インドはご存知のとおり発展途上国。
カースト制度の上流にいる人たちは、ありえないような贅沢な暮らしをしている一方で、今日の家もない人たち、ご飯を毎日だれかから恵んでもらう人たち、もはや生きてるのかも分からないような路上に転がって、おそらく死に近いであろう人たちが大勢いる。ほんとうに、大勢なのだ。
インドにはじめて来るとき、北インドの王道と言われるルートがある。
デリー、アグラ、ジャイプル、バラナシ、ブッダガヤ、コルカタである。(特に調べてはないのであくまで私の経験上でのお話)
ここを辿れば、人の生と死と宗教と文化と風土と食と自然と……とにかくインドを語るうえでの基本的なたくさんのことに出会えるからではないかなと思う。
「インドはすべてのアジアを経験してから行きなさい」と、高校生のとき、インドを愛してやまない物理の先生が言っていた。
その言葉は、16歳の私に「フィリピン(父が仕事でいた)に勝る途上国っていったい?」と疑問と好奇心が同時に襲ってきて、インドを魅惑的な存在へと印象づけた。
それからおよそ5年後に、私は北インドの王道を旅した。時間がなくてコルカタは行かなかったけれど、その代わりにガンガー(大河)の上流の町ハルドワールとリシュケシュへ行くことにした。
母なる大河ガンガーへ、死後遺体を流すということがインド人にとって最高の幸福であるということを知り、その光景をこの目で見てみたいと好奇心だけでバラナシへ向かった。
川辺で人が焼かれていた。
布につつまれた遺体だけど、その布からは死者の足先がでていた。
もはや、木の棒のようにしか見えなかった。
やがて火は、布を灰にしながら、その棒のような足先へと到達する。
空を仰ぐと、灰は雪のように空をハラハラと舞っていた。
家族は涙を流しながらその光景をずっと見続けている。
時間が経って、死者は母なる大河へと流された。
ゆっくりと川へ、その生きていた者は、沈んでいく。
川は悠々と流れていく。
そこに流されるものは、なにひとつ違いないもののように思えた。
犬の死体も死者も、ペットポドルやビニール袋でさえ、自然に還る。
そのものたちの「生なる時間」は自然へ昇華していく。
すべてが無に還っていくようで、きっとそうではない。
自然に抱かれて、生まれ変わるのだろうか。
それが、輪廻転生。
——人の死に出会いたければ聖なるガンガーの流れる町、バナラシへ。
2度目のインドで訪れたムンバイは、驚くほどの経済都市へと発展していると聞いていた。
かの有名な高級ホテル、タージマハルホテルもある。
客室からはアラビア海が見渡せるそうだ。
アラビア海にうかぶたくさんの小舟はまさに絵になる光景。
ところが、ムンバイには巨大なスラム街もある。
そこから近くのムンバイ港ではヘドロがたまり、悪臭がすさまじい。
さすがにずっと歩いていると頭痛がする。
まだまだ発展途上であり、インドならではといえる(それはほかのアジアにも起こりえるけれど、規模感でいえばダントツで)光りと陰を垣間みてしまう。
ムンバイは、バラナシで見た「死者が生きている時間の光景」とでもいえばいいのか、人間が死へ向かうまでの「生きる時間」で起こるたくさんの姿に出会える場所だった。
生きるって、未熟な自分に一生向き合うことだと思う。
まさにワレこそ発展途上。
発展の途中にはさまざまな問題も犠牲も愛の崩壊も裏切りも、想像に恐ろしいたくさんのことが起こりうるだろうと思う。
だけど生きるとは発展途上の自分に向かっていくことそのものだではないかと気づく。
やめることは、できないのだ。
最近、母がむかし通っていた大学の渡辺和子学長の本を読んだ。
そこにはこう書かれたいた。
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人間としてどう生きるか。
21世紀に入って、今まで以上に科学、技術が発達し、
人間にとって替わるものが発明されてゆく時代、
一人の人間のかけがえのなさ、人の心が求めてやまない愛、自由などについて、
わたしたしはもっともっと考えなければならない。
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いま、とってもまた、インドに行きたい。
(だけど体力がいるーーーので、まずは健康第一に!)
(写真はすべてムンバイです)