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52歳で実践アーリーリタイア

52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

アーリーリタイアしてそろそろ6年近く。リタイア後の資金計画は「インフレ率、利回り率」として、インフレ率と同等の利回りで我が家の家計を賄う計画でした。

 

ところが幸いなことに、この年間の投資環境が思った以上に良好(大幅な円安と世界的な株高)で、しかもコロナショックという一時的な下落場面もあったため、自分の想定以上に余剰資金が積み増すことに。

 

インフレ率もここ2年間で%とやっとインフレ基調になったとはいえ、その間年間の平均利回りは計算すると約%。年間で平均毎年%ってタイヘンなことで、これを複利で回すわけだから、想定を遥かに超える余剰資金が発生してしまうんです。

 

例えば、下表の通り10万円を%の利回りで6年回すと、何と15万円と、資産が1.5倍になってしまうのです。いかに資産運用において複利が大事か、がこの表でもよくわかるし、わたし自身本当に実感しています。

 

 

子供がいない私たちは、貯まったお金を残してもしょうがないので、資産運用の余剰資金は、早期退職前にやめた車道楽を再開することにしました。

 

男性にとってお金のかかる道楽は何と言っても「飲む・打つ・買う」ですが、これに加えて「車」も相当にお金がかかる道楽。わたし自身は「飲む・打つ・買う」にはあまり興味がない?ので、最後の男の道楽「車」に余剰資金を注ぎ込もうと思った次第。

 

正確には、家計費的には国内外の旅行で浪費し、わたし個人の資産としては「車」に浪費しようということ。

 

さて、復活させる車道楽ですが、わたしの勝手な思い込みで

 

MT(マニュアル・トランスミッション)以外は車ではない

 

と考えているので、これまでの車経歴はすべてMT車。車やめて以降は旅先でのレンタカー運転ですが、国内に限っては、ほぼAT(オートマチック・トランスミッション)車だから、車運転している感じがしないんですね。

 

(2014年小豆島:フォルクスワーゲン 5AT)

 

一方で海外(南アフリカ・ボツワナ、トルコ)ではMT車も多かったので、運転している実感があって本当に楽しかった(AT車はニュージーランド、カナダ、ハワイ)。

 

(2009年南アフリカ:南回帰線とトヨタカローラ 5MT)

 

 

(2011年カナダ:バンフにてマウントランドルとマツダ6 AT)

 

そして、わたしが車道楽において悔いが残っているのは「エンジンが後ろにある車」を所有したことがないこと。

【これまで所有した車】

前エンジン前輪駆動(FF)→ホンダCR-XSi

前エンジン後輪駆動(FR)→ユーノスロードスター、BMW130i

前エンジン全輪駆動(AWD)→アウディA4クワトロ1.8T

(2011年奥只見にて:最後の愛車BMW130i 6MT)

 

エンジンが後ろにある車とは、具体的には真ん中エンジン後輪駆動(MR)か、後ろエンジン後輪駆動(RR)。これらの車の中でMT車を選ぶということです。

 

(2023年トルコにて。フィアット・クロス 左ハンドルMT)

 

そして現段階では、すでに対象の車「ポルシェ718Boxter GTS4.0」を予約。さてどんな車を予約してそのプロセスはどのようなプロセスを辿ったのか、次回紹介します。

 

(2019年ニュージーランド:テカポ湖にて:マツダ3 AT)

 

 

 

三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし」で有名な近江商人は、日本の三大商人の一つ(他は大坂商人、伊勢商人)。

 

(東近江市五箇荘 2024年10月撮影。以下同様)

 

今の企業でば、伊藤忠商事・丸紅(豊郷町)、西武鉄道(東近江市)、髙島屋(高島市)、西川産業・たねや(近江八幡市)などが現代に生きる近江商人。

 

近江=滋賀県は、東海道や中山道・東山道、若狭街道など、列島の日本海側・東側と関西方面とが交差する交通の要衝だから、各地に物を売りに行って儲けるには最適な場所。したがって商業が発達するのは当然ともいえます。

 

(豊郷町 伊藤忠兵衛旧宅にて「始末してきばる」)

▪️楽市楽座の結果としての近江商人の誕生

その近江商人ですが、交通の要衝という地理的要因と同時に楽市楽座という制度が近江商人を誕生させる、そのきっかけになったのではないかと思われます。

 

楽市楽座は、自由な=フリーマーケット、自由な座=「」という、寺社権力が認可する組合に属していなくても「誰でも商売していい」という意味で、織田信長が始めたともいわれています。

 

(琵琶湖バレーから琵琶湖を望む)

 

ところが、最近の研究では室町時代に南近江の守護大名だった六角氏が始めたというのが今の所の説になっているらしい。より正確には始めた、というより「始めざるを得なかった」という方が正しいか。

 

というのも前回忍者編でも紹介した通り、近江は自治意識の強い地域で「忍者」で有名な甲賀地方の自治組織「同名中」が発展したのも、地元の守護大名「六角氏」が黙認したからですが、彼らの自治統治力が強すぎてむしろ黙認せざるを得なかったからかもしれません。

 

六角氏は、応仁の乱が落ち着いて以降、近江領内の寺社権力の領地(荘園)を彼らに返還せず、京都の寺社権力が幕府に訴えて、返還してもらうよう交渉するのですが、近江では六角氏の方が幕府よりも強いので、六角氏は幕府の言うことを聞きません。

 

このため近江では、商人に対して寺社権力が徴税する権利を持っていた「座」制度も荘園制度同様に立ち行かなくなって消滅。結果的に「楽市楽座」になってしまった、という印象。これを六角氏が黙認したのです。

 

さらに下って江戸時代では、近江国内の領地が藩領や天領・寺社領などに細かく分かれていたため、領内ごとの自給自足が難しく流通が盛んになったことも近江商人が発達した要因とも言われています。

 

(太郎坊宮から近江商人の里、東近江市を望む)

▪️なぜ「三方よし」なのか?

三方よしでは「買い手」と「売り手」が利益を分け合うのは当然です。それこそ商売の基本ですから。よく話題になるのは最後の「世間よし」です。

⑴なぜ「世間よし」なのか?

これは簡単で、近江商人は近江国外で長く続く商売をしていたから。というよりも国外で商売して成功するのが近江商人の真骨頂。

 

近江国外において、近江からやってきたヨソモノたる近江商人が商売するためには、まずは信用を得なければいけません。例えば江戸で儲けたら江戸でその利益を幾ばくかは還元して地域に貢献しないと信用を得られない。利益もほどほどにして買い手にも喜んでもらいつつ、持続的に地元に利益還元することで「ヨソモノ」ではなく「ミウチ」として扱ってくれるよう努力したのが近江商人。

 

道義や義理を優先し利益を後回しにするという「先義後利」といいう儒教の「荀子」由来の有名な言葉もがありますが、先義後利の精神で商売しないとヨソモノは、商売できないんです(近江と関係ないが百貨店の大丸も「先義後利」を社是としている)。

 

現代経営では、CSR(企業の社会的責任)の先駆けだとして「世間よし」が評価されていますが「世間よし」でないとよそ者は商売できないという必然からであって、とってつけたようなCSRではありませんでした。

 

(伊東忠兵衛の甥「古川鐵次郎」が私財の3分の2を遺贈し、近江兄弟社のヴォーリスが設計した旧豊郷小学校)

⑵儲けは社会にばら撒き、自身は質素な近江商人

これは、伊藤忠商事や丸紅のルーツである豊郷町の「伊藤忠兵衛記念館」に実際に行くと体感できます。

 

建物自体、大邸宅ではあるんですが中は本当に質素なんです。実利一辺倒といったらよいのか?商売に必要な最小限のものしかない。大邸宅にありがちな立派な床柱もないし、お庭も至って簡素。

 

後述のたねやオーナー山本昌仁氏によると、近江八幡などの近江商人の街では歴史的に高級料亭などの旦那衆の遊ぶ場所が、ほとんどないなど、その質素ぶりを伝えています。

 

(質素な伊藤忠兵衛の室内)

 

日本全国あらゆる金持ちの邸宅(東京、京都、大阪、奈良、和歌山、三重、兵庫、栃木、山形など)を見てきましたが、伊藤忠兵衛邸宅は本当にお金かかってないんですね。

 

(伊藤忠商事が受け継ぐ近江商人の精神)

 

近江商人の中でもそれぞれそのレベル感は違っていて、東近江市の五箇荘にある藤井彦次郎邸なんかは、スイスの別荘を真似た洋館などもあってそこそこ贅沢なつくりなんですが、伊藤忠兵衛宅の質素さは際立っていて本当に何もないんです。

 

(藤井彦次郎邸のスイス山荘風別邸)

 

さらに伊藤忠兵衛に関心させられるのは「企業は社会の公器」だとして世襲しない(1960年〜)。そして現代の伊藤忠商事も丸紅も、ここ滋賀県豊郷町の伊藤忠兵衛宅に新入社員を研修で連れてきて伊藤忠兵衛の精神を学ばせているらしい。

 

 

恐るべし「近江商人」。

 

▪️それぞれに興味深い近江商人

近江商人と言ってもそれぞれ地域(日野・五箇荘・八幡・高島など)で特徴があります。近江商人共通の特徴は、「三方よし」のほか、近江国外(北海道から九州まで日本全国)で商売し、商売先と近江の間を行き来しながらそのその道中は行きも帰りも商材を背負って売上を増大させようと目論んだこと(これを「のこぎり商い」という)。

 

以下興味深い事例を紹介。

⑴「近江日野」は伊勢商人のルーツ

昨年紹介した以下ブログでも若干触れましたが、伊勢商人のルーツは日野の近江商人ではないか、と言われています。

 

 

三重県松阪市は近江日野出身の戦国大名、蒲生氏郷が開発した町で、

 

(日野町の蒲生氏郷像)

 

近江日野から近江商人を強制的に移住させ、松坂に楽市楽座を導入して商業を盛んにしたわけですから、まさに近江商人は伊勢商人のルーツ。

 

(近江日野商人館。2024年10月撮影)

 

その近江商人の街でもある近江日野は、日野に残った人々で漆器や薬売りなどして商売を継続。

 

(日野町:観光案内所。同上)

 

(今でも薬を生産している日野町。同上)

 

この前、栃木県宇都宮市で驚いたのは市内中心部に「日野町商店街」という名の商店街があったこと。日野町商店街振興組合によれば、日野町商店街は宇都宮で最も古い商店街。実は秀吉の命で宇都宮を一時的に統治していた蒲生秀行(氏郷の息子)が、親父同様、近江日野の商人を宇都宮に連れてきて、ここに商人の街を作ったからだとか。

 

(宇都宮市 日野町商店街。同上)

⑵「近江八幡」蚊帳で儲けた西川産業・日本有数の菓子屋たねや

近江八幡は室町時代、六角氏統治下で盛んになった「観音寺山」の麓の楽市楽座が、

 

(六角氏の拠点:観音寺山。同上)

 

織田信長の安土城築城に伴って、観音寺山のとなりの山「安土山」に引っ越し。

 

(織田信長創建の安土町:浄厳院。同上)

 

さらに秀吉の時代になると秀吉の甥っ子の八幡城築城に伴ってさらにその隣の「八幡山」に引っ越し、

 

(八幡山の八幡城跡。同上)

 

ということで最も由緒ある近江商人の街。

 

(近江八幡の八幡堀。同上)

①戦国時代から続くふとんや「西川産業」

西川家は、上の伊藤家と違って今でもその子孫の15代目「西川八一行(養子の方ですが)」氏が西川産業を経営しています。

 

その15代西川氏によると西川家の初代仁左衛門は、豊臣秀次が八幡山城築城するにあたり、その工事監督を請け負った人物だそう。ただ、歴史好きならご存知のように秀頼誕生で秀次は自害に追い込まれ八幡山城は廃城。


(近江八幡市 旧西川家宅。同上)

 

この結果西川家は、外に出て商売せざるを得ず、布織物を持って能登に商売に出たそうです。その後、江戸時代は2代目甚五が江戸日本橋にて蚊帳で儲け、11代目甚五郎が明治時代にふとんで今の商売の基礎を作ったという(今でも日本橋には西川産業が顕在)。

 

ちなみに西川家は、江戸時代7代目利助の時に日本で初めてボーナスを支給した家とのこと(年に2回利益の三分の一を従業員に支給)。

 

②現代の近江商人「たねや」

近江商人つながりで、日本全国の百貨店に出店し、滋賀県一の集客を誇るという施設「ラ・コリーナ」を展開する近江八幡の菓子屋「たねや」の現オーナー山本昌仁氏が著した以下書籍を読んでみました。

 

 

たねやも相当に特殊な企業で、これは滋賀県一の集客を誇る近江八幡「ラ・コリーナ」に行くと実感できます。ラ・コリーナは、八幡山の麓にあってもともと厚生年金休暇センターだった場所をたねやが23億円で買取り、八幡山含めてこの一帯を里山として整備すべく地道に活動してきたらしい。

 

 

そして「ラ・コリーナ」という施設は、近江商人の精神を受け継ぐ施設としてたねやが開発。

 

 

まさに「世間よし」の精神で、たねやの地元「近江八幡」の原風景を取り戻すべく、ラ・コリーナには昔から近江八幡に自生していた雑草や樹木を植えているのだとか。

 

(お決まりの出来立てバウムクーヘン。確かに美味すぎる)

 

⑶「高島」の近江商人、髙島屋の「おかげにてやすうり」

日本全国に百貨店やショッピングセンターを展開する髙島屋の創業者飯田新七は、福井県敦賀の出身。ですが滋賀県高島出身の京都の米屋「髙島屋」を営む飯田儀兵衛の娘と結婚してその養子に。

 

独身時代に営んでいた古着屋をそのまま養子先でもはじめたのが今の髙島屋のルーツ。

 

 

新七が当時の江戸時代後期、全国的に流行っていた「お伊勢参り」にちなみ「おかげにてやすうり」という店是を掲げ、できるだけ利を薄くして「買い手よし」を徹底したのが髙島屋が当時繁盛した理由だと言われています(出版文化新書『髙島屋』より)。

 

(髙島屋の祖業、呉服は今でも百貨店の一売場として現代に継承されている)

 

ちなみに、トヨタ自動車の豊田章男会長は、何らかの記事で自分は祖母の豊田二十子さんに様々な教訓を教わった的なことを言ってました。実はこの二十子さんは旧姓は飯田二十子さんで、髙島屋飯田家の出身。章男会長の哲学にも、もしかしたら近江商人である髙島屋飯田家の教えが影響しているかもしれません。

 

(高島市から琵琶湖を望む。同上)

 

首都直下型地震が起きた時にどうするか?

 

真剣に悩んだ末、栃木県に疎開することを想定しています。「地震が起きたらお前は逃げ出すのか?」と怒られそうですが実は「被災者はできるだけ少ない方がいい」に決まってます。人が多ければ多いほど助ける側がタイヘンになるから。

 

そうすると「みんなで助け合うべきでは」という異論もありそうですが、人が多ければ多いほど、その分多くの水や食糧などの避難物資が必要になってしまう。その場合を考えてもできるだけ被災者は少ない方がいいのです。

 

なので、自力で逃げられる人はできるだけ自力で被災地から逃げるべきなのです。それがこれまで直近で起きた大震災での教訓。

 

さて問題は首都直下型地震が起きた後にどうやって千葉県から栃木県に到達するか?

 

普通に考えれば「車移動」となるのですが、大地震が起きると、ビルが傾いたり、電信柱が倒れたり、車が停車状態になって通行できないなど一般道路は、なかなか通行できなくなってしまう可能性が高い。また通行できたとしても緊急車両優先でしょうから、私たちのような一般車が通行することは、なおさら困難な可能性が高い。

 

そこでバイクの購入を考えたのですが、考えてみれば趣味の自転車を活かす方がより現実的ではないか、という結論に。またバイクであっても緊急車両が行き交う一般道路を利用するのは困難かもしれないから。

 

自転車であれば、地震時の通行に支障がないと思われる江戸川沿い→利根川沿いを遡って、茨城県経由で栃木県に到達することが可能。

 

(江戸川河川敷)

 

そこでさらに問題は、普段自転車に乗っていない連れをどうやって連れていくか?

 

そこで思いついたのがEバイク

 

 

私が選んだスペシャアライズドのEバイクVADOなら

自社開発のSL 1.1専用軽量モーターは、最大出力240W/35Nm、漕いだ力の約2倍までのパワーで、最高時速24kmまでアシスト

とのことで、通常の脚力の半分で済むという謳い文句。

 

 

そして自転車初心者の連れの場合は、ママチャリと同じ「前からまたがる」乗り方の方が乗りやすいので、フレームのトップチューブが下がっているミキスト型のEバイクを選択。

 

スペシャライズドHPより)

5月に依頼して、やっと11月に納車。連れの自転車とはいえ、サイズ的には私も乗れるサイズなので、サドルの位置を変えて100km程度走ってみたところ、やはり相当にラクです。

 

特にEバイクの本領が発揮されるのは「漕ぎ出し時」と「上り坂」で、まったく違う。あとはクロスバイク系なので、ドロップハンドルの自転車よりも視界が広く、気持ちが良い。さらに初めてのディスクブレーキなので、これも簡単に自転車が止まるというメリットも。

 

 

ただ、平地を長距離(50km以上)走る場面では、普段スポーツバイクに乗っている自分的にはスポーツバイクの方が快適。スピードも乗るし操作性もスポーツバイクの方がいい。そして問題は日本仕様のEバイクは、(都会で今流行っている違法Eバイクと違い)時速24kmまでしか電動アシストがないので25km以上で走る高速巡行の場合には、ほぼ意味がありません。

 

ただ、連れに実際に乗ってみたところ、平坦な道でもその快適さにびっくり。「誰かに後ろを押してもらっているみたい」と表現していました。

 

あと、初心者向けの課題は「お尻」問題ですね。

 

初心者の場合は、長距離走るとほぼ確実にお尻が痛くなる。足がへたる前に間違いなくお尻が痛くなるんです。でもこのあたりは慣れてもらうしかありません。

 

 

ということで、今後は「連れ」を連れ出して江戸川沿いでひたすら練習して距離を伸ばしていこうと思います。

 

(ダウンチューブにスイッチとバッテリーメーターとアシスト力の「強・中・弱」が選べるようになっている。→二つ点灯は「中」アシスト)

 

自治の強い滋賀県の風土として、前回は天台宗の二つの寺(比叡山延暦寺vs三井寺=園城寺)の抗争を紹介しましたが、今回はその一つとしての甲賀忍者、というか甲賀武士(侍衆?)を紹介。

 

(滋賀県甲賀市くすり学習館の展示より:2024年10月撮影)

 

参考図書はいつもの『滋賀県の歴史』のほか、

 

 

以下の三つ。

 

 

 

 

 

 

▪️忍者とは?

「忍者」という言葉が、一般的に使われるようになったのは昭和30年代。当時司馬遼太郎や山田風太郎などの時代小説が流行り、そのブームの一環として「忍者」という言葉が浸透。

 

30ー40代の人であれば「忍者ハットリくん」、私のような50−60代であればなんといっても「仮面の忍者 赤影」でしょう。「ガッテンガッテン承知!」という決まり文句の青影が懐かしい人も多いと思います。ちなみに今調べると「赤影」の敵は甲賀忍者だったんですね。これもびっくり。

 

さらに「忍者」という言葉は、それまでは「忍びの者」だとか単に「忍び」と呼ばれていたそうですから、忍者とは戦後の日本エンターテインメントが生んだ「世界的キャラクター」だともいえます。

 

また、黒装束を着てさまざまな超人的身体能力を保持しつつ、特殊なツールを使って魔法的な技をみせるという、世界中に広まった「忍術」は、江戸時代後期の歌舞伎や浮世絵の世界の中で作られたそう。

 

(三重県伊賀市にある伊賀流忍者博物館では各種忍術に使用するツールが展示されている:2023年4月撮影)

 

昨年(2023年)訪問した「伊賀流忍者博物館」によれば、歴史上の忍者とは敵方の情報をいかに正確にはやく主君に伝えるか、が仕事だったので、その一環として今でいう「忍術」を身に付けたのだとか。

 

「情報を伝えるためにはいかに生き残って主君のもとに帰られるか」がキモなわけだから生きて逃げおおせるためのさまざまな術=忍術を身につけたということでしょう。

 

(同上。同博物館では忍者に扮した方が実演で忍者屋敷の内緒の逃げ道を説明)

 

その忍術が、忍者固有の超人的能力や魔法・手裏剣などのツールとして誇大に江戸時代の演劇や浮世絵で表現されたというのが、どうやら今の忍者のルーツのようです。

武将のために働く忍者にとって最も重要なことは、敵方の状況を主君に伝えるために、極力戦闘を避けて生き延びて帰ってくることだった。そのため忍者は自ら攻撃を仕掛けることはなく、自分を守るための忍術しか使わなかたっといわれる。

『大人の学び旅 忍者の里を旅する』12頁

 

(滋賀県甲賀市内を走っているとこんな看板も。2024年10月撮影)

▪️伊賀甲賀忍者は「琵琶湖の賜物」

そんな忍者ですが、実は忍者の誕生には琵琶湖が大きく関わっているとか。

 

甲賀は、隣の伊賀同様、地理的には独特の地形。これはかつて琵琶湖がこの辺りにあったからで、この時の琵琶湖を古琵琶湖という。

 

江戸城や大坂城含め、基本的にお城は防御上の観点から台地や丘陵の先端に造られます。

 

(

(甲賀の里を走り抜ける「信楽高原鐵道」。同上)

 

杣谷と呼ばれる伊賀から甲賀にかけての地域は、約200万-450万年前にこの地にあった古琵琶湖の湖底にたまった粘土質層で覆われています。

 

この粘土層がその後、徐々に隆起&侵食によって台地や丘陵と谷が交互に細かく連続する独特の地形=「無従谷(むじゅうこく)」を形成。

 

(甲賀の地形。日本遺産HPより)

 

この無数に展開する台地や丘陵の先端に小さなお城が無数に造られたため、伊賀・甲賀には中小の無数の武家=侍衆が誕生したというわけです。

 

その主たる特に甲賀武士は、大きく分けると貴族をルーツとする者(美濃部氏=菅原道真の一族、多羅尾氏=近衛家)、若干の都の血が入っていそうな者(佐治氏=平家、伴氏・大原氏=大伴氏、和田氏=源氏)、農民から成り上がった者(山中氏、望月氏)などに分けられますが、どの家も南北朝騒乱期に武士化したという。

 

また甲賀地方では、室町時代のときの南近江の権力者「六角氏」が、当時甲賀武士の自治を黙認したというのも大きいようです。

(室町時代)村々では「同名中惣(同名中とも)」称する組織を構成する指導的農民層でもある小領主・地侍層にムラの運営を任せる自治組織が発達し、戦国末期には郡レベルでの自治を行う「甲賀郡中惣」をも成立させるのであるが、六角氏はこれを黙認するのである。地頭を厳しく取り立てに追い立てるような言動を甲賀ではおこなっていない。

甲賀武士の末裔→渡辺俊経著『甲賀忍者の実像』36頁

 

このように、小領主や地侍(=侍衆という)をリーダーに丘陵や谷で細かく分断された集落が、個別に強力な自治権・自衛権を形成。これら中小の集団はのちに「同名中」と呼ばれ、のちに伊賀甲賀忍者と呼ばれた「忍び」のルーツとなるのです。

 

(大原氏の同名中が集まったという大島神社(旧大原祇園社)境内。2024年10月撮影)

▪️忍術は「修験道」がルーツ

そんな彼らですが、彼らが用いた忍術の発祥はというと、どうやら修験道からのようです。今でも甲賀地方では製薬業(近江製薬・塩野義製薬工場・キョーリン製薬工場等)が盛んですが、この辺りも修験道の伝統が絡んでいるのではないでしょうか?

 

(甲賀市くすり博物館)

 

修験道は、熊野や吉野・大峰山などの修験の中心地はあまりにも京都から遠いため、京都近隣の修験の地としての甲賀地方の飯道山での修験が盛んに。

 

一方で比叡山を拠点とする天台宗が、密教化と神仏習合によって修験とも深く結びつくようになり、天台宗が盛んな甲賀地方でも天台宗の寺は、すっかり修験を取り込んだ神仏習合化して地元の油日神社矢川神社の神主も天台宗の住職が兼務するようになったらしい。

 

(甲賀の総社として崇められていた油日神社。2024年10月撮影)

 

(甲賀の雨宮と呼ばれた雨乞い祈願の神社=矢川神社。同上)

 

飯道山の修験者=山伏もそのほとんどが天台宗の僧侶と一体化し、さらに山伏が全国行脚する中で身につけた自己防衛としての武術とも融合しつつ、修験者の「火薬の調合」含めたさまざまな「技」が製薬や忍術のルーツになったのではないか、と言われているのです。

 

(油日神社の御神体=油日岳と甲賀の里山。同上)

▪️甲賀出身の戦国大名

下剋上の戦国大名には、甲賀武士出身の大名も複数存在していたというのも面白い。

⑴滝川一益

織田信長の四天王の一人といわれた滝川一益。甲賀出身の武士で、甲賀地方が室町時代以降優秀な武士の輩出地として日本全国に被官したうちの一人。

 

堺で鉄砲の技を身につけ、長島一向一揆や一向宗との石山合戦で実績を上げ、甲斐武田家を滅ぼしたその張本人ですが、織田信長の死後、ライバルの秀吉との後継者競争に敗れて出家しつつ、秀吉の部下としてほぞぼそと生きながらえます。

⑵池田恒興・輝政

関ヶ原の戦いの後に姫路城の城主になった池田輝政やその父で織田信長配下の有力武将池田恒興は甲賀武士の子孫。恒興の父「池田恒利」が甲賀武士で池田家は上の滝川家とも姻戚で甲賀出身の戦国武将の一人と言われています。

 

(信楽焼で有名な「信楽」も甲賀市内。同上)

▪️江戸時代に厚遇された甲賀武士

江戸時代には「神君伊賀越え(1582年)」においては伊賀よりも甲賀武士の助力の方が大きかったことから多くの甲賀武士がその対価としての旗本衆に。

 

というのも、第二次天正伊賀の乱(※1581年)の敗北によって伊賀は廃墟と化し、人材も壊滅状態だったから。

※第二次天正伊賀の乱

第一次天正伊賀の乱での惨敗に激怒した信長が、天正九年(1581年)、安土に諸侯を召集。当時の伊賀国のの人口の半分にあたる五万弱の兵を率いて伊賀を侵攻。この時伊賀軍はわずか数千。一カ月間は持ちこたえたものの、人口の半分が死に全域が焦士と化し一切の建造物は壊滅(伊乱記)。

「伊賀流忍者博物館」の展示より

人材豊富な甲賀武士は、伊賀越えに大いに貢献したという経緯から、家康の計らいで旗本に取り立てられたと言うわけです。

小川城に家康一行を匿い無事送り届けた光俊と山岡や和田といった甲賀武士たちは、途中秀吉政権下の20年近くの空白を置いて、関ヶ原の戦いの年、光俊が信楽一体の領地安堵と、長男光太への関西地区徳川領の代官職を受ける。その他の甲賀武士たちも20人近くが前後して旗本として採用される。この数は伊賀一国から採用された旗本の数が10人に見たぬのに比して、近江国12郡の一部でしかない甲賀郡だけで2倍以上の旗本を排出したのである。つまり家康は甲賀武士たちに世話になったことをしっかり覚えていた。

渡辺俊経著『甲賀忍者の実像』59頁

とのことで、家康が恩を受けたことはもちろん、甲賀武士自体の優秀さが彼らの多くをして旗本にしたともいえ、室町時代以来の独自の自治自衛の精神が子々孫々まで行き渡っていたと言うことかもしれません。

 

(甲賀流忍者屋敷は残念ながら定休日で中に入れず。同上)

 

以上、次回は「滋賀の自治の風土その3」として「近江商人」を取り上げたいと思います。

今回のリハックの河井克行氏へのインタビューは出色でした。めちゃくちゃ面白かったです。

 

 

さて、この動画をみるにつけ、ガバナンスの重要性を改めて実感。この動画では司法のガバナンス欠如を実感してしまいましたが、ガバナンスって一体どういうことなのか?

 

ガバナンスって私の理解では、一言で言うと「組織を公正に運営するためのしくみ」のことで、例えばこの動画の司法のガバナンス欠如って、つまり日本の検察が実質彼ら彼女らのやりたい放題で、上の動画でいえば、起訴するかどうかが完全に検察の恣意的な行動になっているように感じてしまう。

 

実際は担当の検察の意見も聞かないとなんともいえないですが・・・。

 

とはいえ、検察という組織が公正に運営されているかどうか、検察と利害関係にない第三者機関が検察をチェックする機能がないというのはよくない。

 

例えば、財政的には「会計検査院」みたいな部署があって、「予算が適正に利用されていない」みたいな感じで定期的にチェックする組織があって、このしくみが公的機関において予算を適正に使おうというモチベーションになるし、そうしようと努力する要因の一つになるわけですが、司法には会計検査院のような監視機関がないのですね。これが問題だということです。

 

勤務時代にガバナンスに関する仕事を経験した自分としては、ちゃんと機能したかどうか、という問題はあるものの「企業のガバナンス」って本当に重要だと実感したし、中国王朝の諫議大夫(皇帝を諌める役目の大臣)の存在なんかもひとつのガバナンスのしくみ。

 

「企業のガバナンス」ということでは、経営が遵法精神含め、公正に運営されているかどうか取締役会に社外取締役みたいな人を入れて、ワンマン社長がやりたい放題になっておかしな経営がされないよう、第三者的な社外取締役が定期的にチェックする仕組み。

 

でもこれってなかなか難しくて社外取締役も「お飾り」になりやすい。かと言って社外取締役が強すぎてもいけない。チェックされまくって経営のスピードが落ちても意味がありませんから。この辺りのさじ加減が難しいのがガバナンスのしくみ。

 

株主的には、投下した資本が効率的に使用されているかどうか、現金預金を無駄に溜め込んでいないか、有望な市場に適正な価格で投資を継続的に行っているか、などのほか、ROE8%以上などの数字的目標を掲げてもらう等のしくみを整えることも経営のガバナンス的には重要。

 

このようなガバナンスのしくみを整えることで、今会社が儲かっているからといって経営者が怠けないよう、継続的に誠実に資本効率を向上させる行動をとらせるようにさせると、企業価値が向上して株価が上がりやすい。つまり投資家の利益になる、ということ。

 

政治的には、民主主義に基づく公正な選挙だって、政治のガバナンスなんですね。

 

私たち有権者が定期的に選挙という形で政治家を評価しつつ投票行動すること自身がガバナンスになっているともいえます。これも企業と同じで選挙が多すぎると政治家が選挙ばかりに目が入ってしまって政治が停滞してしまう、という問題もあります。

 

 

このようにガバナンスは、組織の活動そのものを停滞させるデメリットもあるものの、長期にわたって組織が腐敗・衰退しないようにする、なくてはならない仕組みであるということで、河井克行氏へのインタビューを聞いていて、改めて実感した次第です。

 

最近の俗説「高齢者は得で、現役世代は損」というのは、本当なのでしょうか?

 

私はこの俗説は怪しいと思っていて、なぜなのかというと、この説は時代背景を無視しているし、会計的にはフローの面だけに焦点を当てていて、ストックの視点を無視しているからです。

▪️今の高齢者は現役世代よりも圧倒的に過酷な人生

今の高齢者を、たとえば65歳(1959年生まれ)〜85歳(1939年生まれ)としましょう。

 

彼ら彼女らの立場に立つと、戦前から戦後の苦しい時代に誕生し、子供時代は衣食住にも恵まれず、恐ろしい戦争も体験して、相当にひもじい生活を強いられながら子供時代を過ごしていました。

 

さらに高校や大学に行きたい子であっても行けない子も多かったでしょう。

 

大人になって就職する場合には、男子の場合は田舎であれば農閑期の出稼ぎが当たり前だし、就職するにしても上京して「首都圏で就職して盆暮に田舎に帰る」という時代。今ほど都市に人口も集中していなかったでしょうから、田舎出身の人の方がメジャーな存在だったと思います。

 

さらに仕事面では、毎日の残業は当たり前、パワハラ・セクハラ当たり前。パワハラだって並大抵のパワハラじゃありません。極端な場合は暴力を伴うパワハラだって許容されていたのです。

 

休みだってそもそも土曜は休みじゃないですから週休1日が当然の時代。長い休みは盆暮の数日のみだったでしょう。しかも日曜も内々で仕事をしていた人間も多い。私(=バブル世代)の親世代は80歳代ですが親世代をみる限り、休みの日も家で仕事するのは当たり前な時代。

 

さらに今の高齢者の親たち(明治・大正生まれ)は年金制度が整備されていない時代なので、年老いた親は彼ら自身の収入で賄うことも多かったでしょう。したがって今の高齢者の大半は、親の面倒を収入生活面の双方で面倒見つつ、子供達を育てていたわけです(ただし高齢者世代の子供は多いので分担はできた)。

 

上述のように上京して仕事に就く人が多かった今の高齢者たちは、実家から通うこともできず、住宅も自分で用意する人も多かったでしょうから、大半が住宅ローンも抱えていたわけです。

 

果たして、こんな過酷な人生を送った高齢者たちに対して、現役世代が「もらい得」だといって非難する理由が本当にあるのでしょうか?

▪️すべてが整った時代に生まれた幸福な現役世代

今の日本を衣食住満ち足りた、しかも法の支配が整った公正な時代にしたのは今の高齢者世代と言ってもおかしくありません。

⑴今のインフラは高齢者世代が築いたもの

しかも「高齢者はもらい得」だと言っている現役世代や、国民民主党・維新の会が見落としているのは彼らが築いた膨大な有形固定資産です。

 

全国に展開しつつある新幹線をはじめとした鉄道網や道路網は、今の高齢者世代が築いたものです。

 

私たちはその恩恵を受けて、旅行や出張など日本全国各地に簡単にアクセスできるのです。その他、電気・水道・ガスなどのライフラインや空港や港湾などの公共資産は、ほぼ今の高齢者の働きによってもたらされたもの。

 

なぜなら太平洋戦争でインフラが完全に米軍によって破壊され、戦後実質インフラゼロの状態から今の各種インフラが整ったわけですから。

⑵高齢者世代が築いた過剰な金融資産

日本銀行が公表している資金循環統計(2024年第2四半期速報)によれば、一般政府は差し引き(資産-負債)▲500兆円の借金、法人は同▲700兆円の借金を抱えているものの、家計は同1,800兆円の差引資産を保有するなど、相当にお金持ち国家で、2023年末の対外純資産は471兆円と世界一の債権国。

 

よく話題になる、日本政府の膨大な借金は、民間含めたトータルで見れば、収支はプラスになっており、民間が溜め込んだ資産によってほとんどが賄われているという状況。したがって公的機関だけでみれば次世代への借金付け回しではあるものの、その一方でその借金を遥かに上回る資産を民間が保有するという状況。

 

特に民間の金融資産2,200兆円の大半は、65歳以上の高齢者が保有しているわけですから、50歳代の私含めた現役世代は、高齢者世代から何の苦労もなく金融資産を相続することになるのです。

 

⑶なんでも揃う幸福な私たち現役世代

先述した高齢者世代が築いたストックを、私たち現役世代がタダで享受していることに私たちは一体どれだけ気がついているでしょうか?

 

新幹線は生まれた時からあるし(私は子供時代)、普通に車も買うことができるし、親の経済的な負担は年金がある程度面倒を見てくれているので大半の私たちは親に仕送りする必要がありません。少子化で親の実家などの資産を引き継ぐことができる人も多いので、住宅ローンを組まなきゃいけない人も相当に減っているはずです。

 

更に今の高齢者は元気で資産家の方も多いですから、子供たちの面倒も必要に応じてみてくれるし、人によってはきっと金銭的援助もしてくれているでしょう。

 

しかも貧乏な時代に育った高齢者世代は「贅沢は悪だ」的価値観を持つ人が多いので、なかなか貯まった貯金を使い倒す人も少ないでしょう。

 

したがって残された高齢者の資産はいずれ現役世代に還元されていくに違いありません(相続税や遺族への譲渡)。

 

このように、年金でその一部を今の高齢者世代にお返しする程度では、まったく私たちはまだまだ「もらいすぎ」なのです。

 

 

以上、世の中の常識は本当に常識なのか、疑ってみました。

 

特に「年金が破綻する」という私たちの不安を煽る俗説について、ご参考にそれが真っ赤な嘘だという説明を簡単にしてくれている雇用ジャーナリスト海老原嗣生氏のインタビューを以下に貼り付けておきます。

 

 

 

 

 

 

 

参考文献としては『甲賀忍者の実像』や

 

 

『滋賀県の歴史』を参照。

 

すると滋賀県の風土は、ときの権力からは独立した、さまざまな自治勢力が展開している地域であることに気づきます。

 

一番有名なのはなんと言っても天台宗の勢力で、日吉大社と神仏習合した比叡山延暦寺山門


(比叡山延暦寺 阿弥陀堂。2024年11月撮影。以下同様)

 

そしてその対抗勢力としての三井寺(園城寺)=寺門。特に山門は全国有数の寺領を持つ宗教団体で自治勢力という枠組みをも越えた強大な存在だったらしい。

 

(三井寺 観音堂)

 

さらに滋賀の南方には侍衆(さむらいしゅう)と呼ばれた甲賀忍者や一向宗(浄土真宗)の近江門徒、そして。さらに歴史が下ると近江商人、というように滋賀県は自治意識の強い土地柄。

 

(2024年10月撮影)

 

今回はこのうち、天台宗を取り上げます。

 

天台宗は、最澄伝教大師(西暦766年または767年-822年)を宗祖としますが、その後弟子たちの権力闘争によって大きく二つの勢力に分かれます。

 

(最澄=伝教大師廟)

 

具体的には、

 

①最澄の直弟子だった円仁慈覚大師(794-864)の勢力=山門→比叡山延暦寺と、

 

(延暦寺 西塔 釈迦堂)

 

 

②最澄が後継者と指名した初代天台座主義真(781−833)の弟子、円珍智証大師(814-891)の勢力=寺門→三井寺(園城寺)(詳細は以下参照)。

 

 

(三井寺 金堂)

 

今の大河ドラマ「光る君に」でも、奈良興福寺の定澄(935-1015)が僧兵を引き連れて藤原道長(966-1026)に脅しをかけたように、

 

(石山寺 びわ湖大津 大河ドラマ館)

 

山門も比叡山の麓にある日吉大社と一体となって日吉大社の神輿を使って何度も京の権力を脅すなど(興福寺は春日大社の「春日の神木」)、中世ヨーロッパのローマ教皇庁(「破門」というツール)のように、神仏を活用してときの権力に抵抗する独立した組織でした(これを強訴という)。

 

(日吉大社)

 

(同上)

▪️天台宗とその宗祖「最澄」

最澄は比叡山の麓、坂本の生まれで今でいう在日韓国人(渡来系)と言われています。最澄は都が京都に遷都する前から比叡山に籠り、天台宗を開きましたが、もともと天台宗は天台の僧だった鑑真(688-763)が中国からもたらしたお経がベースになっているので、実はそのルーツは鑑真だったと言われています。

最澄が天台仏教に惹かれたのは、天台三大部と言われる『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』を読んで、その(中国天台宗の開祖)智顗の思弁の深さに驚嘆したためである。この天台三大部は鑑真が中国・唐からもたらしたものであった。日本では鑑真は戒律の僧としてのみ高く評価されるが、彼が天台の僧であったことはあまり注目されていない。

梅原猛著『京都発見9』15頁

京都が都になったのは、和気清麻呂が(733-799)この地を桓武天皇(737-806)に勧めたからですが、たまたま比叡山は京都の北東にあって、北東は京都からみると鬼門と呼ばれる位置。この結果、比叡山が幸運にも聖地として重要視されることになったわけです(というか、そのように最澄が画策したのでしょう)。

 

(和気清麻呂を祀る京都護王神社。203年10月撮影)

 

最澄は、他の名増の事例にもれず「営業が得意な人たらし」だったので巧みに桓武天皇に取り入って気に入られ比叡山は大いに繁栄。南都六宗(※)を煙たがっていた桓武天皇にとっても最澄がもたらした新興宗教(=天台宗)は、都合が良かったのですね。

※南都六宗

南都六宗とは「奈良仏教」ともいわれ、奈良時代に成立した6つの宗派(法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗、三論宗、成実宗)を指す。国家仏教として公認され、京都の南に位置するかつての奈良の都、つまり「南都で起こった宗派」という意味で名付けられる。南都六宗は教学(経典の研究など)中心の仏教で鎮護国家を目的とし、その後に栄えた天台宗・真言宗・浄土宗・時宗・日蓮宗のように一般庶民に教えを広げるような仏教ではなかった。

 

ちなみに南都六宗のひとつ、法相宗の興福寺は藤原氏の氏寺で春日大社と神仏習合して南都における独立王国的な存在だった。

(奈良 興福寺。2021年5月撮影)

 

比叡山がもともと山岳信仰の地だった影響もあってか、はたまた最澄自身が修験者で現世利益をもたらす術に長けていたからかは不明ですが、天台宗は現世利益を実現する修験的な密教と融合し、次第に密教化していったといいます。→これを台蜜(たいみつ)という

【二つの密教=台蜜と東蜜】

天台宗としての密教が台密。空海を始祖とする真言宗としての密教が東寺を拠点とする東密で、密教とは弟子から弟子へと修行を通して教えが密かに伝授されていく仏教。厳しい修行を通して僧になったお坊さんが、護摩などを焚いて現世利益(=厄除け、疫病退散、病気平癒など)を実現するという、いわゆる「おまじない宗教」

(京都 東寺。2023年10月撮影)

▪️山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の抗争

そんな密教化した天台宗は、上述のように円仁派と円珍派に分裂します。闘争の結果勝利した円仁派が比叡山延暦寺に残り、敗退した円珍派が山を下って三井寺(園城寺)に下りますが、その後も両者の闘争はずっと続きます。

⑴山門について

山門の始祖:円仁慈覚大師(794-864)は、権力闘争に明け暮れる延暦寺から逃れるため比叡山内に新たに横川(よかわ)という聖地を新設して横川に籠ります。弟子たちには貴族などの俗権力とできるだけ関わらないよう伝え、弟子たちは、その教えを守り続けます。この結果、横川は金欠になって疲弊・衰退。

 

ところが円仁派の中に長浜市虎姫出身の良源(912-985。慈恵大師・元三大師)という台密を完成させた名僧が生まれます。

 

良源は「俗に関わるな」という円仁の教えに反し、摂関政治を始めた藤原忠平(880-949)やその次男にして藤原道長の祖父たる藤原師輔(909-960)に取り入って重用され、966年には天台座主となり、円仁派が勢力拡大。この結果横川は復興し、今でも比叡山の横川を歩くと元三大師の名がところどころに登場してきます。

 

(2024年11月撮影。以下同様)

 

更に良源は藤原師輔の子息を出家させて自分の後任にするなど、比叡山と天皇家や平安貴族とのどっぷり関係は良源から始まったと言われているくらい。

 

この良源改革は絶大で、ときの権力は比叡山に容易に手出しできなくなるなど、良源は比叡山にとってなくてはならない最重要の名僧の一人となったのです。

 

宗教といえども、いかに権力を手に入れ、権益=富の源泉を手にいれるか、がその存続と繁栄に重要で「トップの能力がその組織の栄枯盛衰を左右する」というセオリーは、宗教の世界でも政治権力や企業とまったく同じ。つまり名僧とは優秀な大統領であり、優秀な経営者なわけです。

 

良源の死後、良源が復興した円仁派(山門)と既存勢力の円珍派(寺門)は、お互い摂関家を巻き込んで闘争が激化し、円仁派は円珍派を比叡山から三井寺=園城寺に追いやります。

 

(延暦寺 横川中堂)

⑵寺門について

寺門の始祖:円珍智証大師(814-891)は、山門の円仁が活躍したのち、良源が横川を復興する前に活躍した天台宗の名僧で、空海(弘法大師)の甥という仏教界の名家で誕生15歳で比叡山にて出家し、最澄の後継者にして初代天台座主義真のもとで修行。比叡山での難行の後も熊野で修験の荒業を完遂。

 

(三井寺 熊野権現社)

 

そして修験と天台宗を融合させた神仏習合の世界を発展させます。その縁もあってか、もともと修験者でもあった教待和尚(伝説の人)が住んでいた三井寺=園城寺に円珍がやってきて意気投合し、円珍が比叡山延暦寺に所属しつつ、園城寺の長吏(住職)を兼任。

 

(三井寺 唐院潅頂堂&三重塔)

 

園城寺=三井寺について、かつてその近隣には天智天皇(626-672)が開いた大津京(667−672)があり、大津京にあった崇福寺は園城寺に統合されたこともあって、園城寺は天智天皇ゆかりの寺になったといわれます。

 

園城寺の別名である三井寺の名称の由来も天智・天武・持統三皇の浴井の閼伽井から名付けられた名称で、三人の天皇をここの産湯で清めたという伝説も。そして園城寺は修験と融合し、

寺門派は実践的で法験僧と山岳修行僧を多く出したので、庶民信仰を獲得しました。さらに霊場巡礼修行者を多く出したので、如意輪堂が霊場化されたものと思われます。

五来重著『西国巡礼の寺』

 

 

ということで、寺門は延暦寺とは別途、台密の雄としてその座を確立していったのです。

 

(三井寺の名称の由来となった金堂の裏にある閼伽井屋)

⑶権力闘争で分裂するのは宗教の常(というか組織の常)

権力闘争によって宗教組織が分裂するのは宗教の常。以下類例。

 

①真言宗

空海=弘法大師(774−835)が始祖の真言宗の場合、真言宗が密教化し、おまじない宗教化した東密の世界に浄土宗的な来世利益を加味した覚鑁=興教大師(1095−1144)が権力闘争に負けて高野山を下り、根來寺を開創して新義真言宗の始祖となります。新義真言宗は私たちが初詣にいく成田山新勝寺や川崎大師、西新井大師などのルーツでもあります。

 

(和歌山県 根來寺。2022年5月撮影)

 

②浄土真宗

戦国時代に信長と和解した西本願寺(本願寺派)と信長との和解を拒否した東本願寺(大谷派)に分裂。

 

(京都 西本願寺 飛雲閣。2024年2月撮影)

 

③日蓮正宗

日蓮正宗の信仰集団「創価学会が1991年に日蓮正宗から破門される.

 

どの宗教も権力闘争でタイヘンです。

 

さて山門は、延暦寺を拠点に勢力を拡大し、日本全国に大量の寺領を保有するととも僧兵を用意し、俗の権力が干渉できないほどの自治能力を身につけます。

⑷比叡山延暦寺(山門)も園城寺(寺門)を何度も焼き討ちしていた

この結果、戦国時代に入ると織田信長が言うことを聞かない山門に対して比叡山焼き討ちを仕掛けます(1571年。天台宗的には「元亀の法難」)

 

実はこの焼き討ち、信長の大悪事として有名ですが、信長だけでなく、平安時代から焼打の被害者たる山門自身が寺門に対して何度も繰り返してきたことだったのです1081年永保の焼討、1120年保安の焼討、1163年長寛の焼討、1214年建保の焼討、1264年文永の焼討、1319年文保の焼討・・・)。一方で寺門も対抗して比叡山を焼討。

園城寺は智証大師の門徒の力が大きくなると比叡山から独立し、寺門派を形成して山門と争うようになりました。もったいないことに、内部抗争で園城寺も比叡山も何回も焼けています。あるとき園城寺の僧兵が比叡山を焼きにいった留守に、ちょうど比叡山のほうから焼きにきて、両方とも焼けたという事件まで起こしています。

五来重著『西国巡礼の寺』第14番三井寺より

 

現在、何度も比叡山の山門の焼き討ちにあったという三井寺に私たちが伺うと、その名残として山門派の弁慶(1155−1189が寺門との抗争の際に寺門の鐘を奪って引き摺ったという鐘「弁慶の引き摺り鐘」が現存しています(本当かどうかは不明)。

 

 

以上、天台宗が「法難」と呼ぶ焼討は、自分たち自身がその内部抗争で何度も引き起こしていたと言うのですから驚きです。

▪️比叡山延暦寺の「不滅の宝燈」は仏教由来ではなかった

ちなみに延暦寺の根本中堂にある伝教大師以来、(山形の立石寺経由で)続くという「不滅の法燈」ですが、五来重著『修験道入門』によれば、

 

これは本来仏教の伝統としては邪道なものだそう。そもそもインド仏教は火を神聖視する拝火教を外道としてしりぞけたそうで、五来は

日本の仏教はどうして火をありがたがるのであろうか?

と疑問視しています。ところがなぜ日本仏教が火を神聖視するようになったかというと、これは比叡山に仏教が入る前からあった山岳宗教=修験道の名残りから。

 

五来重著『仏教と民俗』によれば、もともと日本の原始宗教では「火」は、神聖視され、その不滅性が要求されたという。したがって山岳霊場信仰では、霊場信仰の中心が「不滅火」になったという。これを比叡山に置き換えれば、まだ仏教が来る前の比叡山霊場信仰の辺りから根本中堂の不滅火がきているのかもしれません。

 

以上、いろいろ調べてみると私たちの常識には実はそうでもなかったことが多くあり、その驚きが歴史などの学問を勉強するモチベーションになります。まさに勉強とは世の中の常識を相対化することで喜びを見出す、と言うことかもしれません。

 

以上、次回は甲賀忍者について紹介したいと思います。

最終節は自宅でDAZN観戦しましたが、最初の失点と松田の退場&PKで、試合は実質上そこで終わりだったものの、最後までしっかり視聴させていただきました。

 

 

(ジェフHPより)

 

なぜなら今年(2024年)のジェフは私がアーリーリタイアして、ジェフのシーズンチケットを買って、フクアリに通い続ける中で、最も魅力的なチームだったから。

 

そんな魅力的なチームでも結果は7位なので、根本的にまだまだJ1に昇格する実力がないんだな、ということです。

 

理由はやはり、お金の問題が大きいような気がします。リアル的にはお金を稼ぐのが目的であるプロの世界である以上、おおよそはお金で決まる世界ですから。

 

お金の視点で今年の成績をみると、7位といえば、ジェフの2023年度入場料収入はJ2内で7位だし、人件費も同7位。一方で売上高は6位で、おおよそジェフの経営規模にふさわしい結果となったわけです(Jリーグ資料より)。

 

2024年も数字が同じ規模になったかどうかは不明ですが、少なくとも昨年の経営規模並みの成績だったわけで、企業的には成功でもなく失敗でもないのが今年の成績。

 

したがって7位は、良くも悪くもない結果。

 

ちなみに昨日戦った山形も同じくらいの規模で、J2リーグ全体を俯瞰してみても、おおよそ2024年の成績は、順位と経営規模がほぼ比例しています。

 

つまり何が言いたいかというと、J1に昇格するためには、もっと売上を上げなけれないけないし、人件費ももっとかけなければいけない。もっと経営規模がワンランクアップしないとJ1に昇格できないということです。

 

もちろん例外はあります。プレーオフ圏内に入った岡山は、経営規模からすればJ2中位のクラブだし、昨年プレーオフ経由で昇格した東京ヴェルディなんかは、昨年人件費ランキング11位にもかかわらず、昇格しているのです。

 

しかし本質的には、経営規模に見合った成績なのがプロの世界であって、ジェフもどこかで無理してお金をかけないとJには上がれない。

 

そして、今の魅力的なサッカーを残しつつ、J1に上がりたいなら、小林監督に続投してもらって、もっと費用のかかる選手を獲得するしかないし、スタッフもアーセナルで成功しているようなセットプレー専門家を連れてくるなり、長期的にユースを強化して「千産千消」を推進するなり、それなりに強化すべきでは、ということです。

 

もちろん自分にできることは来年もシーズンシートを購入して、できれば知り合いを連れてできるだけフクアリに行くこと。

 

ジェフの経営も2025年に向けて今日から準備して欲しいと思います。

2024年ホーム最終戦、連れを誘おうと思ったら既に席が完売状態でびっくり。これは混むだろうといつもより1時間早くスタジアムに向かうと、まさかの入場大行列。

 

6年間通い詰めてこんなにスタジアムが盛況なのは初めてかも知れません。

 

 

 

 

天気の良好な連休中日で、プレーオフにつながる真剣勝負の試合で、上位の強敵相手。しかも小林監督になってからのジェフの試合はみていて楽しいし、小森という得点王のエースもいて、ということで条件がこれだけ揃うとやっぱりお客さんは増えるんですね。

 

 

 

 

キックオフからしばらくは、どうもプレスがハマらない。前線からプレスを始めたら連動して中盤とバクラインがプレッシングをすべきなのに、配置の問題なのか、プレッシングのスピードが遅いのか、相手の選手が単純にうまいのか、よくわかりませんが、とにかくハマらない。

 

私の見た感じでは、やはりバックラインのプッシュアップが緩いのが原因のように感じる。

 

センターバックの山越がマテウス・ジェズスのポストを抑えられず、何度もピンチを迎えてしまう。それでも後半からは、山越もだいぶジェズスに慣れてきてしっかり修正できたのはさすがでした。

 

前節絶好調だった椿は今節警戒されたのか、右サイドを突破しようにもすぐに数的優位を長崎に作られてなかなか局面を打開できなかったことも前半苦しかった要因。

 

PKで1得点を追いかける展開も、徐々に長崎の戦い方に慣れてきて、後半からは徐々にジェフのペースになってくる。小森のPK失敗は致し方ないし、田中のオウンゴールも事故みたいなもの。

 

DAZNによれば、試合通してゴール期待値はジェフの方が上回っていたのだから、今節はやはり運が悪かったというしかありません。

 

次節最終戦は、それこそ運命の直接対決ですが、ぜひ勝利を目指してほしい。このジェフで昇格をみたい。

 

資産運用も順調に進捗しているので、ジェフにその分を少しでも還元すべく、来シーズンのシーズンシートはメインスタンドにしようかと真剣に考えています。

 

 

 

ただ値段の高い安いに関係なく、Sバック自由席の見やすさと一体感の心地よさのバランスは絶妙だと思うので、悩みどころではあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

滋賀県の中心は琵琶湖で、かつては「淡海」「近海」と呼ばれ、静岡県の浜松湖=「遠江」と対をなす巨大な湖=淡海として琵琶湖は古代の人々から認知されていたらしい。

滋賀県HPより)

 

なので今の滋賀県は、琵琶湖は静岡県にある浜名湖の「遠江」に対して「近江」、その近江の周辺地域、つまり今の滋賀県地域を近江国と呼んだのです(→旧浜松地域は遠江国と呼ばれていた)。

 

琵琶湖の呼び名は、江戸時代からだそうで、その形が和楽器の琵琶に似ていたから。したがって琵琶湖と呼ばれるまでは「近江」であり「淡海」だったのです。

 

(彦根からの琵琶湖の風景。2024年10月撮影。以下同様)

 

さて滋賀県の地図をよく見ると、実は琵琶湖はデカいとはいえ、滋賀県全体の面積の16%を占めるに過ぎません。

 

また関東人の視点から滋賀県全体を俯瞰すると、いわゆる焼き物で有名な信楽や、忍者で有名な甲賀のある甲賀市あたりの地理感がよくわからない。

(甲賀市信楽にて)

 

なぜならこのあたりは、琵琶湖に接した地域ではないから。ところが地質学的には、実はこの辺り(甲賀と接する伊賀)から琵琶湖が始まったらしい。

 

滋賀県HPより)

 

300万年前、北向きに沈み込んでいたフィリピン海プレートは、西に沈み込んでくる太平洋プレートに押し出されて沈み込む方向が変わり、約1億年前にできあがった地層の境界線=中央構造線が横ずれし始め、列島のシワができてそのシワがどんどん西南方向に傾き続けているのです(下図参照)。

 

(『美食地質学』第4章より)

 

 

 

上の図では琵琶湖は「不動プレート」上ではありますが、400万年前は甲賀市の南に隣接する三重県の伊賀あたりにあったのが、フィリピン海プレートの方向転換によって今の場所にはおおよそ40万年前に到達。今でも北方に押し出されていてこの10年で20cmの速度で移動中(10万年だと20km→100万年だとなんと200km)。

 

(佐和山城跡から彦根城と琵琶湖を望む)

 

そんな琵琶湖ですが、上述のように実は世界でも有数の古い湖。一般的に湖は川から土砂が流れ込んでおおよそ1万年程度で消失してしまいますが、移動しつつも湖の体裁を40万年保ち続けています。このような湖を古代湖と呼び、世界では20湖しかない、しかも固有種がいる古代湖は琵琶湖のみという、実は世界的にも希少な湖なのです。

 

(道の駅「湖北みずどりステーション」近くのビワイチラインより琵琶湖を望む)

 

以上、琵琶湖の紹介をしたうえで、3週間かけて滋賀県を周遊中なので、追って滋賀県の風土について個別に展開したいと思います。

 

(今津の朝の琵琶湖)