こんにちは。

AC です。


吉本新喜劇の全盛期で、一世を風靡した花紀京(はなき・きょう)さんが亡くなられました。78歳だったそうです。

謹んで心からご冥福をお祈りします。


花紀京(ポートレート)
花紀京(1937-2015)


私が「吉本新喜劇」をテレビで初めて見たのは1970年、あの大阪万博EXPO'70が開催された年でした。
#地平への扉、大阪万博EXPO'70

なんば花月からの吉本新喜劇の中継、朝日放送の「お笑い花月劇場」がこの年1年間だけ、関東地方でも放送されていました。

その時の座長が「花紀京」だったのですが、岡八郎との掛け合いとその間が見事でした。

その間の取り方は絶妙で、毎週、腹を抱えて笑いをこらえていた記憶が鮮明に残っています。

吉本新喜劇の中でも群を抜いた、ボケの「最高傑作」だったと思います。

よしもと新喜劇(原哲男・・)
左から、原哲男、花紀京、岡八郎


ずいぶん後になってから知ったことですが、

花紀京の父親は、横山エンタツです。

横山エンタツは、花菱アチャコとのコンビ「エンタツ・アチャコ」で昭和漫才の全盛期を築いた漫才師ですね。

また、関西大学文学部仏文科入学後の1958年、花登筺に弟子入りし、1959年には劇団「笑いの王国」の旗揚げに参加しています。

花登筐(はなと・こばこ)は、

「番頭はんと丁稚どん」や「細うで繁盛記」などで知られる、超売れっ子脚本家でした。

「花紀京」という芸名も、

花登筐が、本名(石田京三)の「京」と、花登の「花」を入れ、“ききょうの花”をひっくり返した形にして付けたものなんだそうです。

その花登筐が、大村崑、芦屋雁之助、芦屋小雁らと結成した劇団「笑いの王国」の立ち上げに、花紀京も参加していたということですね。


同劇団解散後、1962年に吉本興業に入ると、

1963年には早くも吉本新喜劇の座長に抜擢され、岡八郎や原哲男らとの掛け合いで活躍するようになりました。

トレードマークとも言われるニット帽にシャツ、腹巻、ニッカーボッカーで目の下に隈、鼻を赤くしてのスタイルが多く、泥棒役や土木作業員役が主な役どころでした。

花紀京(ニッカポッカ)



なんば花月からの吉本新喜劇の中継、「お笑い花月劇場」は、1965年から1984年まで朝日放送テレビで毎週土曜日の午後に放送されていたそうです。

残念ながら、ずっと関東では放送されていなかったのですが、

1970年1月10日から1971年3月27日までの1年間だけ、当時のキー局であったTBSテレビで放送されました。

昭和45年頃の吉本新喜劇(中央が花紀京)
昭和45年頃の吉本新喜劇(中央が花紀京)


その時、高校受験真っ最中の中学生だった私に、独特の笑いの神髄を見る機会を与えてくれたことに感謝しています。

ちょうど、花紀京が脂の乗りきった頃の吉本新喜劇の舞台だったのかもしれません。


それでは、ご覧になったことのない方のために、映像資料を見つけてきました。

当時の吉本新喜劇、花紀京の舞台の雰囲気を、ちょっとだけお楽しみください(^-^)/


「よしもと新喜劇/花紀京・岡八郎」


1989年、新喜劇の「若返り化」を機に、岡八郎らとともに退団。

その後は、脇役俳優として多数の映画に出演し、新境地を開拓していきました。

できることなら、劇場で生の「花紀京」の笑いに接してみたかったですね(^_^;)


それでは、また次回(^_^)v