こんにちは。
AC です。
日本ポップスの「風」~1969
1969年というのは、「赤い鳥」が村井邦彦と出会い、メジャーデビューのきっかけとなった年ですが、
この年、村井邦彦はもう一つのグループにデビュー曲を提供しています。
それが、「トワ・エ・モア」のデビュー曲「或る日突然」です。
この年の大ヒット曲です。

「或る日突然」トワ・エ・モア(1969.5月)
作詞:山上路夫 作曲:村井邦彦
トワ・エ・モワ (Toi et Moi) は、山室英美子(現・白鳥英美子)と芥川澄夫の二人で、1969年に結成されたポップデュオです。
「或る日突然」のヒット以来、
「空よ」(1970.3月)
「誰もいない海」(1971.11月)
などのヒット曲を続けて出していますが、
1971年、村井邦彦とトワ・エ・モアは、日本中を覆い尽くすような「国民的大ヒット曲」を送り出します。
1972年の札幌オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」です。

「虹と雪のバラード」トワ・エ・モア(1971)
この曲は、東京オリンピックのテーマ曲「東京五輪音頭」や日本万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」と同様に、複数歌手による競作となり、トワ・エ・モワのほか、黛ジュン、菅原洋一、ピンキーとキラーズ、佐良直美、ジャッキー吉川とブルー・コメッツやスクールメイツなどが歌唱しました。
1971年2月から3月まで、NHK『みんなのうた』の「札幌五輪のうた」のコーナーで流されたこともあり、最終的にトワ・エ・モワ版が定着しました。
札幌オリンピック当時は多くの学校で唱歌として採用された。多くの人が歌詞を知っている曲でもあります。
また、札幌を代表する歌のひとつとして、さっぽろ雪まつりの会場内などでも頻繁に流されている曲です。
「虹と雪のバラード」(1971.8月)
作詞:河邨 文一郎 作曲:村井 邦彦
日本中を覆い尽くした「虹と雪のバラード」ですが、この時、もう一人、日本中を魅了した人がいます。
「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれた、フィギュアスケートのジャネット・リンです。
当時の高校生たちのハートをわしづかみにした素晴らしい演技については、また別の回で~♪
それでは、また次回(^_^)v
AC です。
日本ポップスの「風」~1969
1969年というのは、「赤い鳥」が村井邦彦と出会い、メジャーデビューのきっかけとなった年ですが、
この年、村井邦彦はもう一つのグループにデビュー曲を提供しています。
それが、「トワ・エ・モア」のデビュー曲「或る日突然」です。
この年の大ヒット曲です。

「或る日突然」トワ・エ・モア(1969.5月)
作詞:山上路夫 作曲:村井邦彦
トワ・エ・モワ (Toi et Moi) は、山室英美子(現・白鳥英美子)と芥川澄夫の二人で、1969年に結成されたポップデュオです。
「或る日突然」のヒット以来、
「空よ」(1970.3月)
「誰もいない海」(1971.11月)
などのヒット曲を続けて出していますが、
1971年、村井邦彦とトワ・エ・モアは、日本中を覆い尽くすような「国民的大ヒット曲」を送り出します。
1972年の札幌オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」です。

「虹と雪のバラード」トワ・エ・モア(1971)
この曲は、東京オリンピックのテーマ曲「東京五輪音頭」や日本万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」と同様に、複数歌手による競作となり、トワ・エ・モワのほか、黛ジュン、菅原洋一、ピンキーとキラーズ、佐良直美、ジャッキー吉川とブルー・コメッツやスクールメイツなどが歌唱しました。
1971年2月から3月まで、NHK『みんなのうた』の「札幌五輪のうた」のコーナーで流されたこともあり、最終的にトワ・エ・モワ版が定着しました。
札幌オリンピック当時は多くの学校で唱歌として採用された。多くの人が歌詞を知っている曲でもあります。
また、札幌を代表する歌のひとつとして、さっぽろ雪まつりの会場内などでも頻繁に流されている曲です。
「虹と雪のバラード」(1971.8月)
作詞:河邨 文一郎 作曲:村井 邦彦
日本中を覆い尽くした「虹と雪のバラード」ですが、この時、もう一人、日本中を魅了した人がいます。
「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれた、フィギュアスケートのジャネット・リンです。
当時の高校生たちのハートをわしづかみにした素晴らしい演技については、また別の回で~♪
それでは、また次回(^_^)v