こんにちは。
AC です。
「北のアイヌの国=北海道」
その名付け親・松浦武四郎のお話の9回目は最後の【番外編】、
『北の国へー青函博覧会から北海道新幹線へ』
です。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
松浦武四郎(まつうら・たけしろう)は、
1818年、伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市)生まれ。
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家で、「北海道」の名付け親として知られています。
→#「 北加伊道ー松浦武四郎のエゾ地探検」~北海道の名付け親・松浦武四郎①
→#なぜ?伊勢から蝦夷地へ…"お伊勢参りの秘密"~北海道の名付け親・松浦武四郎②
→#伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つー伊勢音頭は全国へ~北海道の名付け親・松浦武四郎③
→#全国をかけ巡るー伊勢・松阪から~北海道の名付け親・松浦武四郎④
→#蝦夷地に渡るー青森から函館へ ~北海道の名付け親・松浦武四郎⑤
→#上野発・寝台特急ゆうづる5号<1980>~【番外編】北海道の名付け親・松浦武四郎⑥
→#津軽海峡冬景色ー初めての青函連絡船<1980>~【番外編】北海道の名付け親・松浦武四郎⑦
→#「函館」からー初めての北海道<1980>~【番外編】北海道の名付け親・松浦武四郎⑧
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
1845(弘化2)年3月、松浦武四郎は苦心の末、津軽海峡を船で渡りました。
143年の後、津軽海峡を船ではなく渡ることができるようになります。
津軽海峡の海底下約100m、全長約53.9kmの鉄道トンネルができたからです。
これが「青函トンネル」です(^-^)/
「青函トンネル」は、1988(昭和63)年3月に開業しましたが、
それから28年後の来春、2016年 3月26日、
いよいよ、北海道新幹線(新青森・新函館北斗間)が開業します\(^-^)/


「青函トンネルを"新幹線"が走る」ということは、地元の方たち、
特に函館の皆さんが、待望していたことではないかと思います。
「青函連絡船」や「青函トンネル」に少なからず関わってきた私にとっても、
忘れた頃にやってきた"感慨"のようなものがあります。
1980年代の日本は、地方博覧会の一大ブームが続いていました。
この地方博覧会ブームの先駆けとなったのは、
1981(昭和56)年に神戸で開催された「神戸ポートアイランド博覧会」(愛称:ポートピア'81)でした。
私が入社1年目で、初めて担当した博覧会の仕事が「ポートピア'81」の「宝くじ館」でした。
→#「神戸ポートアイランド博覧会」地方博の先駆け~1981
→#「博覧会の風景!」神戸ポートアイランド博覧会~1981
この「ポートピア'81」は、埋立地にインフラ整備を行い、博覧会を契機に跡地開発を進めるものでしたが、
このような都市経営手法は「株式会社神戸市」と称され、全国の市町村から自治体経営の手本とされました。
あの1970(昭和45)年の「大阪万博EXPO'70」を模範とした大規模な地方博覧会で、
入社1年目で仕事の機会を得られたのは、今思うと大変ラッキーなことでした。
その後、私は、東京ディズニーランドのプロジェクトを経て、1986開館の「青森県観光物産館アスパム」の仕事を担当しました。
この仕事のクライアントだった青森県商工労働部観光課が、続けて青函トンネル開通を記念したイベントを担当することになりました。
1988(昭和63)年の日本は、地方博覧会ブームの最盛期にあたります。
その年、日本各地で地方博覧会が開催される中、
「青函トンネル開通記念博覧会」(以下、青函博)は、1988(昭和63)年 7月9日から 9月18日まで開催されました。
「青函博」は、函館と青森の2つが、別々に開催されました。
函館の「青函博」は「青函博 函館EXPO'88」

青森の「青函博」は「青函博 青森EXPO'88」

私は、青森側の「青函博」を担当する電通のプロジェクトチームに入り、展示を担当しました。
プロデュースを電通が担当し、展示を私が所属していた乃村工藝社が担当するのは、大阪万博以来の伝統的なパートナー体制でした。
博覧会の会期全体計画から、主催者出展となるテーマ館の計画、イベントステージの会期中運営も担当しました。
総合プロデューサーとも直接接して仕事を進める中で、プロデューサー的な感覚や、電通のプロジェクトの感覚を経験していきました。
映像やロボットをはじめ、造形、グラフィックを駆使した「乃村工藝社の展示技術」でしたが、
どこまでやっても「作りモノ」による展示の領域を超えることができないという意味での「限界」に、私は気づきはじめていました。
情報を伝える「展示空間」を考える上でも、「ライブ」の要素をより重要に考えるのは、
博覧会やテーマパークの仕事からスタートしたことも大きく影響しているように感じます。
いずれにしても、私にとって最も大切な仕事経験の中の一つであることは間違いありません。

「青函博 青森EXPO'88」会場全体写真
白い変わった形のパビリオンがエアドームで造られた「テーマ館」、通称シャコちゃんドーム。右寄りに見える三角形のビルが「青森県観光物産館アスパム」(会期中は「21世紀青森館」)。

「青函連絡船」に代わる青森港の新しいモニュメントとして、1986(昭和61)年に開館した観光展示施設が「青森県観光物産館 アスパム」ですが、「青函博 青森EXPO'88」会期中は「21世紀青森館」というテーマパビリオンとして運営されました。

「青函トンネル」の開通により廃止となった青函連絡船「八甲田丸」も、洋上パビリオンとして公開されました。
青函博覧が閉幕した翌年、青函トンネル開通1周年の平成元(1989)年 3月13日、函館市と青森市は「ツインシティ(双子都市)」提携を結んでいます。
「ツインシティ」
もちろん、似ている所もたくさんありますが、
「青森は終点」「函館は起点」というイメージの決定的な違いを感じます。
これは一つのものの「陰と陽」の関係とも少し違うかもしれません。
起点としての「函館」まで、北海道新幹線が開業するのが待ち遠しいですね(^_^)

「どこでもユキちゃん」よろしくね♪
ドラマはいつでも、ハッピーエンド。
「逢えて、よかった\(^_^)/」
それでは、また次回♪
AC です。
「北のアイヌの国=北海道」
その名付け親・松浦武四郎のお話の9回目は最後の【番外編】、
『北の国へー青函博覧会から北海道新幹線へ』
です。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
松浦武四郎(まつうら・たけしろう)は、
1818年、伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市)生まれ。
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家で、「北海道」の名付け親として知られています。
→#「 北加伊道ー松浦武四郎のエゾ地探検」~北海道の名付け親・松浦武四郎①
→#なぜ?伊勢から蝦夷地へ…"お伊勢参りの秘密"~北海道の名付け親・松浦武四郎②
→#伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つー伊勢音頭は全国へ~北海道の名付け親・松浦武四郎③
→#全国をかけ巡るー伊勢・松阪から~北海道の名付け親・松浦武四郎④
→#蝦夷地に渡るー青森から函館へ ~北海道の名付け親・松浦武四郎⑤
→#上野発・寝台特急ゆうづる5号<1980>~【番外編】北海道の名付け親・松浦武四郎⑥
→#津軽海峡冬景色ー初めての青函連絡船<1980>~【番外編】北海道の名付け親・松浦武四郎⑦
→#「函館」からー初めての北海道<1980>~【番外編】北海道の名付け親・松浦武四郎⑧
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1845(弘化2)年3月、松浦武四郎は苦心の末、津軽海峡を船で渡りました。
143年の後、津軽海峡を船ではなく渡ることができるようになります。
津軽海峡の海底下約100m、全長約53.9kmの鉄道トンネルができたからです。
これが「青函トンネル」です(^-^)/
「青函トンネル」は、1988(昭和63)年3月に開業しましたが、
それから28年後の来春、2016年 3月26日、
いよいよ、北海道新幹線(新青森・新函館北斗間)が開業します\(^-^)/


「青函トンネルを"新幹線"が走る」ということは、地元の方たち、
特に函館の皆さんが、待望していたことではないかと思います。
「青函連絡船」や「青函トンネル」に少なからず関わってきた私にとっても、
忘れた頃にやってきた"感慨"のようなものがあります。
1980年代の日本は、地方博覧会の一大ブームが続いていました。
この地方博覧会ブームの先駆けとなったのは、
1981(昭和56)年に神戸で開催された「神戸ポートアイランド博覧会」(愛称:ポートピア'81)でした。
私が入社1年目で、初めて担当した博覧会の仕事が「ポートピア'81」の「宝くじ館」でした。
→#「神戸ポートアイランド博覧会」地方博の先駆け~1981
→#「博覧会の風景!」神戸ポートアイランド博覧会~1981
この「ポートピア'81」は、埋立地にインフラ整備を行い、博覧会を契機に跡地開発を進めるものでしたが、
このような都市経営手法は「株式会社神戸市」と称され、全国の市町村から自治体経営の手本とされました。
あの1970(昭和45)年の「大阪万博EXPO'70」を模範とした大規模な地方博覧会で、
入社1年目で仕事の機会を得られたのは、今思うと大変ラッキーなことでした。
その後、私は、東京ディズニーランドのプロジェクトを経て、1986開館の「青森県観光物産館アスパム」の仕事を担当しました。
この仕事のクライアントだった青森県商工労働部観光課が、続けて青函トンネル開通を記念したイベントを担当することになりました。
1988(昭和63)年の日本は、地方博覧会ブームの最盛期にあたります。
その年、日本各地で地方博覧会が開催される中、
「青函トンネル開通記念博覧会」(以下、青函博)は、1988(昭和63)年 7月9日から 9月18日まで開催されました。
「青函博」は、函館と青森の2つが、別々に開催されました。
函館の「青函博」は「青函博 函館EXPO'88」

青森の「青函博」は「青函博 青森EXPO'88」

私は、青森側の「青函博」を担当する電通のプロジェクトチームに入り、展示を担当しました。
プロデュースを電通が担当し、展示を私が所属していた乃村工藝社が担当するのは、大阪万博以来の伝統的なパートナー体制でした。
博覧会の会期全体計画から、主催者出展となるテーマ館の計画、イベントステージの会期中運営も担当しました。
総合プロデューサーとも直接接して仕事を進める中で、プロデューサー的な感覚や、電通のプロジェクトの感覚を経験していきました。
映像やロボットをはじめ、造形、グラフィックを駆使した「乃村工藝社の展示技術」でしたが、
どこまでやっても「作りモノ」による展示の領域を超えることができないという意味での「限界」に、私は気づきはじめていました。
情報を伝える「展示空間」を考える上でも、「ライブ」の要素をより重要に考えるのは、
博覧会やテーマパークの仕事からスタートしたことも大きく影響しているように感じます。
いずれにしても、私にとって最も大切な仕事経験の中の一つであることは間違いありません。

「青函博 青森EXPO'88」会場全体写真
白い変わった形のパビリオンがエアドームで造られた「テーマ館」、通称シャコちゃんドーム。右寄りに見える三角形のビルが「青森県観光物産館アスパム」(会期中は「21世紀青森館」)。

「青函連絡船」に代わる青森港の新しいモニュメントとして、1986(昭和61)年に開館した観光展示施設が「青森県観光物産館 アスパム」ですが、「青函博 青森EXPO'88」会期中は「21世紀青森館」というテーマパビリオンとして運営されました。

「青函トンネル」の開通により廃止となった青函連絡船「八甲田丸」も、洋上パビリオンとして公開されました。
青函博覧が閉幕した翌年、青函トンネル開通1周年の平成元(1989)年 3月13日、函館市と青森市は「ツインシティ(双子都市)」提携を結んでいます。
「ツインシティ」
もちろん、似ている所もたくさんありますが、
「青森は終点」「函館は起点」というイメージの決定的な違いを感じます。
これは一つのものの「陰と陽」の関係とも少し違うかもしれません。
起点としての「函館」まで、北海道新幹線が開業するのが待ち遠しいですね(^_^)

「どこでもユキちゃん」よろしくね♪
ドラマはいつでも、ハッピーエンド。
「逢えて、よかった\(^_^)/」
それでは、また次回♪