こんにちは。
AC です。
その後の人生に影響を与える、大げさに言えば、その人の人生を決定づけるような「経験」
時に、そういう場面に遭遇することがあります。
たとえば、こんなケース!
アポロ8号は、1968年12月のクリスマス、
初めて月を10周して地球に帰還しました。
この時、私の中にあった「二次元の月」が「三次元の月」に変わりました。
→「歴史的な月」アポロ8号
1970年の大阪万博は、たくさんの人が初めての、そして強烈な「経験」をすることができた大イベントでした。
今の50代の人は、10代の思春期・青春期での出来事であったため、特に大きな影響を受けてきた人が多いと思います。

大阪万博博覧会会場(1970)
私にとって、大阪万博で初めて遭遇したものは、3つありました。
一つ目は、
●初めて目にした大規模なイベント空間「博覧会」
とにかく、大きかったです。
二つ目が、
●初めて耳にした「パビリオン」と呼ばれる大規模な仮設建築物
こんな立派な建物を、6ヶ月の会期が終わると撤去するなんて…。
いま聞くと、
「何も特別なことないじゃん!」
と思うことでしょう。
東京ディズニーリゾートやユニバーサル・スタジオ・ジャパンがありますから、当たり前の風景になっていますね(^-^)
でも、少し数字で比べてみましょう。
〇東京ディズニーリゾート
敷地面積:51ha
入園者数:3,129万人(2013年度)
〇ユニバーサル・スタジオ・ジャパン
敷地面積:39ha
入園者数:1,050万人(2013年度)
〇大阪万博Expo'70
敷地面積:330ha
入園者数:6,421万人(6ヶ月間)
この数字を、皆さんはどう感じるでしょうか?
写真で見る以上に、巨大なイベント空間だったのがおわかりになると思います。
これを、6ヶ月間の会期が終わると取り壊したんですから、また別のインパクトもありました。
私の場合は、
その後、博覧会、テーマパークづくりの仕事に就くことになるので、まさに直接的に影響を受けた一人なのですが、
仕事として関わりのない人でも、計り知れない影響や恩恵を受けた人がたくさんいるはずです。
そして、大阪万博で初めて遭遇したもの、
最後の3つ目は、
●世界各国の一流ミュージシャンのライブパフォーマンス
でした。
万博のために世界各地から一流のミュージシャンが訪れ、数多くのコンサートが開催されていたからです。
大阪万博の会場には、万国博ホール(EXPO HALL)というコンサートホールがありました。
1階席、2階席あわせて収容人員が1,500人ですから、今では普通にどこの街にもあるホールです。
そうです、日本各地にある劇場・ホールの多くは、大阪万博の後から建設されたもので、この頃にはまだ少なかったんですね。

「万国博ホール」(1970)
万国博ホールは、お祭り広場に面した壁面、舞台の背後の部分がガラス張りで、中からは外の水上ステージの様子が、外からは中のステージの様子が見えるという珍しい構造をしていました。
サミー・デイヴィス・Jr.からビリー・ボーン・オーケストラ、ブラザーズ・フォーなど、すごいアーティストたちが、万博ホールのステージに連日出演していました。
このようなことは、日本ではそれまでなかったことだと思います。
私が好きになっていたボサノバでも、「セルジオ・メンデス&ブラジル’66」と、弟分的存在で「サンホセへの道」が大ヒットしていた「ボサ・リオ」も来ると聞いてわくわくしていました。

「AREGRIA」ボサリオ(1970)
私が万博会場に行った日は、「フィフス・ディメンション」のコンサートが予定されていました。
こう話すと、コンサートを観たような話になってしまいますが、親戚に連れられ観に来ていた中学生にそんなことはできません。

フィフス・ディメンション(The 5th Demention)
それまで、海外のポピュラー音楽は、ラジオやレコードで聴くことは盛んでしたが、映像や写真での情報は少なく、顔も知らずに聞いていたアーティストが普通だったと思います。
テレビに露出していたビートルズが、特別な存在だったというわけです。
そんな時代に、「フィフス・ディメンション」の本物が、同じ万博会場にいると考えただけで、興奮したものでした。
海のかなたにいる「紙っぺらのような海外アーティスト」が「生で聴くことのできるリアルなアーティスト」に変わった瞬間です。
この時の変化は、「二次元の月」が「三次元の月」に変わったのと同じくらいのインパクトがあったと記憶しています。
フィフス・ディメンション「Aquarius-Let The Sunshine In 」(1969)
それからです、音楽ライブの魅力を伝えたい、そう思うようになったのでした~♪
それでは、また次回(^_^)v
AC です。
その後の人生に影響を与える、大げさに言えば、その人の人生を決定づけるような「経験」
時に、そういう場面に遭遇することがあります。
たとえば、こんなケース!
アポロ8号は、1968年12月のクリスマス、
初めて月を10周して地球に帰還しました。
この時、私の中にあった「二次元の月」が「三次元の月」に変わりました。
→「歴史的な月」アポロ8号
1970年の大阪万博は、たくさんの人が初めての、そして強烈な「経験」をすることができた大イベントでした。
今の50代の人は、10代の思春期・青春期での出来事であったため、特に大きな影響を受けてきた人が多いと思います。

大阪万博博覧会会場(1970)
私にとって、大阪万博で初めて遭遇したものは、3つありました。
一つ目は、
●初めて目にした大規模なイベント空間「博覧会」
とにかく、大きかったです。
二つ目が、
●初めて耳にした「パビリオン」と呼ばれる大規模な仮設建築物
こんな立派な建物を、6ヶ月の会期が終わると撤去するなんて…。
いま聞くと、
「何も特別なことないじゃん!」
と思うことでしょう。
東京ディズニーリゾートやユニバーサル・スタジオ・ジャパンがありますから、当たり前の風景になっていますね(^-^)
でも、少し数字で比べてみましょう。
〇東京ディズニーリゾート
敷地面積:51ha
入園者数:3,129万人(2013年度)
〇ユニバーサル・スタジオ・ジャパン
敷地面積:39ha
入園者数:1,050万人(2013年度)
〇大阪万博Expo'70
敷地面積:330ha
入園者数:6,421万人(6ヶ月間)
この数字を、皆さんはどう感じるでしょうか?
写真で見る以上に、巨大なイベント空間だったのがおわかりになると思います。
これを、6ヶ月間の会期が終わると取り壊したんですから、また別のインパクトもありました。
私の場合は、
その後、博覧会、テーマパークづくりの仕事に就くことになるので、まさに直接的に影響を受けた一人なのですが、
仕事として関わりのない人でも、計り知れない影響や恩恵を受けた人がたくさんいるはずです。
そして、大阪万博で初めて遭遇したもの、
最後の3つ目は、
●世界各国の一流ミュージシャンのライブパフォーマンス
でした。
万博のために世界各地から一流のミュージシャンが訪れ、数多くのコンサートが開催されていたからです。
大阪万博の会場には、万国博ホール(EXPO HALL)というコンサートホールがありました。
1階席、2階席あわせて収容人員が1,500人ですから、今では普通にどこの街にもあるホールです。
そうです、日本各地にある劇場・ホールの多くは、大阪万博の後から建設されたもので、この頃にはまだ少なかったんですね。

「万国博ホール」(1970)
万国博ホールは、お祭り広場に面した壁面、舞台の背後の部分がガラス張りで、中からは外の水上ステージの様子が、外からは中のステージの様子が見えるという珍しい構造をしていました。
サミー・デイヴィス・Jr.からビリー・ボーン・オーケストラ、ブラザーズ・フォーなど、すごいアーティストたちが、万博ホールのステージに連日出演していました。
このようなことは、日本ではそれまでなかったことだと思います。
私が好きになっていたボサノバでも、「セルジオ・メンデス&ブラジル’66」と、弟分的存在で「サンホセへの道」が大ヒットしていた「ボサ・リオ」も来ると聞いてわくわくしていました。

「AREGRIA」ボサリオ(1970)
私が万博会場に行った日は、「フィフス・ディメンション」のコンサートが予定されていました。
こう話すと、コンサートを観たような話になってしまいますが、親戚に連れられ観に来ていた中学生にそんなことはできません。

フィフス・ディメンション(The 5th Demention)
それまで、海外のポピュラー音楽は、ラジオやレコードで聴くことは盛んでしたが、映像や写真での情報は少なく、顔も知らずに聞いていたアーティストが普通だったと思います。
テレビに露出していたビートルズが、特別な存在だったというわけです。
そんな時代に、「フィフス・ディメンション」の本物が、同じ万博会場にいると考えただけで、興奮したものでした。
海のかなたにいる「紙っぺらのような海外アーティスト」が「生で聴くことのできるリアルなアーティスト」に変わった瞬間です。
この時の変化は、「二次元の月」が「三次元の月」に変わったのと同じくらいのインパクトがあったと記憶しています。
フィフス・ディメンション「Aquarius-Let The Sunshine In 」(1969)
それからです、音楽ライブの魅力を伝えたい、そう思うようになったのでした~♪
それでは、また次回(^_^)v