こんにちは。

AC です。



「北加伊道」 ……?

「ひょっとして、北海道の間違い?」

「いえいえ、間違いではなくて、正真正銘、北海道のことです!」


明治2(1869)年、蝦夷地に新しい名前を付ける時の名前なんだそうです。

また、これは「きたかいどう」と読みます。


北海道の方たちは、学校で習うかもしれませんが、

それ以外の人には、初めて耳にする話だと思います。


図書館でも、「北加伊道」という名の絵本を見つけました。

「北加伊道ー松浦武四郎のエゾ地探検」
「北加伊道ー松浦武四郎のエゾ地探検」(ポプラ社)


この新しい地名「北加伊道」の名付け親は、

松浦武四郎(まつうら・たけしろう)という人で、

16歳から日本各地を旅した幕末の探検家です。

松浦武四郎(1818-1888)
松浦武四郎(1818-1888)

この写真は、晩年のものですが、

1818年(文政元年)、伊勢国一志郡須川村(三重県松阪市小野江町)で生まれ、

28歳の時に初めて蝦夷地(現在の北海道)に渡り、6回もの蝦夷地探検を行なっています。

最初の探検では、函館から入り知床岬まで行きました。

2度目の旅では、先住のアイヌの人たちとの交流を深め、アイヌの言葉を習いました。

3回目には、蝦夷地を領土としていた松前藩が行っていたアイヌの人たちへの残酷な扱いを知ることになります。

残りの蝦夷地探検の旅は、探検家としてだけではなく、

箱館奉行所(現在の函館市)の役人として、3回の探検をしています。

武四郎の出会ったアイヌの人びとの記録は、江戸でも「読み物」として出版され、人気を博したそうです。


江戸幕府が終わり、明治維新が起こった頃、

松浦武四郎は、「蝦夷地通(つう)」としての名声を得ており、

大久保利通と岩倉具視の推挙により、

武四郎は52歳で、開拓使の開拓判官という役職に就いています。

「開拓使」は、明治新政府が北方開拓のため、明治2年に設置した役所です。

開拓使本庁舎
開拓使本庁舎


ここで、武四郎による「北海道の地名提案」が行われました。


武四郎は、アイヌの人びとが自分たちのことを「カイナー」と呼び合っていることを知っていました。

「カイ」は「この国(大地)に生まれた者」、「ナー」は敬称で「カイナー」。

「道」は、古代律令制以来の広域行政区画に付けられています。

「なるほど!!」

「北加伊道」は「北のアイヌの国」という意味だったんですね(^-^)/



松浦武四郎は、アイヌ民族の文化と苦難を"文字"と"絵"で記録し、伝え続けた人物です。

彼が目指したのは、何回かの旅で交流を深めたアイヌの人たちとの共存でした。

そして、地名にはアイヌの言葉を中心に各地を命名したそうです。

現在の支庁名、郡、市町村名のほとんどがアイヌ語を語源としています。

アイヌの人たちは「文字」を持っていませんでしたから、

アイヌの人たちが使っている「音」に「漢字」を当てはめていったんですね。

また行政区画も、松浦武四郎の原案がほとんどそのまま、現代まで続いているんだそうです。


そして「北海道」という名前も誕生しました。

この時、武四郎は、以下の6つの候補を提出したそうです。

「北加伊道」
「海北道」
「海島道」
「東北道」
「日高見道」
「千島道」

この中から、「北加伊道」が選ばれました。


日本には、古代の律令制から続く「五畿七道(ごきしちどう)」という広域地方行政区画があります。

五畿七道(図)
「五畿七道」

この「五畿七道」にも対応させるためか、

最終的に「加伊」を「海」として、現在の「北海道 」という名前が誕生しています。

これ以降、「五畿七道」は「五畿八道」になりました。


松浦武四郎はこうして「北海道」の名付け親となりますが、

「開拓使」の商人との癒着、松前藩の圧力や明治政府のアイヌ融和政策に反発し、

翌年の明治3(1870)年に、辞任しています。


「北加伊道」という名に込められた「願い」

そこには、私たち日本人にとって大切なもの。

それを考える手がかりがあるような気がします。

皆さんも、

もう少し知りたいとお思いになりませんか(^-^)/


それでは、また次回(^_^)v



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