こんにちは。
AC です。
「北のアイヌの国=北海道」
その名付け親・松浦武四郎のお話の8回目も【番外編】、
『「函館」からー初めての北海道<1980>』
です。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
松浦武四郎(まつうら・たけしろう)は、
1818年、伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市)生まれ。
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家で、「北海道」の名付け親として知られています。
→#「 北加伊道ー松浦武四郎のエゾ地探検」~北海道の名付け親・松浦武四郎①
→#なぜ?伊勢から蝦夷地へ…"お伊勢参りの秘密"~北海道の名付け親・松浦武四郎②
→#伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つー伊勢音頭は全国へ~北海道の名付け親・松浦武四郎③
→#全国をかけ巡るー伊勢・松阪から~北海道の名付け親・松浦武四郎④
→#蝦夷地に渡るー青森から函館へ ~北海道の名付け親・松浦武四郎⑤
→#上野発・寝台特急ゆうづる5号<1980>~【番外編】北海道の名付け親・松浦武四郎⑥
→#津軽海峡冬景色ー初めての青函連絡船<1980>~【番外編】北海道の名付け親・松浦武四郎⑦
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
1845年、松浦武四郎は、
江差の斎藤佐八郎という商人の手船に乗り、蝦夷地に渡ると、
函館を拠点に、
室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室と初めての蝦夷地探査をしています。

遅れること135年の1980年、
私は、青函連絡船「八甲田丸」に乗り、
初めての北海道「函館」に着きました。

最初に訪れたのは「函館朝市」

北海道で初めて食べた美味は、これ!

「イカそうめん」(^_^)v
函館を出発し、
小樽、釧路、根室、納沙布岬、池田、阿寒湖、網走、層雲峡、札幌と回り、
函館に戻りました。
松浦武四郎のルートと何となく似ています。
まだJRになる前の国鉄(日本国有鉄道)時代、東京発の「北海道周遊券」で文字通りの周遊です。
小樽では、運河を埋め立て道路とする整備案に対し、運河の保存運動が話題になっていた時でした。
今のような「小樽運河」の姿ではなかったわけですが、いま思うと、昔の姿を見ておいてよかったな~。「変わる」ということがリアルに理解できるようになりました。


1980年当時、小樽ー釧路間に夜行の普通列車が走っていて、一気に釧路へ向かいます。
普通列車なのに「からまつ」という名前が付いていたのを、不思議と忘れないものです。
朝早く着いた釧路の駅前で、私は北国の洗礼を受けました。
道路がツルンツルンに氷っていて、何回も続けて大転倒。どうにも立っていられません!! でもこの時の経験で、雪道には用心深くなりました。
釧路では、「炉端焼き」発祥のお店「炉ばた」に行きました。

「炉ばた」(釧路市)
釧路から根室へ、根室駅からバスで納沙布岬に。

納沙布岬
この年、流氷は接岸していませんでしたが、帰りのバスが来るまで、たった一人の納沙布岬で大切な経験をします。
納沙布岬の浜を歩いていて、波の音がリズムを刻んで、自分の中のメロディーとシンクロするようになったんです。
この時から、「音楽を聴く側のイニシアティブ」を強く意識するようになりました。
釧路に戻って、池田のワイン城へ。ここを知らずに、地域おこし、まちづくりの仕事はできなかったかもしれません。
冬の阿寒湖町、アイヌコタンに観光客はほとんどいませんでした。来てはいけない所に来てしまったような気持ちになったことを覚えています。
この頃、私は、松浦武四郎のことをまったく知りませんでしたが、文字を持たないアイヌの文化だからこそ、武四郎が残してくれた膨大な探査記録が、何か大きな役割を果たしてくれるかもしれません。
そして、網走ではたまたま見つけた「商人旅館」に泊まりました。広い北海道、道内を移動しながら商売をしている人がたくさんいるのを知りました。学生客がめずらしかったのもあって、すごく親切にしてもらい、「網走監獄」よりも鮮明に記憶に残っています。
層雲峡では、完全に普通の観光客に。氷瀑まつり、光と氷の世界は本当に綺麗でした。

「氷瀑まつり」(層雲峡)
いま思い起こすと、
この後、私がやることになる
博覧会、テーマパーク、博物館、まちづくり
の仕事のために大切な経験となった旅行でした。
さて、函館には、仕事で何度もくることになるのですが、
そのお話は別の回で♪
それでは、また次回(^_^)v
………………………………………………………………………………
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詳しい参加方法はこちら ↓ ↓
【11/26】「東京大神宮に願い文」プログラム
AC です。
「北のアイヌの国=北海道」
その名付け親・松浦武四郎のお話の8回目も【番外編】、
『「函館」からー初めての北海道<1980>』
です。

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松浦武四郎(まつうら・たけしろう)は、
1818年、伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市)生まれ。
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家で、「北海道」の名付け親として知られています。
→#「 北加伊道ー松浦武四郎のエゾ地探検」~北海道の名付け親・松浦武四郎①
→#なぜ?伊勢から蝦夷地へ…"お伊勢参りの秘密"~北海道の名付け親・松浦武四郎②
→#伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つー伊勢音頭は全国へ~北海道の名付け親・松浦武四郎③
→#全国をかけ巡るー伊勢・松阪から~北海道の名付け親・松浦武四郎④
→#蝦夷地に渡るー青森から函館へ ~北海道の名付け親・松浦武四郎⑤
→#上野発・寝台特急ゆうづる5号<1980>~【番外編】北海道の名付け親・松浦武四郎⑥
→#津軽海峡冬景色ー初めての青函連絡船<1980>~【番外編】北海道の名付け親・松浦武四郎⑦
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1845年、松浦武四郎は、
江差の斎藤佐八郎という商人の手船に乗り、蝦夷地に渡ると、
函館を拠点に、
室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室と初めての蝦夷地探査をしています。

遅れること135年の1980年、
私は、青函連絡船「八甲田丸」に乗り、
初めての北海道「函館」に着きました。

最初に訪れたのは「函館朝市」

北海道で初めて食べた美味は、これ!

「イカそうめん」(^_^)v
函館を出発し、
小樽、釧路、根室、納沙布岬、池田、阿寒湖、網走、層雲峡、札幌と回り、
函館に戻りました。
松浦武四郎のルートと何となく似ています。
まだJRになる前の国鉄(日本国有鉄道)時代、東京発の「北海道周遊券」で文字通りの周遊です。
小樽では、運河を埋め立て道路とする整備案に対し、運河の保存運動が話題になっていた時でした。
今のような「小樽運河」の姿ではなかったわけですが、いま思うと、昔の姿を見ておいてよかったな~。「変わる」ということがリアルに理解できるようになりました。


1980年当時、小樽ー釧路間に夜行の普通列車が走っていて、一気に釧路へ向かいます。
普通列車なのに「からまつ」という名前が付いていたのを、不思議と忘れないものです。
朝早く着いた釧路の駅前で、私は北国の洗礼を受けました。
道路がツルンツルンに氷っていて、何回も続けて大転倒。どうにも立っていられません!! でもこの時の経験で、雪道には用心深くなりました。
釧路では、「炉端焼き」発祥のお店「炉ばた」に行きました。

「炉ばた」(釧路市)
釧路から根室へ、根室駅からバスで納沙布岬に。

納沙布岬
この年、流氷は接岸していませんでしたが、帰りのバスが来るまで、たった一人の納沙布岬で大切な経験をします。
納沙布岬の浜を歩いていて、波の音がリズムを刻んで、自分の中のメロディーとシンクロするようになったんです。
この時から、「音楽を聴く側のイニシアティブ」を強く意識するようになりました。
釧路に戻って、池田のワイン城へ。ここを知らずに、地域おこし、まちづくりの仕事はできなかったかもしれません。
冬の阿寒湖町、アイヌコタンに観光客はほとんどいませんでした。来てはいけない所に来てしまったような気持ちになったことを覚えています。
この頃、私は、松浦武四郎のことをまったく知りませんでしたが、文字を持たないアイヌの文化だからこそ、武四郎が残してくれた膨大な探査記録が、何か大きな役割を果たしてくれるかもしれません。
そして、網走ではたまたま見つけた「商人旅館」に泊まりました。広い北海道、道内を移動しながら商売をしている人がたくさんいるのを知りました。学生客がめずらしかったのもあって、すごく親切にしてもらい、「網走監獄」よりも鮮明に記憶に残っています。
層雲峡では、完全に普通の観光客に。氷瀑まつり、光と氷の世界は本当に綺麗でした。

「氷瀑まつり」(層雲峡)
いま思い起こすと、
この後、私がやることになる
博覧会、テーマパーク、博物館、まちづくり
の仕事のために大切な経験となった旅行でした。
さて、函館には、仕事で何度もくることになるのですが、
そのお話は別の回で♪
それでは、また次回(^_^)v
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