幼少の頃は、親から言われたことが理不尽と思う様なこともあります。



私の幼少の思い出にこんな話があります。

幼稚園の頃に担任の先生から「人へ注意する前に、まず自分から動いて正しましょう」と

教えられたことがありました。

そこで、私は母親から叱られる度に、その幼稚園の先生から教えられた例の言葉を

そのまま都合良く使うのです。

それでも母親は、「屁理屈、言うなっ!」と私の頬を平手でバチンと一発張り、終止符を打ちます。

頬を張られた私は、泣きながら当てはまらなかったことに「おかしい」と思ったものでした。



私の話は笑えるものですが、子供ながらに大人の話(意見)を色々と理解しようと努めていますし、

解釈しようとしています。

他の話では、大人がお皿を割っても怒られないものが、子供が割ってしまうと怒られると云ったことに

理不尽さを感じて当時は首を傾げたものです。



けれども、そのこと自体が実は子供であるその時期に必要なことなのです。

それは、忍耐です。



理不尽さを感じながらも、親と云う存在(逆らうことは出来ない)をもって、

そうする時期を過ごしながらその都度に耐えることを学んでいるのです。

そういう耐える経験を積み、感じ入って、やがて大人になり、そのような理不尽さを思い出してみれば、

幼少の頃とその解釈は変わっていることだと思います。



子供の視点からの解釈、そして大人になった視点からの解釈。

「そういうものなんだ」とする事から、「そういうものだったんだ」とする事へ。



では、自らが大人になってどのように子供と接するのが良いかと言えば、

子供を子供としていつまでも見るのではなく、大人に接する様に語っていく、

話していくことが大切です。

子供であっても、ご自分が経験したのと同じように、それなりに解釈に努めようとしているものですから。



頭ごなしの教えよりは、子供も大人扱いされることの方がより早く自信を持つことへつながってもいきます。

子供に諭しても子供なりの解釈で、期待するような大人の解釈は望めないかもしれませんが、

頭ごなしではない諭そうとする思考が大人であるご自分の学びにもなっているのです。