こんにちは。

AC です。



「北のアイヌの国=北海道」

その名付け親・松浦武四郎のお話の2回目は、

『なぜ?伊勢から蝦夷地へ…"お伊勢参りの秘密"』

です。

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松浦武四郎(まつうら・たけしろう)は、

江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家、浮世絵師、好古家(古物収集家)として紹介され、「北海道」の名付け親として知られています。
#「 北加伊道ー松浦武四郎のエゾ地探検」~北海道の名付け親・松浦武四郎①


文化15年2月6日(1818年3月12日)、

伊勢国一志郡須川村(旧三重県一志郡三雲町、現在の松阪市小野江町)に、

松浦時春(桂介)の四男(末っ子)として生まれ、幼名を竹四郎、のちに武四郎と名のりました。


家の前の道は「伊勢街道」といい、

南に行けば"伊勢神宮"、北へ行けば"東海道"につながっていて、

古くから「お伊勢参り」の旅人が多く行き交った道でした。

松阪は、伊勢のすぐ北にある街です。

「あと少しで伊勢神宮に着くぞ~」という場所で、

長旅で疲れた旅人たちのテンションも高まってくる辺りなんです。

小さい頃から武四郎が楽しみにしていたのが、

家の前の通りを眺めることだったそうです。

「お伊勢参り」の旅人たちで溢れていたからです。

これで、旅へのあこがれが膨らまない訳がありません♪

「伊勢参宮 宮川の渡し」広重
「伊勢参宮 宮川の渡し」歌川広重 (文政13年のお蔭参りの情景) 神宮徴古館所蔵

「伊勢参宮 宮川の渡し」広重-左
「伊勢参宮 宮川の渡し」左の一枚
→松阪からさらに進むと"宮川の渡し"です。この渡しは無料な上,嫌がらせもなく親切だったといいます。宮川を越すと、伊勢神宮まであと1里(4km)。旅人たちのワクワク感が伝わってきます。



天保4年(1833年)、武四郎が16歳の時、

無一文で家を飛び出し、江戸まで初めての旅に出たそうです。

「伊勢街道」を北に進み、桑名から船で渡り、東海道では富士山を眺め、各地の味を楽しみながら、江戸へ向かったといいます。

一ヶ月で居場所がわかり、連れ戻されてしまうのですが、

この江戸への旅が、蝦夷地に向かう武四郎の旅の始まりとなりました。

伊勢街道(地図)


「16歳で、無一文の一人旅」

さて、どうしたらそんなことができるのでしょうか?

きっと何か、秘密があるに違いありません。

その「秘密」を、

「お伊勢参り」の中に発見しました。



江戸時代、「お伊勢参り」は全時代を通じて流行しましたが、

・慶安 3年(1650年)
・宝永 2年(1705年)
・明和 8年(1771年)
・文政13年(1830年)

およそ60年周期で、伊勢神宮への参拝が熱狂的に行われ、多くの民衆が伊勢に押し寄せました。

明和 8年(1771年)のブームから、広く「おかげ参り(お蔭参り)」と言われるようになり、

また、無断で家を抜け出して「お伊勢参り」をすることを「抜け参り」と言いました。

子は親に断りなく、妻も夫の許可なく、奉公人も主人に無断で伊勢参宮に出掛けたそうですが、

帰ってきても咎められたり、処罰されることはなかったといいます。

お伊勢さまに詣でることは、人間の善行とされる以上、誰も非難できないという風潮があったからです。

また、この「抜け参り」の数は非常に多く、参詣者の三分の一を占めていたと言われています。



そして、文政13年(1830年)の「文政のおかげ参り」は、500万人を越える最大の規模となりました。

当時の日本の総人口を約3,000万人とすると、6人に1人が参拝したことになります。

この年、武四郎は12歳。

家の前を行き交う「おかげ参り」の旅人たちの様子が、楽しくて仕方がなかったことでしょう。



「おかげ参り」の旅人の必需品に、不思議なモノがあります。

1本の「柄杓(ひしゃく)」です。

神社の手水舎に置いてある、あの「柄杓」です。

柄杓(ひしゃく)

「お伊勢参りにまいります」と柄杓を差し出すと、

道筋の家々が、食べ物や宿を与えてくれたり、

路銀(旅に必要な金銭)まで施してくれたそうです。

もてなす側も、参拝者を助けることは神徳を高められると考えていたからです。

つまり、

『十分な旅行費用を用意しなくても、お伊勢参りをすることができた』

ということなんです。



このように、

「お伊勢参り」をした人は必ず、伊勢の人たちから「おもてなし」を受けていたわけです。

そのような「おもてなし」の経験をした人たちが、全国に帰っていたわけです。

ですから、

武四郎が行く先々で「伊勢から来た」と言うと、丁重な"おもてなし"を受けられたのだといいます。

そんなことが、あったんですね~!

伊勢の人たちの「おもてなし」の蓄積こそが、武四郎が全国の旅を続ける下支えとなっていたわけです。

別の言い方をすると、

全国を旅する探検家が伊勢から生まれたのは、必然だったのかもしれません。

「伊勢から蝦夷地へ」

これもまた、歴史が運命づけたことだったような気がします。


それでは、また次回(^_^)v



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