こんにちは。
AC です。
今日は、「江戸の三富!」です。
「江戸の三富」は「宝くじ展'80in池袋西武」で展示された「情報」の一つでした。
→#「"宝くじ"を展示する?」宝くじ展'80~1980
→#「江戸の"富くじ"?」宝くじ展'80のお話~1980
→#「"富くじ"と賭博?」宝くじ展'80のお話~1980
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展示・ディスプレイ会社「乃村工藝社」で初めて担当した「宝くじ展'80」は、一週間の「文化催事」で、
クライアントは、第一勧業銀行宝くじ部
会期は、1980年 8月29日(金)~9月3日(水)
会場は、西武百貨店池袋店の大催事場
この年の「宝くじ展'80」で扱った「情報」は、次のようなものでしたが、このブログでは、新しい観点でご紹介します。
〇宝くじの「歴史」
〇宝くじ発売の「仕組み」
〇「時効当せん金ゼロ」のキャンペーン
〇9月2日宝くじの日の「お楽しみ抽選」
〇「幸運の女神」のお披露目
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〇宝くじの「歴史」~江戸の三富~
「江戸の三富」と呼ばれ、幕府公認の富くじ興行で絶大な人気を博したのが、「谷中感応寺」「目黒不動」「湯島天神」でした。
その周辺には門前町が形成され、江戸の庶民は、参詣と行楽をセットにして楽しんでいたんですね。

江戸名所「目黒不動」歌川広重(1843)
江戸での「富くじ」の流行は、八代将軍吉宗が享保年間(1716-1736)、財政困難を理由に神社・仏閣に対する幕府の援助を打ち切ったことに始まります。
この援助打ち切りに対して、寺社の新しい資金調達の手段として考え出されたのが「富くじ」だったのです。
幕府は特定の寺社の興行にだけ「富くじ」を認め、それ以外は「私的な賭博行為」として一切許可しない方針をとりました。
許可された興行は「御免富」として、幕府の寺社に対する助成策として位置づけられたわけです。
中でも、元禄の頃から興行を続けている「谷中の感応寺」、境内が盛り場で賑わう「湯島天神」、郊外の行楽スポットとして人気のあった「目黒不動」の三ヶ所は、毎月一回のペースで興行が行われ、当時から「江戸の三富」として庶民から絶大な人気を博しました。

「谷中感応寺富くじ興行」江戸名所百人一首

売られている紙の「富札」守貞漫稿

木札の「富札」千代田区歴史民族資料館蔵
文化・文政期(1804-1830)には、谷中感応寺、目黒不動、湯島天神の「江戸の三富」のほか、興行元は数十ヶ所に増加し最盛期を迎えました。
その主な寺社は、
浅草八幡宮、浅草観音、浅草三社、浅草念仏堂、浅草大神宮、浅草焔魔堂、本所回向院、深川霊岸寺、芝明神、愛宕山、西久保八幡宮、白山権現、根津権現、平川天神などでした。
ところで、「御免富」の富札代は2朱から3分くらいまで色々あったようです。(4,000文=16朱=4分=1両)
「1分(=4朱=1,000文)」の場合、現在のお金でおよそ15,000円くらいになるそうですから、庶民にはおいそれと手が出せない値段です。
「富くじ」は、庶民には手の届かないものだったのでしょうか?
もちろん、そんなことはなかったようです。
それでは一体、どうしていたのでしょうか?
このお話は、また別の回で♪
→#「"陰富?"庶民の富くじ」宝くじ展'80のお話~1980
それでは、また次回(^_^)v
→♪ACのブログランキングTOP20 ~2014.8-10月
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クライアントは、第一勧業銀行宝くじ部
会期は、1980年 8月29日(金)~9月3日(水)
会場は、西武百貨店池袋店の大催事場
この年の「宝くじ展'80」で扱った「情報」は、次のようなものでしたが、このブログでは、新しい観点でご紹介します。
〇宝くじの「歴史」
〇宝くじ発売の「仕組み」
〇「時効当せん金ゼロ」のキャンペーン
〇9月2日宝くじの日の「お楽しみ抽選」
〇「幸運の女神」のお披露目
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〇宝くじの「歴史」~江戸の三富~
「江戸の三富」と呼ばれ、幕府公認の富くじ興行で絶大な人気を博したのが、「谷中感応寺」「目黒不動」「湯島天神」でした。
その周辺には門前町が形成され、江戸の庶民は、参詣と行楽をセットにして楽しんでいたんですね。

江戸名所「目黒不動」歌川広重(1843)
江戸での「富くじ」の流行は、八代将軍吉宗が享保年間(1716-1736)、財政困難を理由に神社・仏閣に対する幕府の援助を打ち切ったことに始まります。
この援助打ち切りに対して、寺社の新しい資金調達の手段として考え出されたのが「富くじ」だったのです。
幕府は特定の寺社の興行にだけ「富くじ」を認め、それ以外は「私的な賭博行為」として一切許可しない方針をとりました。
許可された興行は「御免富」として、幕府の寺社に対する助成策として位置づけられたわけです。
中でも、元禄の頃から興行を続けている「谷中の感応寺」、境内が盛り場で賑わう「湯島天神」、郊外の行楽スポットとして人気のあった「目黒不動」の三ヶ所は、毎月一回のペースで興行が行われ、当時から「江戸の三富」として庶民から絶大な人気を博しました。

「谷中感応寺富くじ興行」江戸名所百人一首

売られている紙の「富札」守貞漫稿

木札の「富札」千代田区歴史民族資料館蔵
文化・文政期(1804-1830)には、谷中感応寺、目黒不動、湯島天神の「江戸の三富」のほか、興行元は数十ヶ所に増加し最盛期を迎えました。
その主な寺社は、
浅草八幡宮、浅草観音、浅草三社、浅草念仏堂、浅草大神宮、浅草焔魔堂、本所回向院、深川霊岸寺、芝明神、愛宕山、西久保八幡宮、白山権現、根津権現、平川天神などでした。
ところで、「御免富」の富札代は2朱から3分くらいまで色々あったようです。(4,000文=16朱=4分=1両)
「1分(=4朱=1,000文)」の場合、現在のお金でおよそ15,000円くらいになるそうですから、庶民にはおいそれと手が出せない値段です。
「富くじ」は、庶民には手の届かないものだったのでしょうか?
もちろん、そんなことはなかったようです。
それでは一体、どうしていたのでしょうか?
このお話は、また別の回で♪
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それでは、また次回(^_^)v
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