音響の推移や段取りにしか耳が向かわないとすると、果たしてこの作品のあるべき姿はこれで良いのだろうか、という疑問も残る。
2)伊藤巧真/オルツバウⅢ
声:川島素晴 チェロ:山澤慧 譜めくり:伊藤巧真
(リハーサル風景。チェロは背後で後ろを向いている。視覚的なスコアを観客にも見せる目的で、大きく拡大されたスコアを作曲者自身が譜めくりしていく。)
チェロパートは全面的に有名曲の切り貼りでできているが、奏法の変化と相関する5種類の色がつけられた断片は、その大半が原曲を認知できない程度に裁断されている。これは、作曲者が音楽教員であり、生徒の練習風景における旋律断片の重なりをサウンドスケープとして日常的に経験していることに由来する。そこに声が感嘆詞により重なり合う。(そしてそれもまた、作曲者の日常に由来する。)当初、湯浅譲二「テレフォノパシー」を想起したが、視覚的に配列されたスコアをどのように解釈するかも含めて、様々な演奏解釈が可能であり、そうした印象を払拭するパフォーマンスは十分に可能だろう。
審査員自身が演者として想定されているにも関わらず、その成否が自身の演奏内容によるという難しさがあるが、このような作曲賞を発案してしまったのだから仕方ない、腹を括るしかなかろう。(ちなみに、100%を出し切ったリハーサルは行ったことがない。本番一発勝負である。)
一方で、もう少し、チェロパートにもイーヴンな表現性を要求しても良いのではないかとの気持ちも(こちらはあくまでも審査員として)生まれたが、この点、リハーサルを通じて、拡張奏法を大胆に取り込んだ演奏にブラッシュアップされた。
スコアの方式がいわゆるグラフィックな仕立てである本作は、試演を経て、一度かなり改訂された。当初の記譜(作曲者自身もいうようにそれはクリスチャン・マークレーなどの影響を色濃く反映している)では、演奏順などが曖昧で、その割には作曲者のイメージが固定されており、そのあたりの齟齬を埋めるため、発想や時系列など、かなり確定的な方法を採用した版が書かれたのである。
しかし、それは再び、元の形に戻された。(ただし、時系列の曖昧さは解消され、改訂に際して加えられた、発想標語に代わるものとして添付された様々な人物の顔写真は残された。)記譜の自由度は、演奏の幅を広げるが、一方でそれは創造的な演奏に依らねば大失敗を意味するというリスクも伴う。もしもこの作曲賞が、上演内容に力点を置いた審査をするのであれば、自分で自分の当日の演奏を審査するかのような状態に陥るわけで、「最高に面白い演奏」を心掛けるわけだが、それは果たして作品の力なのか、それとも私自身の演奏の成果なのか、という葛藤と戦わねばならない。しかしながら、今回の改訂過程が示すように、作曲者は、「演奏者の最大限のパフォーマンスを引き出す記譜法」に結論を見出したわけであり、そのことは、この作品の「作品性」として評価されるべきなのであろう。
ところで、作曲者は本作曲賞への応募や、作品の成立過程を、自身が教える高校の授業と連動させていたという。私の様々な作品を授業で研究することも含まれていたとのこと。私自身の作品に「は」という一文字を様々な発話で演奏していく《インヴェンション I 》というものがあるが、本作で用いられている感嘆詞は、まず「あ」で開始し、それが様々なヴァリエーションで展開していくという意味では「似た」始まり方である。しかしその後、「あいうえお」を巡っていき、以後、緩やかに50音を辿っていくその過程は、「日本語の発話」という意味あいでも興味深い問題を含んでいる。私自身が日本語の発話と音楽の関係を様々に探究してきた《インヴェンション》のシリーズで、このようなアイデアを思いついていたら、きっと自分自身でこのようなパフォーマンスをしただろうな、と思われるあたり、先を越された感があるが、一方で、この作曲者が私を想定して書いたからこそのオリジナリティも歴として存在している。そのことを認めた上で、しかし、この作品の上演を聴いた観客は、「これは川島素晴の音楽そのものだ」という感想を抱く可能性も高いかもしれない。
オリジナリティとは?
作曲賞とは? ・・・いや、そもそも作曲とは?
様々な問題提起を孕んだ作品であり、パフォーマンスとなるであろう。
3)山邊光二/失業 – ルイ・アンドリーセン讃
エレキギター:山田岳 テナー・サクソフォン:大石将紀
チューバ:橋本晋哉 チェロ:山澤慧 指揮:川島素晴
(リハーサル風景。冒頭はエレキギターのみではじまり、徐々に登場する。)
<譜面審査のコメント>
編成、題材、音感、構造など、あらゆる点で「アンドリーセン讃」であることが頷ける内容だが、そこに「音楽家の失業」にまつわるシアトリカルな仕立てが盛り込まれる。今回の応募作全体を幾つかのタイプに分類するとしたら、このように、あまり特殊奏法などに頼らず、音そのものの力でアクティヴに推進する方向の書法、というものも一つのタイプにカテゴライズできる程度に存在していた。そうした作品では、この難しい編成のバランスをどう処理するかが問われるが、本作ではその問題を感じさせない。また、全体的にハイセンスな筆致に貫かれ、このカテゴリーの応募作品としては、頭ひとつ抜けているように見えるし、そこに(実体験に基づく)シニカルな視点が介在することで、ユニークな存在感も具えている。
一つ苦言を呈すると、全応募作中この作品のみ、演奏所用時間が明記されていなかった。シアトリカルな仕立ての部分で不確定要素があるので明記できなかったのかもしれないが、やはり何らか、記載すべきだっただろう。(仕方ないので審査員自らが計算、計測した。)浄書ソフトで作られたスコアに、部分的にインストラクションが手書き入力されていることなどを鑑みると、間際になって計測する時間もないまま提出したのかもしれない。(そういうことしていると、また失業・・・以下略。)
→このコメント最後の「手書きで記入」とした部分は私の誤認であり、「そのように見えるフォント」を使った浄書だったことが判明。お詫びして訂正します。
<今回の追記>
イカしたエレキギターソロをBGMに、冒頭部分に「失業」を巡る小芝居が仕掛けられているが、この部分は、最終リハーサルまで様々な修正が施された。演奏者による提案も含め、こうした作業が実に重要であることが感じられたし、これは実際の演奏の現場であれば当然なされるべき過程である。(また、上記コメントに「バランスの問題はない」と書いたが、実際にはやはりこの編成におけるチェロは分が悪い。その点も、リハーサルを通じて改善され、問題ない状態に至った。)
結果的にここでの小芝居は、一見しただけでも意味が伝わる内容になった。一方で、こうした意味を明確に添わせた結果、それがこの作品全体においてどういう役割を担うのか、という問題も浮き彫りになる。このような情報が補助線となり、この作品の意図なり構造、あるいは社会的背景なりが理解しやすくなるのか、といえば、どうもそういった相関関係は希薄にみえる。アンドリーセンが、そうした補助線無しに、作品の力だけで強いメッセージを放つことを思い出すなら、本作も、そこを目指すべきだったかもしれない。
この作品における「音符で書かれた」部分の作曲のテクニックは確かなものである。しかし、小芝居を加えたのであれば、それが作品自体に(物語性や記号性だけではなく)何をもたらすのか、という思考を深めるべきだっただろう。それをしないとすれば、そういった部分を含むことで、作品性が揺らがないだけの(アンドリーセンを規範とする)強度が(あるいは、そんなことが気にならない程度の強いメッセージ性が)必要であろうが、果たしてそのような強度を感じられるだけの説得力に至るかどうか。
私自身、シアトリカルな要素は多用するわけだが、そういった要素を用いることが安易に行われるとき、それは単にエンターテイメント的な興味に供せられるだけのものになってしまう。そういった要素を導入することが、作品の内容そのものと深く関わるような構想をこそ期待したい。本作では、小芝居がリズムモチーフに繋がる仕掛けも施されているが、それだけでは弱い。しかし萌芽は感じられるので、こうした仕掛けが、更に作品そのものとの強い連関を感じさせるようになることを期待したい。
4)室元拓人/スッパ・ネ・スパ?
クラリネット:菊地秀夫 ソプラノ・サクソフォン:大石将紀
チェロ:山澤慧 指揮:川島素晴
(リハーサル風景。チェロの後ろで忍者の衣装を着たサックスとクラが忍び寄る。)
<譜面審査のコメント>
チェロの背後に「忍び」として控えるクラリネットとサクソフォンは、様々なノイズ奏法でチェロとの丁々発止の関係を示していく。やがてその姿が見つかると、音の応酬が激しくなり・・・と、シアトリカルな仕掛けも含む作品だが、スコア全体は、極めて精密な書法で貫かれており、特殊奏法も可能な限りの手法が繰り広げられる。そうなると、奏法カタログ的な内容に堕してしまいがちなところ、この作品は、そうした問題を感じさせない。それは、チェロとの相関関係の中で整合性をもって配列されているからであり、「忍び」という一見チープな仕立ても、この場合、そうした関係を補強する役割として説得力ある設定に映じる。
今回の応募作の中には、現代の様々な書法、あらゆる特殊奏法などに精通した上で精密に書き込まれた作品というカテゴリーを見出せるが、その中にあって傑出した存在感を放っている。ただ、設定のチープさが、ともすると安っぽく見えてしまう可能性はある。(ただし審査員自身、自作の中でしばしばそのような設定を敢えて用いているので、この点については肯定的である。)
<今回の追記>
この作曲者は今年度武満徹作曲賞(審査員:ファーニホウ)にもノミネートされていることからもわかるように、様々な現代音楽のイディオムを極めて高い技術で掌中におさめておられるが、その彼が、本作では(恐らく他のコンクールではやらないであろう)チープなシアター的な仕掛けを施しているという点がまず興味深い。
5)梅本佑利/鎖苦速風音族
テナー&バリトン・サクソフォン:大石将紀 6連ホーン:川島素晴
(今回の作品のために製作された6連ホーン。暴走族がバイクにつけているものをMIDI制御して演奏します。爆音!)
<譜面審査のコメント>
暴走族のコールを採譜するという大胆な発想。そしてこの作品のために、暴走族が用いる6連ホーン(警音器)をMIDI制御した演奏システムを作り、それとサックスによるデュオ作品に仕立てるという、見たことのない設定。ナンバリングされた音型パターンと、その演奏過程を記号の並列で示す独自な記譜法。sempre ffffで書かれ、速度などもかなり無茶な要求がなされているサックスパート。そしてそういった過激な音響に徹し、耳を休める間もなく力業で畳みかけていく強烈な推進力。もう、あらゆる観点で規格外な作品である。
「こういう作品をこそ、本賞は待ち望んでいたのだ!」・・・とは思う。しかし一方で、この作品が素材とする暴走族のコール、そしてそれに基づく破壊的な爆音の音楽を想像するに際し、客観的な審査員という立場を一旦忘れ、一個人として純粋にこの音楽に向き合ったとしたら、果たしてこれを愛せるのかどうか、わからないでいる。圧倒的な存在感を放つことは間違いない。しかし、単に音圧が高くやかましいというだけならばともかく、それが暴走族のコールを素材としているという一点に、引っかかっている。そういった具体的な属性を持った素材は、どうしても、その属性を取り払った聴取は不可能であるわけで・・・。(少なくともこの音楽は、コンプライアンスの厳しい放送局では流せないだろうな、とも。)
<今回の追記>
独自製作の6連ホーンのあまりの爆音に、果たして上演ができるのか、という問題も生じる始末。耳栓を配ること、ならびにそのような作品であることを事前告知して、問題がある場合は退出を促す、という対応でようやく実現。
彼は高校時代に東京音楽大学付属高校で私が作曲を教えていたが、2021年からは愛知県芸に進学、今は遠くからその活躍を眺めている。当時からとても高校生とは思えない早熟ぶりで、作品も個性を放っていたので様々な演奏家・団体からのオファーを受けて活動を展開していた。しかし当初はまだ、「あらゆる作曲技術を吸収する秀才」という感じだった。しかし今、彼は間違いなく作曲界の台風の目、「アンファンテリブル」に成長している。誰も思いつかない限界ギリギリのアイデアを実行してしまう、ヤバい奴だ。
上記の、審査段階での印象(何で暴走族を扱うの?!)も、「廃れゆくカルチャーのアーカイヴ」という説明をきいて、しかもそれが「メシアンの鳥のカタログから着想した」ときいて、唸らされた。意外とアカデミック?
実際の暴走族に取材もして(真面目?)、6連ホーンの音をサンプリング、聴音してアーカイヴしているという。
この作品の姉妹作品にサックスオーケストラ作品があり、それは本作の要素を拡張したものという。全員でこの音響を吹きまくる・・・それは確かに、サックス音楽における表現の新しい拡張がなされている。
・・・と、ここまで書くと、手放しの称賛のようだが・・・。
まず、彼の父親とのコラボレーションで開発されている自主制作楽器が、まだまだ改良の余地を残しているという点は問題といえる。本作の演奏はリズミックな掛け合いが求められているのだが、ボタンのタッチとコンプレッサー経由の発音との微妙なラグがあることで、なかなかスムーズな演奏ができない(あるいはイレギュラーなズレが常に生じる)という問題が、恐らく本番でも解消されないままとなる。(少なくとも、完成機での実演を待ちたいような・・・。)
また、破壊的な爆音であるため、会場では耳栓をつけて聴くことになるが、その結果、実際の音響効果を体感できる観客は(勇気をもって耳栓を外す人を除いて)存在しないことになる。
また、爆音ではあるしこれをコンサートホールに持ち込むこと自体が快挙だが、装置そのものはいたってシンプルであり、可能な音楽もかなり限定される。(この素材だとしても、もっとやりようはあるのではないか、という指摘もできるだろう。)
暴走族音楽のアーカイヴという話も、コンテンポラリーアートの文脈であればむしろ普通のこと(例えばグラフィティアートは犯罪性の下に成立している)であり、すんなり評価できそうなものだが、果たしてこれは、「作曲賞」という文脈で評価できるものなのだろうか?
そしてやはり最後は、前述のように、この「音楽」を、私は好きだと思えるのか?という自問にかえっていく。
6)若松聡史/プレグナンツ
ヴァイオリン:尾池亜美 ヴィオラ:若松聡史
チェロ:山澤慧 指揮:川島素晴
(リハーサル風景。チェロの背後にヴァイオリン、ヴィオラがいて、それぞれ4分音ずれた楽器の持ち替えを行う。)
<譜面審査のコメント>
作曲者自身が演奏に参加可能との設定は、私が実行委員を務めた2013年のJFC作曲賞における「自作自演」を含めるという規定の名残であるが、今回の応募作品中、通常の楽器演奏での参加表明(ここで作曲者はヴィオラパートを演奏)をしたのはこの作品のみである。この作曲者は、これまでにも弦楽器のハーモニクスの重弦奏法について研究を重ねている。とりわけ、二つの異なる運指による人工ハーモニクスの重弦なども全てカタログ化したそのリストは興味深い。しかし、それを「よく見受けられる現代音楽のスタイル」に落とし込んだとき、その奏法の不安定さゆえに、音楽としては不完全な状態を余儀なくされるだけで、仮にうまくできたにせよ、その効果は限定的だ。実は事前の仮提出でそのことを指摘したところ、本提出では、見事に「化けた」内容を提出してこられた。最初スコアを一瞥したとき、「あれ、カタログしかないのかな?」と見紛うほどに、今回のスコアは、ただ淡々と74個のハーモニクスを含む重弦が羅列されているだけの楽譜になっている。それらを、3人の奏者が、それぞれの時間感覚で自由に(ただし同時に発音することはできない)演奏していくというものだ。しかし、こうしてみてはじめて、この奏法に特化することの意義が生じる。高難度な重弦を達成しても、複雑なアンサンブルの中では全く埋没してしまう。これなら、演奏者がそれぞれに発音そのものに向き合う姿にじっくり聴き入ることができる。また、指揮者の存在もユニークで、ここでは拍節を示すのではなく、1/4音ずらした楽器への持ち替えの指示など、音響的な状態の変質を自由に(具体的なタイミングなどは全く不確定)行うというものだ。(このような指揮者の存在は、この作品の第一印象を「フェルドマン的」と思わせることを回避させることに成功している。)純粋に「聴いてみたい」と思える作品に仕上がったと思う。
<今回の追記>
本コンクールのもう一つの特徴として、事前の譜面提出により、審査員のコメントを得られるというものがあった。私自身は、自分が教えているかどうかによって審査に何らかのバイアスを入れることはないと断言するが、実際に、私がどのように考えているかを知る機会があるかどうかで、提出する側は有利・不利を感じるであろう。(なお、今回、実際に教えている者1名、教えていた者1名が入選しているが、もちろん、弟子であっても入選を果たせなかった者もいる。)そこで、事前の譜面提出制度を設けたわけだが、実際にそれを利用した応募者はさほど多くなかった。
その制度を利用した成果が大きく認められる好例として、この作品の存在は挙げられる。
そして、更に試演を経て、様々な点で修正が加わった。
とりわけ、楽器の持ち替えについては物理的に困難な状況を解消する方策が採られ、更に現場でも様々な対応がなされていったし、当初完全にフリーだった指揮者の役割は、様々なパラメーターにおいて確定的な設計がなされるバージョンになった。(そうでないと、持ち替えなど、実際に演奏困難な箇所が生じてしまうのである。)
そうした柔軟な修正を随時施していったことにより、この作品はより良い形に徐々に整えられていった。
しかしここで葛藤がある。
この作品がもしも、単に、3名がハーモニクスの重音を重ねることで得られる6音の和音を示している、という仕立てだけでできていたならば、どうだっただろうか。その場合は上述の通り、響きの様相はフェルドマンのような音楽を彷彿とさせ、既視感があるとも言えるが、しかし、その美しさは中毒性がある。
そこに指揮者の存在が介入し様々な亀裂を生む設定があることで、作品は「フェルドマンのような」響きの様相を脱することになるが、一方で、その揺らぎが過剰になると、作品の姿そのものが「中毒性のある美」から遠ざかってしまう。
既視感を脱しつつも6音が淡々と鳴る美しさを維持し、指揮者の独自な設定が功を奏して端正な美に絶妙な亀裂を生じさせる、といったバランスが問われている。
当初そのバランスが指揮者に委ねられていたが、それが(いくばくかの不確定性を残しつつ)確定された。確定されると、本当にそれでいいのだろうか、という疑問も生じる。そして、今、この瞬間に本当に聴きたいものは何だろうか、という思いがよぎる。
どこかまだ、この作品の「真の姿」が見られないでいる、という気がしてならない。
いかがでしょうか。
審査員としての葛藤をお感じ頂けたのではないかと思います。
ぜひ、実演にお立ち会いください。
そして、この枠では、私自身の新作も発表されます。
内情を申しますと、こうして予め演奏者をブッキングするということにはリスクがあります。もしも1曲も乗り番が無い人がいたら、スケジュールを押さえたのに申し訳ないわけです。そこで、この企画を考案したときに、ならば自分が全員参加の曲を発表することにしておけばいい、と思いついたわけです。
しかしアレですね、こういう形で最後に持ってくると、何だか「模範作品」のような立ち位置で居心地が悪いですが・・・。
譜面審査のコメントの中で、この6名全員を使う作品はバランスが難しい、ということを指摘していました。模範的な方法と言えるかどうかはわかりませんが、かなり大胆な方法で、少なくとも、その問題は解消されていると思います。
作品の内容も、決して模範的ではないと思いますが、ぶっ飛び度合いでは負けてないと思います・・・。
7)川島素晴/チュラリフォンとチェタロラ
チューバ:橋本晋哉 バス・クラリネット:菊地秀夫
バリトン・サクソフォーン:大石将紀
チェロ:山澤慧 ギター:山田岳 ヴィオラ:尾池亜美
Cond.actor:川島素晴
(リハーサル風景。指揮者が客席を向き、他の奏者は後方を向く。)
近年、複数楽器をコンビネーションさせて一心同体的に扱うシリーズがあり、そうした場合は楽器名の一部を重ねて造語的に新しい楽器名として題名に用いているが、本作ではその仕立てがダブルで行われる。
チューバ、バスクラリネット、バリトンサクソフォンの低音管楽器トリオを、各楽器名の音節から少しずつ拝借して「チュラリフォン/Tu-lari-phone」と命名し、右側に配置。そして、チェロ、ギター、ヴィオラの弦楽器トリオも同様に「チェタロラ/Ce-tar-ola」と命名し、左側に配置。このトリオは終始一貫、スライドバーとピックにより演奏することで、音量が強力な低音管楽器トリオに対抗する。
各トリオはそれぞれ奇妙で複雑なリズムを示すが、一貫して同期し、それぞれにあたかも一つの楽器であるかのように振舞う。つまりここでのアンサンブルは一種の二重奏となる。
冒頭に提示される全員で(しかしやはり左右の群が交互に)演奏される音型は、ロンド主題のように曲の変わり目に(少しずつ変化しながら)繰り返される。(これをサウンドロゴのようなものと考え、「ロゴ」と呼んでいる。)
指揮者(Cond.actor)は発声を伴い、それぞれの楽器群が示すリズム型を転写する。このとき、オノマトペ的に転写するわけだが、それが日本語的な語感で貫かれることで、奇妙なリズムはよりいっそう、奇妙な度合いを増す。
音から声への転写、声から音への転写、リズムパターンの移行など、幾つかのフェーズを経て、最難関は、左右の群が同時に進行する終盤である。左右の群のそれぞれを同時に転写する結果、支離滅裂な発話となる。
楽器名称のコンバイン、発話と音楽、Cond.actorなど、私のこれまでの創作の集大成となっている。