こんにちは。
AC です。
「北のアイヌの国=北海道」
その名付け親・松浦武四郎のお話の4回目は、
『全国をかけ巡るー伊勢・松阪から』
です。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
松浦武四郎(まつうら・たけしろう)は、
1818年、伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市)生まれ。
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家で、「北海道」の名付け親として知られています。
→#「 北加伊道ー松浦武四郎のエゾ地探検」~北海道の名付け親・松浦武四郎①
→#なぜ?伊勢から蝦夷地へ…"お伊勢参りの秘密"~北海道の名付け親・松浦武四郎②
→#伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つー伊勢音頭は全国へ~北海道の名付け親・松浦武四郎③
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松浦武四郎は、蝦夷地に渡るまでに、日本全国を歩いています。
1833(天保4)年、16歳の時、手紙を残して突然家出し、東海道を下り江戸に向かったのが最初の旅でした。
江戸に出た竹四郎は、頼るべき所を親戚筋の中嶋磯五郎に求め、世話になったようです。
この時、「篆刻(てんこく)」(石に文字を彫ってハンコを作ること)を見よう見まねで覚え、全国を巡るの旅の資金を稼いだと言われています。

篆刻(てんこく)
ひと月ほどで、親元から使いが来て、伊勢に戻りますが、この時は木曾街道回りで帰っています。
そして翌1834(天保5)年、17歳の若さで、今度は日本全国行脚の旅に出発します。
17~19歳の3年間で、東北・北陸・甲信越・山陰・山陽・四国を踏破し、20歳で九州を遍歴します。
旅の途中、『伊勢の国、大神官様の在る処のもの成るが、日本国中の高山を廻らんがため』旅をしていると、
「修行者」であることと「伊勢出身」であることを看板にして歩いています。
松浦武四郎が全国を旅する時、伊勢国の出身であることが彼の旅を助けたと考えられます。
当時は「おかげ参り」が流行し、一生に一度はお伊勢参りをしたいというのが、多くの人びとの夢でした。
「おかげ参り」の旅人は、伊勢神宮へと続く街道を旅しながら、道沿いの家々から厚いおもてなしを受けました。
そのため、武四郎が各地を旅した際に、伊勢国から来たということで逆に親切にしてもらったと考えられています。
武四郎は、旅先でお世話になった人が「おかげ参り」に出る時は、実家への手紙を託し、
旅の無事を伝えるとともに、「お世話になった人なので世話をして欲しい」と頼んでいます。
武四郎の旅に欠かせなかったものは、記録をするための「野帳(のちょう)」と呼ばれる小さな帳面と、墨と筆を入れて携帯できる「矢立(やたて)」という道具でした。

矢立(やたて)
武四郎の旅のスタイルは、常に「野帳」を持ち歩き、各地で見たり聞いたりしたこと、興味を持ったことを、その場で細かく記録をするというものでした。

「厳島景観圖」(松浦武四郎の野帳)
「厳島景観圖」は、広島県の宮島にある厳島神社を訪れた際、境内の様子を「野帳」にスケッチしたもので、向かって左手に五重塔、右手に多宝塔が描かれています。
1838(天保9)年、21歳の春、武四郎は長崎で大病を患い死にそうになります。
その後、世話になった長崎の「禅林寺」で出家し、名前も「文桂」と改め、長崎県北部の平戸でお寺の住職を務めています。
武四郎はさらに、長崎出島の模様を探ったり、対馬へ烏賊釣り船で渡ったりして、
「唐・天竺」に渡るてだてを探っていたものの、鎖国のために海外へ行くことは断念せざるを得なかったようです。
1843(天保14)年、26歳の秋、9年ぶりに伊勢の生家に戻ります。
母の死の知らせを受けたことがきっかけなのですが、
長崎で、津川文作(蝶園)という博識の町人から、赤蝦夷(ロシア人)の南下によって北方に侵略の危機が追っているという話を聞き、
すでに,最上徳内や近藤重蔵,間宮林蔵の探検が知られていたものの、まだ詳しいことがわからなかった蝦夷地へと赴き、
日本の北の地域がどんなところであるかを自分の目で確かめ、多くの人びとに伝えようと心に決めた時でもありました。
1844(弘化元年)2月、父母の供養をすませ、伊勢神宮に参拝して蝦夷地に向かって出発します。
この時、僧侶から還俗(げんぞく=1度出家した人が一般人に戻ること)しています。
蝦夷地に向けた、極めて大きな決意があったことが伝わってきます。
さて、松浦武四郎は、いよいよ蝦夷地との運命的ともいえる出会いをすることになります。
そのお話は別の回で~♪
それでは、また次回(^_^)v
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AC です。
「北のアイヌの国=北海道」
その名付け親・松浦武四郎のお話の4回目は、
『全国をかけ巡るー伊勢・松阪から』
です。
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松浦武四郎(まつうら・たけしろう)は、
1818年、伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市)生まれ。
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家で、「北海道」の名付け親として知られています。
→#「 北加伊道ー松浦武四郎のエゾ地探検」~北海道の名付け親・松浦武四郎①
→#なぜ?伊勢から蝦夷地へ…"お伊勢参りの秘密"~北海道の名付け親・松浦武四郎②
→#伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つー伊勢音頭は全国へ~北海道の名付け親・松浦武四郎③
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松浦武四郎は、蝦夷地に渡るまでに、日本全国を歩いています。
1833(天保4)年、16歳の時、手紙を残して突然家出し、東海道を下り江戸に向かったのが最初の旅でした。
江戸に出た竹四郎は、頼るべき所を親戚筋の中嶋磯五郎に求め、世話になったようです。
この時、「篆刻(てんこく)」(石に文字を彫ってハンコを作ること)を見よう見まねで覚え、全国を巡るの旅の資金を稼いだと言われています。

篆刻(てんこく)
ひと月ほどで、親元から使いが来て、伊勢に戻りますが、この時は木曾街道回りで帰っています。
そして翌1834(天保5)年、17歳の若さで、今度は日本全国行脚の旅に出発します。
17~19歳の3年間で、東北・北陸・甲信越・山陰・山陽・四国を踏破し、20歳で九州を遍歴します。
旅の途中、『伊勢の国、大神官様の在る処のもの成るが、日本国中の高山を廻らんがため』旅をしていると、
「修行者」であることと「伊勢出身」であることを看板にして歩いています。
松浦武四郎が全国を旅する時、伊勢国の出身であることが彼の旅を助けたと考えられます。
当時は「おかげ参り」が流行し、一生に一度はお伊勢参りをしたいというのが、多くの人びとの夢でした。
「おかげ参り」の旅人は、伊勢神宮へと続く街道を旅しながら、道沿いの家々から厚いおもてなしを受けました。
そのため、武四郎が各地を旅した際に、伊勢国から来たということで逆に親切にしてもらったと考えられています。
武四郎は、旅先でお世話になった人が「おかげ参り」に出る時は、実家への手紙を託し、
旅の無事を伝えるとともに、「お世話になった人なので世話をして欲しい」と頼んでいます。
武四郎の旅に欠かせなかったものは、記録をするための「野帳(のちょう)」と呼ばれる小さな帳面と、墨と筆を入れて携帯できる「矢立(やたて)」という道具でした。

矢立(やたて)
武四郎の旅のスタイルは、常に「野帳」を持ち歩き、各地で見たり聞いたりしたこと、興味を持ったことを、その場で細かく記録をするというものでした。

「厳島景観圖」(松浦武四郎の野帳)
「厳島景観圖」は、広島県の宮島にある厳島神社を訪れた際、境内の様子を「野帳」にスケッチしたもので、向かって左手に五重塔、右手に多宝塔が描かれています。
1838(天保9)年、21歳の春、武四郎は長崎で大病を患い死にそうになります。
その後、世話になった長崎の「禅林寺」で出家し、名前も「文桂」と改め、長崎県北部の平戸でお寺の住職を務めています。
武四郎はさらに、長崎出島の模様を探ったり、対馬へ烏賊釣り船で渡ったりして、
「唐・天竺」に渡るてだてを探っていたものの、鎖国のために海外へ行くことは断念せざるを得なかったようです。
1843(天保14)年、26歳の秋、9年ぶりに伊勢の生家に戻ります。
母の死の知らせを受けたことがきっかけなのですが、
長崎で、津川文作(蝶園)という博識の町人から、赤蝦夷(ロシア人)の南下によって北方に侵略の危機が追っているという話を聞き、
すでに,最上徳内や近藤重蔵,間宮林蔵の探検が知られていたものの、まだ詳しいことがわからなかった蝦夷地へと赴き、
日本の北の地域がどんなところであるかを自分の目で確かめ、多くの人びとに伝えようと心に決めた時でもありました。
1844(弘化元年)2月、父母の供養をすませ、伊勢神宮に参拝して蝦夷地に向かって出発します。
この時、僧侶から還俗(げんぞく=1度出家した人が一般人に戻ること)しています。
蝦夷地に向けた、極めて大きな決意があったことが伝わってきます。
さて、松浦武四郎は、いよいよ蝦夷地との運命的ともいえる出会いをすることになります。
そのお話は別の回で~♪
それでは、また次回(^_^)v
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