『暇だなー…』
饅頭を一つ頬張る。
口の中にあんこの甘さが広がるのを舌で楽しんだ後、
膝元に置いてあるお茶で流す。
自分はこれが一番上手い饅頭の食べ方なのだと言い張るが
皆は口を揃えて「否!」と応える。
『上手い!』
満面な笑みを浮かべてそう口にしてみたはいいものの
屯所の中は自分っきり。
自分の声しか聞こえないというのもなんとも侘しいものがある。
非番というのはこんなにもつまらないものなのかと
まんまるな月を見上げて寂しく一人溜息をこぼす。
こういう時は物想いになってしまうのは致し方ない事なのだろう。
手に持っていた、湯のみを床に置き
ごろんと身体を倒して、縁側に足を投げ出し
月を見上げた。
怖いぐらいに綺麗な月。
ー総司。お前はこの月をどう思う。
「どうって?」
縁側で横になっている沖田総司の隣には
同じく身体を倒して両腕を枕にしながら
月を見上げている土方歳三が居た。
ー怖いか?
「…怖いですね。物も言わないのに、絶対的な存在感があるというか」
ー怖いと思うのは、逆に憧れの想いもある時だ。総司。
「憧れ?」
ーそう、自分の存在を打ち消すようなものに対するな。
「…じゃあ、土方さんは怖いと思います?この月」
しばし土方は満月を見つめてこう言った。
ー怖いさ。だからこそ、俺は月になりたい。
「月に?」
ー月はただそこにあるだけだ。昼は太陽に、夜は月にこの世界は照らされる。
月には昼は照らせないが、夜は照らせる。逆に太陽には夜は照らせない。
そこにあるだけの存在が、太陽の存在によって意味を持ち、太陽の傍らになる。
俺はそんな存在になりたい。
「…ああ…もう妬けちゃうな」
そう真剣に語る土方の顔を見つめていたが、ふいっと総司は顔を反らし
月をまぶしそうに見つめた。
その様子を見て土方はふっと鼻で笑いながら
ーお前が月だ。総司
「え?」
ーだから俺はお前が怖い。
「・・・・」
ーだからこそ、俺はお前が羨ましい。
「…僕は…」
そう言いかけた瞬間に、土方は自分と総司の間にあった饅頭をひょいと摘み頬張る。
ーうん。上手い。
月を見上げる土方の瞳にはその月が色濃く映っていた。
『…土方…さん』
総司は思い出の中を映し出していた。
隣に居たはずの土方は居ない事に気づき、呟く。
ふうと秋の夜風が頬をなでる。
あれから幾月が経ち、自分たちの立場も目まぐるしく変わっていった。
立場、環境というものは人を大きく変える。
優しかったものは、近しかったものは、遠くへ
冷たく変わってしまった、否変わるしかなかったのだろう。
そう思うが、それでも胸の窮屈さは癒えなかった。
優しかった思い出、近しかった心の距離は、どんどん遠くへ離れて行ってしまう。
『…怖い』
『お前が怖い』
そこにただあるだけの月に、総司は語りかける。
『…そうさせてしまったのか、お前が…』
月は夜空を流れる薄雲に隠れて、光が薄れると
夜の闇を一層色濃く染める。
すると、心の中に薄闇が広がるのを感じた総司は
雲から漏れる月明かりを掴もうとするかのように手を前に伸ばした。
指の隙間から漏れる月明かりに、少し安堵した総司だったが
月は黒い雲に覆われようとしていた。
不明な焦燥感に駆られて、総司は叫ぶ
『駄目だ!!隠れては駄目だ!』
総司の声はピンと張りつめた冷たい夜に木霊した。
しかし、月はいよいよ厚く深い雲に覆われてしまった。
それは闇の訪れだった。
『…っ…』
何かが急激に押し寄せたかと思うと
深い闇に紛れながら、自分の頬を伝い流れ落ちるものを感じ
それを拭うと、手は水のようなもので濡れた。
得体の知らないものが溢れ出て押し流して
闇夜に嗚咽が寂しく広がって行く。
それが恐怖だったのか、不安だったのか。
何がそうさせたのかわからなかったが
兎に角、流れ出るものは抑えられず
頬に伝い床を濡らすばかりだった。
冷たい闇夜が静かに流れて行く。
幾ばくか過ぎた頃。
『…足音がする。…それに声も』
段々とそれは近づいてくる。
そしてそれは、目の前で止まり
ぼんやりと赤々とした火は
深い闇から持ち主や周りを浮かび上がらせる。
『総司か。そこに居るのは』
行燈の灯りに照らされて、それを認める事ができた。
『土方…さん?』
ひゅうっと強い一陣の風に浚われて
厚い雲に覆われていた月は、隙間から夜を照らしだしていた。
『…風が…』
ゆらゆら燃える火と、月明かりに照らされて
眩しくその夜は煌めいていた。
薄眼で土方を確認した総司は身体を縁側から起こして土方を迎えた。
『一体そこで何をやっていたんだ』
『いえ、ただ…』
『ただ?』
『月が…少し怖かっただけです』
『・・・・』
『…太陽は昼を、月は夜を、しかしどちらも厚雲には勝てない。
ならば私が…その雲を払う一陣の風になりましょう』
『だから…』
土方はその言葉を静かに聞いていたが
屯所の中に入ろうと総司の横を通りすぎる。
瞬間。
かすかに瞳を細め、柔らかくあの時のような表情になっていたのを
総司は月明かりの眩しさのあまり気づく事なく、土方は屯所の中へ消えた。
ただ少し一瞬だけ雰囲気が柔らかく包まれていた事だけは
月明かりの中、感じとれた総司は
先ほどまでの得体の知れない物で埋め尽くされていた心に
何か温かいものが流れ込んでいるのに気づく。
ふと月を見上げる。
神々しく輝くそれはただそこに在るだけ。
恐怖と憧れ。
そして太陽に照らされ輝く、闇夜を照らす光。
その月光は少し優しさを孕んでいるような気がしていた。