立花隆(自然科学)と佐藤優(形而上学)の限界 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

文藝春秋今月号「立花隆特集」の中の佐藤優の記事『「私とは波長が合わなかった「形而上学論」』は興味深い記事でした。

 

*形而上学とは何らかの任意の前提=絶対真理をおいてロジックを組み立てる学問や思想のこと

 

私も立花隆の本は学生時代に「文明の逆説」を読んで感銘を受けて以降、「日本共産党研究」や「田中角栄研究」「宇宙からの帰還」「農協」「脳死」の他、たくさん愛読させていただきました。ご冥福を祈りします。

 

さて、佐藤優の記事について簡単に要約すると

 

「佐藤優はキリスト教信者で形而上学こそが価値があると考えている。だから自然科学信望者の立花隆は、受け入れられなかった」

 

という記事です。

 

■立花隆の自然科学

立花隆のように自然科学の視点を徹底すれば、何らかの任意の絶対的真理をおく考え方、つまり宗教含む形而上学は否定されます。立花隆は「利己的な遺伝子」「神は妄想である」で著名な進化生物学者リチャード・ドーキンスと同じ自然科学主義者。

 

神は認めず、フィクションも認めません。仏式などの宗教に基づくお葬式も無駄な儀式なので意味なし(実際、立花隆は自然葬)。クリスマスも無駄。「おまじない」「おみくじ」などの占いもみんな無駄。お盆や各種祭などの歳時記など季節を彩る行事もほとんどは形而上学の領域なので時間の無駄遣い。「お守り」や「何とか祈願」「厄払い」などの各種「祈る」行為も皆根拠のない何らかの前提をおく世界観ですから、これらも全て無駄。

 

立花隆的には、こんな感じです。

 

私が学んだ考えでは、立花隆のような自然科学的思考では、再現不可能でデジタル化不可能な人間関係の機微・性格や気質・思想信条や人生の目的などの「価値の領域」を説明することはできません。人間世界の中心本質を形成しているのは、関係的な意味ー価値形成の網の目の世界なので自然科学では説明できないからです。

 

ただ立花隆が面白いのは価値の領域である「いかに生きるか」を自然科学の思考方法によって解明しようと必死に取り組んでいた点です。「脳」や人間に近い動物「類人猿」に関心を寄せ多数の著作を発表していました(私も数冊拝読いたしました)。でも100年後に(猿の脳含めた)脳の構造が完全に解明できたとしても人間の意識や心がどうなっているか、は永遠に自然科学ではわからないでしょう。

 

詳細は、以下参照

 

 

 

 

■佐藤優の形而上学

記事を読む限り、佐藤優はプロテスタント信者で、目には見えないが確実な真理(例えば「神の国」)に到達するような目的論的思考(=形而上学)なくして社会を維持することはできない、という考え方。歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの「虚構」の考え方のうち、宗教などの形而上学だけが人間社会を維持できるという感じ。

 

しかし、形而上学は人によって任意の前提=絶対真理が異なれば、解決しようのない分断に陥ります。任意の前提は根拠がないので永遠に一致することはありません。むしろどんどん枝分かれしていきます。ユダヤ教→キリスト教→イスラム教、キリスト教の中でもカソリックとプロテスタント、プロテスタント→・・・というように、です。そしてどれが唯一絶対かは、信じる思想によって全く異なり、一致することは永遠にないでしょう。

 

なので佐藤優いうところの

形而上学で社会は維持できる」のではなく「形而上学で社会は分断される」のです。

 

なので「社会を維持」していくためには、形而上学ではなく、どんな考え方(形而上学含む)でも共存できるルールを作るしかありません。つまり「自由の相互承認」(苫野一徳)です。

 

実際、戦後の日本含めフランスやアメリカなどの自由を標榜する民主主義国は、何らかの特定の形而上学を国家理念にせず「自由の相互承認」を国家理念としてかかげ、法制化しています。

 

*このような本質学の考え方の詳細は以下参照

 

 

■「個人の虚構」としての形而上学

ただし、人によっては佐藤優のように「何らかの絶対(神など)」をおいた考え方=形而上学が必要な人もいます。例えば生まれた時から毎週日曜日教会で神に祈りを捧げている人たちにとっては、神の自然科学的証明など意味のないことで、彼らにとっては「神がいることそのもの」が関心の中心であって生きる上で最も大切なものかもしれません。

 

更には、哲学者マイケル・サンデルなどのコミュニタリアンが主張するように、歴史や経験を共有する郷土愛・家族愛みたいなものや愛国心などの帰属意識が人間社会には必要です。どんな人も何らかの人間関係の中で生きており、ここから逃れることはできません。

 

*詳細は以下参照

 

 

 

このように、われわれ人間は何らかの「物語」は大切な一方で人ぞれぞれにみえている世界は百人百様。なので、どの物語や考え方も社会全体で一致することはありえません。

 

したがって一つの考え方だけを国家のルールにしてしまうと必ず不幸な人が出てきてしまいます。ただし逆説的ですが、一つだけ一致させなければいけない考え方があります。それが「自由の相互承認」なのです。

 

社会を維持していく上で最も大切なのは、お互いに異なる考え方を受け入れることであって、その上で個人それぞれが自分にフィットした「物語=個人の虚構」を見つけ、必要に応じて同じ虚構を共有できるコミュニティに参加(所属?)すれば、誰もが心地よく生きられる世の中になるのではと思います。

 

【追記】

今話題の哲学者マルクス・ガブリエルによると、自然科学も形而上学の一種(「普遍性をつくる哲学」岩内正太郎著:44頁)。確かに「世の中の全ては一つの物理的因果系列で説明できる」という考え方なので、形而上学の中の一ジャンルといってもいいかもしれません。したがってガブリエル的には「立花隆と佐藤優の違いは形而上学の中の別ジャンル間の違い」ということになります。