熱心な仏教徒だった天皇家の神仏分離 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

天皇家=ヤマト政権は、もともと仏教を列島に取り入れた張本人であり、以来明治政府が神道国教化するまで、6世紀以来1,300年間、ずっと熱心な仏教徒でした。

 

(飛鳥寺 2021年5月)

 

これも日本史を紐解けば、当たり前と言えば当たり前のことですね。ところが明治時代以降、神仏分離によって天皇家自身が神格化され、現人神に変身してのち敗戦→「神から人へ」という流れ。

 

■菩提寺は、泉涌寺

それでは仏教徒時代の天皇はどうだったかというと、非常に熱心な仏教徒だったのです。菩提寺は、今でも御寺(みてら)と呼ばれている「泉涌寺」。かつては御所にもちゃんと仏壇があって、天皇家が御所で仏壇を前に拝んでいたのは間違いありません。泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山だから、天皇家は空海が日本に広めた真言密教徒という事か。

 

 

泉涌寺では、1241年四条天皇の崩御以降、明治天皇のお父さん、孝明天皇までからずっと菩提寺として、崩御した天皇を仏式にて葬儀・火葬されて埋葬。寺内霊明殿では歴代天王の位牌を安置。つまり亡くなった後は、現代に生きる我々と全く同じ流れ。

 

(泉涌寺 2010年。以下同様)

 

明治の神仏分離にあたって、宮中(御所)にあった仏間(御黒戸)は、撤去されて泉涌寺にうつされ、泉涌寺は奉護料として宮中から年間1,200円(今の価値で2,400万円!)下賜。

 

 

補修もずっと宮内省が面倒みるなど、神仏分離以降も保護されていたものの、戦後の政教分離=神道の国教化廃止に伴い、国費が投入できず困窮。

 

今は、新興宗教の解脱会のお布施や天皇の私費、1966年以降の「御寺泉涌寺を護る会」(秋篠宮親王が総裁)によって維持されています。

 

 

■もう一つの菩提寺:般舟院

一方で、天皇家の尊牌を祀るのはもう一つの菩提寺「般舟院(はんじゅういん)」でこちらは天台宗だから、天皇家は真言密教徒ともいえないか。ちなみに般舟院にあった尊碑の方も御黒戸同様、泉涌寺に移され、菩提寺としての役割はこの時点で終わり。今は境内の大部分が没収され京都市立嘉楽中学校。残った般舟院は2011年、住職が残された境内地を他移動の不動産業者への売却などの問題で破門されたとの顛末も悲しい現実。

 

以上の他、出家した皇族が住職を務めている門跡寺院も30ヶ所以上(仁和寺・大覚寺・文殊院・聖護院など)で、総本山・大本山と呼ばれる京都の有名なお寺もほとんどが天皇家ゆかりのお寺。

 

■天皇のお墓(御陵)

古墳は、ヤマト政権が仏教を導入する以前のお墓で、仏教導入後の天皇家のお墓は、ずっと仏式のお墓。九重の石塔の意匠が特徴の典型的な仏式の墓。主に月輪陵に25陵と5灰塚。9墓が祀られています。

 

そして明治政府の神道国教化以降、孝明天皇より再び古墳形式(墳丘型)に戻ったという経緯(ただし孝明天皇は葬式のみ仏式採用)。

 

 

■宮内行事

仏教徒だった天皇家の宮中では、年中行事にも多くの仏教行事が取り込まれていました。しかし維新以降は以下の通り、宮中行事も神仏分離は徹底され、仏式行事は(天皇の意志に関係なく)全廃されてしまいました。

幕末の宮中では仏教や陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀がおこなわれていたが、年中行事も激変した。年始の金光明会、後七日御修法、正月八日の大元帥法、一八日の観音供、二月と八月の季御読経、三月と七月の仁王会、四月八日の灌仏会、五月の最勝講、七月の盂蘭盆供、一二月の仏名会など、皇室の仏事は明治四年をもってすべて廃止される。その一方で、以前は神嘗祭、新嘗祭、歳旦祭、祈年祭、賢所御神楽のほか四方拝、節折、大祓が定められていたが、それに加え天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など新たな祭祀が生まれた。やがて宮中三殿が成立すると、神道に純化した皇室祭祀が整備され、確立されていった(「廃仏毀釈」畑中章宏著)。

 

それでは、明治時代以降、神道の現人神としての立場を担った天皇自身はどう思っていたのでしょう。明治天皇は、

 

「朕が一生に於いて心残りのことは、即位式を仏教の大元帥の法によってできなかったことである」

 

と崩御の際に語ったそうです(松島善海師談)。

 

こうやって天皇家と仏教の関係を追っかけてみれば、戦後、現人神となった今となっては、たった150年の現人神としての天皇家ではなく、1,300年続いた伝統の本来の天皇家の姿に戻してもいいのではないかと思ってしまいます。

 

以下参照書籍