金曜日の4日から「私が神の言葉を受け入れるとき」とはどういうことなのか?について考えてみている。
もちろん、考えてばかりいても何も生じはしないので、朝一番には、「私は今日、神様の言葉を受け入れます」と決断しつつ、また、「神様の言葉を受け入れるとはどういうことなのか教えてください」と、祈っています。
極端に言えば、完全に受け入れたならば、それこそ、私が与える平安や喜びをもたらす奇跡のすべてにおいて終わりはなくなるのだろう。
しかし、今現時点においては、奇跡を与えるほんの瞬間を平安や喜びという聖なるひとときを体験することを、神様の御言葉を受け入れるという反映にしなさい、という意味ではないかと思えます。
その瞬間をいつまでもいつまでも何らかの理由をつけて待ち続ける理由はないと述べられているのは
この聖なる瞬間と呼ばれているものは、等価交換という物質的な理由や何らかの行動という代償は必要はないのだと言えます。
心の問題なんだろうと思えます。
つまり、『奇跡講座』で述べられている「赦す」のか「赦さない」のかであって、赦すのであれば神様の御言葉を受け入れるのであり、赦したくないのならば神様の御言葉を拒否するということになるからである。
以下にテキスト31章Ⅳ.真の選択肢の10.-11.を引用致しますのでご参考ください
10.神はご自身の想念たちから離れたことはないのである!彼らが神を締め出しておくことができないのと同じように、神は彼らから離れ去ることはできない。神との一致の中に彼らはとどまり、父とこの一体性の中で、両者が共に完全に保たれる。神から離れていく道は存在しない。あなた自身から離れる旅は存在しない。そのようなことを目標とする道が存在し得ると考えるとは、何と愚かで、狂ったことだろう!そのような道がどこに通じるというのだろうか。そして、いったいどのようにすれば、あなたにその道を行く旅をさせ、あなた自身と一体の実相を伴わずにそこを歩ませられるというのだろう。
11.自分の狂気について自分を赦し、すべての無意味な旅や、ゴールのない目標を忘れてしまいなさい。そうしたものには何の意味もない。あなたは自分の本性から逃げ出すことはできない。なぜなら、神は慈悲深く、わが子にご自身を見捨てさせはしなかったからである。神が神であることに、感謝しなさい。その事実の中にこそ、狂気と死からあなたが逃れる道があるからである。神がいる場所でしか、あなたが見出されることはない。神へと至らない道は存在しない。
神様へと至らない道は何も存在しないのだから
さあ、今日、私が選択するのは神様であり、神様と一緒に選択される私のアイデンティティーとなるあなたの御言葉を、受け入れる時となれますよう、イエスに助けてもらいましょう。
本日の主題概念は「私が神の言葉を受け入れるとき、平安や喜びや、私が与える奇跡のすべてに、終わりはなくなる。今日をその時としてもよいのではないだろうか」について
以下のワークブックからの引用です。
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私が神の言葉を受け入れるとき、平安や喜びや、私が与える奇跡のすべてに、終わりはなくなる。今日をその時としてもよいのではないだろうか。
1.父よ、あなたが約束してくださった喜びを、私が待ち続けなければならない理由があるでしょうか。
流刑の身のわが子にあなたが与えてくださった約束の御言葉を、あなたは必ず守ってくださいます。
私の宝物が私を待っていることを、私は確信しています。ただ自分の手を伸ばしさえすれば、それは見つかります。
今も、私の指はそれに触れています。
それは間近にあります。
私は永遠の平安に至るために、もう一瞬も待つ必要はありません。
私が選択するにはあなたであり、あなたと一緒に選択される私のアイデンティティーです。
あなたの子は彼自身となり、あなたを自分の父であり、創造主であり、自らの愛する存在(もの)であると、知るでしょう。
(W-p2. 355. 1. P558)
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大いなる神様
父よ、あなたが約束してくださった平安や喜びを、私が待ち続けなければならない理由など何もありません
あなたが神様であることに感謝しつつ
私が選択するのはあなたであり、あなたと一緒に選択される私のアイデンティティーとなるあなたの御言葉を、受け入れる時となれますようお助けください
アーメン
この日記を読む方々に、誰もが「無垢」で、神のひとり子キリストであるという真実がもたらす「永遠のやすらぎ」が訪れますように。