こんにちは。
AC です。
「北のアイヌの国=北海道」
その名付け親・松浦武四郎のお話の5回目は、
『蝦夷地に渡るー青森から函館へ』
です。
※函館は当時、「箱館」と書きましたが、ここでは現在の「函館」の字を使用します。

松浦武四郎「蝦夷日誌」(函館市立中央図書館)
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
松浦武四郎(まつうら・たけしろう)は、
1818年、伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市)生まれ。
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家で、「北海道」の名付け親として知られています。
→#「 北加伊道ー松浦武四郎のエゾ地探検」~北海道の名付け親・松浦武四郎①
→#なぜ?伊勢から蝦夷地へ…"お伊勢参りの秘密"~北海道の名付け親・松浦武四郎②
→#伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つー伊勢音頭は全国へ~北海道の名付け親・松浦武四郎③
→#全国をかけ巡るー伊勢・松阪から~北海道の名付け親・松浦武四郎④
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「松浦武四郎」が目指した「最初の蝦夷地」は「函館」でした。
今も昔も、北海道の玄関は「函館」なんですね(^-^)/
幕末のこの頃、蝦夷地は大きく4つに分けて捉えられていたようです。
まず、松前を中心にした渡島半島の部分を「松前地」、または和人地とかシャモ地と言い、
札幌辺りから知床半島を結ぶ線の左上半分を「西蝦夷地」、右下半分を「東蝦夷地」、カラフトを「北蝦夷地」と呼んでいました。

蝦夷地の4区分
1843(天保14)年、26歳の秋、9年ぶりに伊勢の生家に戻り、父母の供養を済ませた武四郎は、
翌1844(弘化元)年2月、伊勢神宮に参拝した後、僧侶から還俗(げんぞく=1度出家した人が一般人に戻ること)し、伊勢から蝦夷地に向かって出発しました。
京都・大坂に立ち寄り、北陸路を通って日本海側を北へ、北前船の寄港地をたどって、9月には津軽の鰺ヶ沢に到着しました。
しかし、蝦夷行き旅人に対する松前藩の取締りが厳しく、渡海を断念して江戸に引き返すことになります。
1845(弘化2)年3月、28才の武四郎は江戸を出発し、再び鰺ヶ沢に。
今度は、江差の斎藤佐八郎という商人の手船に乗せてもらい渡海を果たし、初めて蝦夷地の地を踏むことができます。
武四郎はまず、「西蝦夷地」をめざしましたが、余所者(よそ者)に対する松前藩の警戒は厳しく、西蝦夷地の入り口であるセタナイ(瀬棚)まで行った所で追い返されてしまいます。
そこでまず武四郎は、江差の人別帳(江戸時代の戸籍簿)に入籍し、同地の住民となりました。
そして、知り合いとなった函館の請負商人白鳥新十郎や関所役人の猿田幾右衛門らの配慮を得て、和賀屋孫兵衛の手代ということで「東蝦夷地」に入り込むことができました。
白鳥新十郎は、京都で知り合いになった白鳥雄三の父で「請負商人」の一人でした。(「請負商人」とは、松前藩主や家臣が一定地域におけるアイヌとの交易を委ね、毎年運上金を受け取る、松前藩固有の「場所請負制」により交易をしていた商人のこと。)
また、猿田幾右衛門は、沖口役といって松前藩が蝦夷地と和人地の間の通行を制限し、往来する商船に通行税を課する税関のような役所の役人でした。
彼らは、関を通る手立てを取ってくれただけでなく、馬や宿の便宜まで図ってくれたのでした。
こうして、函館、室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室と探査することができ、知床では「勢州一志郡雲出松浦武四郎」と墨書した標柱を立てて引き返しています。

函館に戻ったのが10月に戻り、11月には、旅行中に得た地誌の類をいっぱい携え江戸に戻っています。
これが最初の蝦夷地探査です。
1846(弘化3)年、2回目の蝦夷地探査。この時は松前藩医西川春庵の下僕「雲平」として、江差から宗谷、樺太南部、紋別、知床、宗谷、千歳、江差と巡ります。
1849(嘉永2)年、3回目の蝦夷地探査。函館から船で国後島、択捉島へ渡り詳細に調査します。
1850(嘉永3)年、それまで3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめています。

「初航蝦夷日誌」(松浦武四郎記念館 所蔵)
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されています。
ものすごい行動力と、人びとが協力してくれるその人柄に感心してしまいますね(^_^)
それでは、また次回(^_^)v
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AC です。
「北のアイヌの国=北海道」
その名付け親・松浦武四郎のお話の5回目は、
『蝦夷地に渡るー青森から函館へ』
です。
※函館は当時、「箱館」と書きましたが、ここでは現在の「函館」の字を使用します。

松浦武四郎「蝦夷日誌」(函館市立中央図書館)
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松浦武四郎(まつうら・たけしろう)は、
1818年、伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市)生まれ。
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家で、「北海道」の名付け親として知られています。
→#「 北加伊道ー松浦武四郎のエゾ地探検」~北海道の名付け親・松浦武四郎①
→#なぜ?伊勢から蝦夷地へ…"お伊勢参りの秘密"~北海道の名付け親・松浦武四郎②
→#伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つー伊勢音頭は全国へ~北海道の名付け親・松浦武四郎③
→#全国をかけ巡るー伊勢・松阪から~北海道の名付け親・松浦武四郎④
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「松浦武四郎」が目指した「最初の蝦夷地」は「函館」でした。
今も昔も、北海道の玄関は「函館」なんですね(^-^)/
幕末のこの頃、蝦夷地は大きく4つに分けて捉えられていたようです。
まず、松前を中心にした渡島半島の部分を「松前地」、または和人地とかシャモ地と言い、
札幌辺りから知床半島を結ぶ線の左上半分を「西蝦夷地」、右下半分を「東蝦夷地」、カラフトを「北蝦夷地」と呼んでいました。

蝦夷地の4区分
1843(天保14)年、26歳の秋、9年ぶりに伊勢の生家に戻り、父母の供養を済ませた武四郎は、
翌1844(弘化元)年2月、伊勢神宮に参拝した後、僧侶から還俗(げんぞく=1度出家した人が一般人に戻ること)し、伊勢から蝦夷地に向かって出発しました。
京都・大坂に立ち寄り、北陸路を通って日本海側を北へ、北前船の寄港地をたどって、9月には津軽の鰺ヶ沢に到着しました。
しかし、蝦夷行き旅人に対する松前藩の取締りが厳しく、渡海を断念して江戸に引き返すことになります。
1845(弘化2)年3月、28才の武四郎は江戸を出発し、再び鰺ヶ沢に。
今度は、江差の斎藤佐八郎という商人の手船に乗せてもらい渡海を果たし、初めて蝦夷地の地を踏むことができます。
武四郎はまず、「西蝦夷地」をめざしましたが、余所者(よそ者)に対する松前藩の警戒は厳しく、西蝦夷地の入り口であるセタナイ(瀬棚)まで行った所で追い返されてしまいます。
そこでまず武四郎は、江差の人別帳(江戸時代の戸籍簿)に入籍し、同地の住民となりました。
そして、知り合いとなった函館の請負商人白鳥新十郎や関所役人の猿田幾右衛門らの配慮を得て、和賀屋孫兵衛の手代ということで「東蝦夷地」に入り込むことができました。
白鳥新十郎は、京都で知り合いになった白鳥雄三の父で「請負商人」の一人でした。(「請負商人」とは、松前藩主や家臣が一定地域におけるアイヌとの交易を委ね、毎年運上金を受け取る、松前藩固有の「場所請負制」により交易をしていた商人のこと。)
また、猿田幾右衛門は、沖口役といって松前藩が蝦夷地と和人地の間の通行を制限し、往来する商船に通行税を課する税関のような役所の役人でした。
彼らは、関を通る手立てを取ってくれただけでなく、馬や宿の便宜まで図ってくれたのでした。
こうして、函館、室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室と探査することができ、知床では「勢州一志郡雲出松浦武四郎」と墨書した標柱を立てて引き返しています。

函館に戻ったのが10月に戻り、11月には、旅行中に得た地誌の類をいっぱい携え江戸に戻っています。
これが最初の蝦夷地探査です。
1846(弘化3)年、2回目の蝦夷地探査。この時は松前藩医西川春庵の下僕「雲平」として、江差から宗谷、樺太南部、紋別、知床、宗谷、千歳、江差と巡ります。
1849(嘉永2)年、3回目の蝦夷地探査。函館から船で国後島、択捉島へ渡り詳細に調査します。
1850(嘉永3)年、それまで3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめています。

「初航蝦夷日誌」(松浦武四郎記念館 所蔵)
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されています。
ものすごい行動力と、人びとが協力してくれるその人柄に感心してしまいますね(^_^)
それでは、また次回(^_^)v
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