こんにちは。
AC です。
先日ご紹介した「会津みしらず柿」、やっと全部食べ終わりました。
少し風邪ぎみだったのが、どこかに飛んでいったような気がします(^-^)/
→☆会津特産"みしらず柿"~甘くて美味しい渋柿なんです(^q^)
10年ちょっと前、私が三重県松阪市にある「みえこどもの城」に赴任していた時、
思いがけず松阪の街で、「会津みしらず柿」を見て驚いたことがあります。
三重県の松阪には、毎年11月に開催される「氏郷まつり」というお祭りがあります。

この「氏郷まつり」に、
会津若松観光物産協会の方たちが、会津特産の「みしらず柿」をPR販売に来ていたんです。
遠路はるばる、なぜ「松阪」まで?
この「会津みしらず柿」
普通、スーパーなどの店頭などには並ぶことがないんです。
「みしらず柿」は「渋柿」を焼酎などで渋抜きをして食べるので、
渋が抜け、「甘い柿」に変身したそのタイミングでしか食べられませんし、
甘くなってからしばらくすると、トロトロに柔らかくなってしまい、長く置いておくこともできません。
生産地から直接送っていただく箱の表に、「〇月〇日に開封してください」と書いてあるのも、そのせいなんですね。
ところで、
伊勢の「松阪」と「会津みしらず柿」、
何の関係もなさそうなのですが、納得のいく共通点がちゃんとあるんです。
松阪の「氏郷まつり」の主役となっている「蒲生氏郷(がもううじさと)」は戦国時代の武将の一人です。

「蒲生氏郷」(ニンテンドー3DS『信長の野望』より)
蒲生氏郷は、「松阪開府の祖」と言われる「松阪の生みの親」みたいな人なんです。
1588(天正16)年、蒲生氏郷は「松坂城」を築城し、松坂城主として、松阪の街をつくりあげました。
「松阪」という地名もこの時につけられたものです。
※江戸時代、「松阪」と「松坂」、読みとしての「マツサカ」「マツザカ」は混用されていたようですが、明治時代に入り、現在の「松阪、マツサカ」に統一されたんだそうです。「松坂城」は「松阪城」とも表記されます。
蒲生氏郷は、
近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれ、幼名は鶴千代といいました。
1568(永禄11)年、観音寺城の戦いで六角氏が織田信長に滅ぼされると、蒲生賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従しました。
鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん(蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)」と言い、娘の冬姫をめとらせる約束をしたといいます。
戦国武将として功績を残しながら、近江日野城主から松阪城主となった蒲生氏郷ですが、
小田原征伐、関東平定に続いて、豊臣秀吉の天下統一の総仕上げとなる「奥州仕置(おうしゅうしおき)」(奥州大名の領土再配置)が1590(天正18)年に行われます。
松坂城の完成まもないこの年、
蒲生氏郷は会津黒川城42万石への転封を秀吉より命じられます。
氏郷は、黒川城を改築し、氏郷の幼名「鶴千代」にちなんで「鶴ヶ城」と名でづけました。

会津若松「鶴ヶ城」
戊辰戦争での悲劇の城としても有名な、あの会津若松「鶴ヶ城」の基礎を作ったのが、「松坂城」を築城した蒲生氏郷だったのです。
氏郷は、築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から「若松」へと改めました。
「若松」の名は、出身地の近江日野城に近い馬見岡綿向神社(蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の森」に由来し、
また、松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われています。
日野近江商人や松阪商人を会津へ招聘し、定期市の開設、楽市楽座の導入などで、城下を飛躍的に発展させたといいます。
遠く離れた「会津若松」と「松阪」、
こんなに強い結びつきがあるなんて!
戦国時代は、短い間にいろんな大変化が起こって目まぐるしいですね(^_^;)
それでは、また次回♪
……………………………………………………………………………
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AC です。
先日ご紹介した「会津みしらず柿」、やっと全部食べ終わりました。
少し風邪ぎみだったのが、どこかに飛んでいったような気がします(^-^)/
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10年ちょっと前、私が三重県松阪市にある「みえこどもの城」に赴任していた時、
思いがけず松阪の街で、「会津みしらず柿」を見て驚いたことがあります。
三重県の松阪には、毎年11月に開催される「氏郷まつり」というお祭りがあります。

この「氏郷まつり」に、
会津若松観光物産協会の方たちが、会津特産の「みしらず柿」をPR販売に来ていたんです。
遠路はるばる、なぜ「松阪」まで?
この「会津みしらず柿」
普通、スーパーなどの店頭などには並ぶことがないんです。
「みしらず柿」は「渋柿」を焼酎などで渋抜きをして食べるので、
渋が抜け、「甘い柿」に変身したそのタイミングでしか食べられませんし、
甘くなってからしばらくすると、トロトロに柔らかくなってしまい、長く置いておくこともできません。
生産地から直接送っていただく箱の表に、「〇月〇日に開封してください」と書いてあるのも、そのせいなんですね。
ところで、
伊勢の「松阪」と「会津みしらず柿」、
何の関係もなさそうなのですが、納得のいく共通点がちゃんとあるんです。
松阪の「氏郷まつり」の主役となっている「蒲生氏郷(がもううじさと)」は戦国時代の武将の一人です。

「蒲生氏郷」(ニンテンドー3DS『信長の野望』より)
蒲生氏郷は、「松阪開府の祖」と言われる「松阪の生みの親」みたいな人なんです。
1588(天正16)年、蒲生氏郷は「松坂城」を築城し、松坂城主として、松阪の街をつくりあげました。
「松阪」という地名もこの時につけられたものです。
※江戸時代、「松阪」と「松坂」、読みとしての「マツサカ」「マツザカ」は混用されていたようですが、明治時代に入り、現在の「松阪、マツサカ」に統一されたんだそうです。「松坂城」は「松阪城」とも表記されます。
蒲生氏郷は、
近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれ、幼名は鶴千代といいました。
1568(永禄11)年、観音寺城の戦いで六角氏が織田信長に滅ぼされると、蒲生賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従しました。
鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん(蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)」と言い、娘の冬姫をめとらせる約束をしたといいます。
戦国武将として功績を残しながら、近江日野城主から松阪城主となった蒲生氏郷ですが、
小田原征伐、関東平定に続いて、豊臣秀吉の天下統一の総仕上げとなる「奥州仕置(おうしゅうしおき)」(奥州大名の領土再配置)が1590(天正18)年に行われます。
松坂城の完成まもないこの年、
蒲生氏郷は会津黒川城42万石への転封を秀吉より命じられます。
氏郷は、黒川城を改築し、氏郷の幼名「鶴千代」にちなんで「鶴ヶ城」と名でづけました。

会津若松「鶴ヶ城」
戊辰戦争での悲劇の城としても有名な、あの会津若松「鶴ヶ城」の基礎を作ったのが、「松坂城」を築城した蒲生氏郷だったのです。
氏郷は、築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から「若松」へと改めました。
「若松」の名は、出身地の近江日野城に近い馬見岡綿向神社(蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の森」に由来し、
また、松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われています。
日野近江商人や松阪商人を会津へ招聘し、定期市の開設、楽市楽座の導入などで、城下を飛躍的に発展させたといいます。
遠く離れた「会津若松」と「松阪」、
こんなに強い結びつきがあるなんて!
戦国時代は、短い間にいろんな大変化が起こって目まぐるしいですね(^_^;)
それでは、また次回♪
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