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穴井千尋を愛するちーふぁむブログ【HKT48 チームH キャップ】ちひろへの熱い想い

HKT48 一期生としてAKBグループ最年少
キャプテンとして、創設以来
どちらからと言えば、控えめで
たまにポンコツで。。
でもいつもメンバーと、チームを最優先に
自らを後回しに頑張ってきたちーちゃんを
全面的に応援します。
一千団結しましょう!!

昨日のフランス初訪問の続き・・・

二日目は、今回の当然の目的であるお仕事をしないといけない・・・
当然の事ではあるが、みなさんが面白く思って頂けるかは保証できないので、サラッと流しますね(笑)

元々芸大の絵画専攻という経歴を期待してのポストだったので、責任重大ではあるものの、別の部分ではその仕事のプレッシャー以上の喜びと、高揚の中での活動だったので、意外とリラックスした出張でした

それで、二日目は画家訪問・・・
駐在員の彼と一日駆けずり回って5件は訪問したかなあ
全くの新人画家から、中堅クラスがメインで(有名画家は値段が高くてビジネスにならない)、僕はその中から発掘するっていう役割

今から振り返れば、1週間滞在する中でたしか30人ぐらいの画家に会ったとおもうが、結果的に、我々のプロデュースもあったしもちろん画家たちの努力もあって、そのうち10人の画家が有名になって(要するに絵で飯が食える)くれたので、
後々の満足感って半端じゃなかったね

話は戻って・・・二日目の夜に幸か不幸か? 駐在員の子供さんが高熱を出して明日は仕事が出来なくなったので、なんと三日目が完全フリーになったのです
(注:子供さんは風邪をこじらせていただけで、二日後には元気になりました・・・
決して人の不幸を喜んだ訳ではありませんから・・・笑)

完全フリーになったものの、彼はいないわけですから通訳はいない・・
道案内もいない
情報源は、「

楽しいパリ観光 ガイドブック」1冊のみという現実・・・・

まあ、そうなっても何とかなるわ!精神の持ち主である僕は、期待と興奮の方が強いので、一人で彼のパリ郊外のマンションからメトロに乗ってパリに向かったのです

まあパリに行った事のある人ならご存知であろうけど、僕にとってあまりにも新鮮だったのが、メトロ(地下鉄)に乗ってパリに向かう電車の中で若者ミュージシャン達が、ギターを弾いたり、バイオリンを奏でたりしてるのを見た時だよね
ましてや、年配のおじさんとかおばさんなんかもいたりして・・・

乗っている他の人たちと言えば、ごく当たり前の普通の風景って感じで、本を読んだり、友と話してたり、敢えて彼らに注目するでもない態度に、これって日常茶飯事の事であるって初めて知ることが出来たのです

あるいは、地下の通路でもやってたりしてて、ギターのケースなんかにコインが投げ込まれいたことも新鮮でしたね
まあ30年ぐらい前なので、日本の若者なんかもこういうのを見たり聞いたりして、ストリートライブをやるようになったと思う


地下鉄のミュージシャン


さすがは芸術の都パリ・・・と
改めて実感しながら、ようやく目的地パリに到着

パリのシャンゼリゼ通りは一言で言えばお洒落

もうひとつ言えばプリティ・・・可愛いい

街も、人も・・・お洒落で、可愛いい

街並みは、まさにTVで見たり、なんかの写真で見たりしてはいたものの、やっぱり実物は・・・それの100倍ぐらい素晴らしい・・・

洗練されている人たち

しばらく僕は、唖然として道に30分ぐらいはたたずんでいたと思う

よくパリジェンヌって言うよね!
まさにオシャンティ・・・
一番びっくりしたのが、熟年らしき人、老人らしき人がいないと思うぐらいの若々しさ・・・

でも近づいてじっくりみたら・・・
なんと、お婆ちゃん・・・笑
こんなお婆ちゃんだったら、一緒に歩いてもいいなあって思ったほどである

だから特に女性はかなりのプライドがあって、女磨き、若作りに力を入れてるのだろう
エステに、美容院にあるいはフィットネスクラブに、化粧品などで・・・
パリジェンヌというポジションを守るために・・・
だから、30歳ぐらいの当時の僕はその時に確信したのは、人間は意識をしっかり持って、努力すれば若さを保てる事を・・・

僕の1歳上の、郷ひろみが何故あんなに若々しいのか・・・

見えないところでの並々ならぬ努力は、否定出来ないでしょうね
僕もがんばろっと!

今日はここまで・・・
次回は、かの有名なルーブル美術館、オペラ座のお話です
出来れば、近いうちに更新しますね!

















実は、かれこれ25年ぐらい前には、とある貿易会社に勤めていたんだが、絵画とヨーロッパ車の輸入業務をしてた関係で、幾度かヨーロッパに仕事で行かせてもらっていた

そんな古い過去の話ではあるが、幾つかの思い出話を綴ってみたいと思う

フランス10回
イギリス2回
ベルギー5回
オランダ5回
ドイツ5回

覚えてる限りではこんなもんかな・・・
フランスがどうして多いのかって?
これは、絵画の輸入が当初の業務で、絵画と言えばフランス絵画が主流なものでこう言う回数になった訳だ

では、今日は一番行った数の多いフランスのお話・・・

前にも投稿したけど、芸術大学を出たものにとってフランスっていうのは謂わば聖地みたいなもので、遥かな憧れのような国

大学でも第二外国語はフランス語だった・・・でもほとんど忘れてしまっているのは悲しい現実

そんな憧れのフランスなので、初めて行った時の事を記憶を手繰りながら書いてみよう・・・

そんな拙いフランス語で(当時は若かったから今よりはフランス語はまだマシ)、如何にビジネスを行なっていたかと言うと、種を明かせば現地駐在員がフランスに居てくれたからで、実に頼りがいがあって、特にフランス駐在員のY氏は僕とは非常に気が合っていて奥さん、子供たちなど家族ぐるみでお世話になってた

パリのシャルルドゴール空港に飛行機が降り立つ時の心境は今でも鮮明に覚えてる

実はそれまでは、韓国以外の外国には言ったこともなく、全くの見知らぬ地であると言うだけでなく、憧れのフランス・・・これで興奮しない人はもはや人間ではないだろう

当然の如く、ハイテンション、超興奮の中でまるで子供のように心を躍らせていたのだが・・・
なにぶん、この僕は見栄っぱりのええ格好しいという厄介な性質があって、表面上には悟らせまいという感情があるため、如何にも出来るビジネスマンを演じたいがために、きっと面白い表情をしていたのかもしれない

フランスの風景が高度を低くするにつれリアルに僕の視野に入ってはくるが、最初のフランス訪問は早朝着陸のため、冬のフランスはまだ暗く細かい風景は残念ながら見えず、街並みのネオン、道路の外灯などがほとんどで、少し興奮をトーンダウンさせながらも日本のそれと違うことに気づいた

外灯とかの色合いが違うのだ

イエローと言うかイエローに近い橙色しているのだ
これは、かなり日本人としたら違和感があって、フランスにおける最初の驚きであった

実は後でわかった事だが、所謂フォグライトなんだそうだ

フランスは
 パリにぬれて 』とい映画でもあるように霧が多く、外灯はおろか自動車もフォグライトは装備してないといけない訳で、パリの風景が橙色してたのも当然という事なのだ

そんなこんなで、若干の驚きを感じながら、最初に訪れた不安感が予想通り言葉の壁

一応、第二外国語でフランス語を学んだとは言え・・・たった2年間だけの学び
中、高、大と8年学んだ英語でさえ不安を感じるレベルなのに・・・

当時、決して真剣に学んでいたわけでもない(絵の制作にはガチに投入してた・・・これほんと)
人間にいきなりのフランス訪問はあまりにもハードルが高かったみたいで、
出口:Une sortie 入口:Une entrée は一応わかった・・・
便所:toilettesもわかった・・・・でもそれ以外は忘れてた 笑

でもなんとか荷物もゲットし、マネーチェンジもして、トイレにも行って出口まで辿りつけたので
、まんざらでもないんちゃうって自信が持てたね
今からは想像もつかないほどウブだった30歳

もちろん当時携帯電話なんて物は、会社の社長さんか、金持ちしか持っておらず(それもメッチャでかい)駐在員はおろか、平社員の僕など触っても見たこともない代物だから、迎えの駐在員が本当に来てくれるのかも心配だったが、出口のとこにいてくれたので、ホッと胸をなでおろした事は言うまでもない

早朝6時ごろだったので、彼に無理を言ってパリまで連れてってもらい人生初のパリのシャンゼリゼ通りのオープンカフェでのの朝食

なんか優雅な気分に浸りながらの、カプチーノとハムエッグ

そこでまた新しい発見!
なんと、フランスパンが無料なのである
まさに韓国のキムチ状態
おかわり自由なのだ

でも先ほども書いたが、いたって僕はええ格好しい
おかわりしたい気持ちを抑えつつ、如何にもずーとパリで仕事をしているビジネスマン風を保ちたいが為のやせ我慢

イケメンは辛い(その頃は)・・・かっこつけたがる
まあ、それが原因でいろいろ失敗してきたけどね・・・

お昼すぎまで、パリで散策しつつ彼のスケジュール上、残念ながら観光はそこまで・・・
彼のマンションはパリ市の郊外
車で30分ぐらいのところの静かな住宅街にあって、メトロ(日本もこれを真似して地下鉄の名前をメトロにした)に乗っても乗り換え無しの一本でパリに行ける

その日の午後は、彼は別の仕事があるから僕は留守番しながら彼の子供(3人)のおもり・・・
これは逆らえないよね(笑)
彼が頼りなんだから・・・

なんか一日目で、こんなに長くなるとは思わなかったので、今日の回想録はここまで!

明日も時間が取れそうなんで、続きはまた明日・・・



 パリのオープンカフェ












雨にも負けず

「雨ニモマケズ」

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい



実は、この宮沢賢治の詩には実際のモデルがいたって事・・・みなさんは知っていました?

正直なところ、50歳を過ぎた僕でも恥ずかしながら今まで全然知らなくて、宮沢賢治本人が漠然と想い描いていた理想なんだと思っていた・・・ではここで紹介をしてみよう!

そのモデルと言われている人は斉藤宗次郎という人で、岩手県の花巻に生まれ、小学校の教師をしている時に内村鑑三の影響を受けて聖書出会い、クリスチャンになる

しかしその事がきっかけで、涙ぐましい苦労を背負うようになるんだよね・・・

その当時の時代背景としては、キリスト教は『ヤソ教』『国賊』とも呼ばれてて、石は投げられるわ・・親にも勘当され・・教師まで辞めさせられるまでの迫害を受け、近所で家事があったときは放火犯人と疑われて、家族まで迫害を受けるようになる

家のガラスは何ども割られ、家すらも壊されてしまう仕打ち・・・
そして、これ以上の悲劇はないっていう出来事が起こってしまう

最愛の9歳の娘さんが『ヤソの娘』だと言って、腹を蹴られて腹膜炎を起こして亡くなってしまう・・・
(アカン・・書きこみながら、もうすでに涙目・・・・)酷すぎる

でも、斉藤宗次郎はどこもでも怯まなかった

あくまでも神の愛を唱え、キリストの救いを伝え歩き・・・

子供がいればアメ玉をあげ、仕事の合間には病人のお見舞いに出向き、そして励まし・・・そしてその人の為に祈り

雨の日も、風の日もそして雪の日も(岩手なので雪は半端ない)休みなく、町の人のために、祈り、そして働き続けた

周りから『でくのぼう』と言われ続けても、彼は愛を貫き通した

あ、そうそう!ブログの途中だけど、けっしてここで僕は宗教を語るつもりも、キリスト教を擁護、賛美するつもりもない

だからと言って否定もしない・・クリスチャンでも戦争は起こすし、悪いこともする、仏教だって・・・

でも斉藤宗次郎のような聖人のような人もたくさんいるのも事実

何かを信じることは素晴らしい事だと思うし、でも結局問われるのは行動だものね

さて話を戻して


ただただ、この斉藤宗次郎という一人の人間の生き様を垣間見て、驚きと、感動を覚えたのは間違いない事実だね

その後彼は、内村鑑三に招かれて花巻から東京に引越する事になった

花巻を離れる日のこと・・・ 彼はきっと自分の中では、一人寂しく花巻の地を去っていくもんだと思ってたでしょう

しかし、その日彼が目にしたのは、想像もしなかった光景だった

彼が駅に着くとそこには、町長をはじめ町の有力者、学校の教師、生徒、神主、お寺の住職、一般の人、子供、乞食など・・・身動きが取れないほど人が集まり、駅長は停車時間を延長させ、駅を離れるまで徐行で電車を走らせるという配慮までしたというのです

その群衆の中に若い日の宮沢賢治がいた事はいうまでもない

そう言えば、昔若い頃に学校の教師をしてた祖母が僕に言ってた言葉を思い出した・・・

人間の価値って生きてる時はわからないよ!

死んでお葬式の時にどれだけ人の為に生きてきたかがわかるって・・


それは、親戚とか身内とか関係者の参列でなく、如何に多くの知らない今まであったこともない人たちが焼香をあげに来てくれるかだって・・・

身内だからとか、義理があるからとか、仕事の関係だからとかでなくただ故人の為に焼香をあげにきた人たち・・・

故人を偲び、悲しみ耽るそのひと達にとっては、故人は大切な友だった訳だから・・・

斉藤宗次郎はもちろん死んではいないけれども、これでお別れというその際に一目会って町の人たちは別れの挨拶をしたかった訳だから、おんなじような気持ちだったのだろう・・・今までありがとうってね

いままで『でくのぼう』と言って馬鹿にして、ひどい仕打ちをしてきた、あるいは積極的にひどい事をしてなかったけど、でも止めようとせずスルーしてきたこのような町の人たちが、何故このような行動をしたのか?

どうしてかたくなな彼らの心を動かす事ができたのか?

幼い宮沢賢治の人生にとって、忘れられない出来事だった事は誰にでも容易に想像出来る

彼の人生に大いなる影響を与えたと同時に、彼の人生の指標にもなって、宮沢賢治文学の基礎にもなったのだろう

誰かのために・・・そう特定の人でなく、もちろん身内、知人の為でもない、見ず知らずの人であろうとなかろうと・・・愛し続ける事

それは、前回の投稿で取り上げたアガペーの愛(博愛)が彼にあって、貫き通した愛の姿に町の人たちは少しずつ心を打たれて来ていたんだと思う

でも、ああいう当時の時代背景の中では勇気をもって斉藤宗一郎の味方をすることなど到底できなかったのもわかるような気がする

誰でも自分が可愛いいからね自分も同じように迫害を受けたくはないものね・・・

誰かのために・・・改めて自分は何が出来るだろう?見返りを求めず、自己満足でもない、押しつけでもない愛

半世紀生きてきた自分は、今まで何をやったきたんだろう?って
自問自答してみた・・・否・・・

胸を張って言える事など何一つない

でも今からでも遅くないって思った・・・あと何十年生きれるかはわからないけれど・・・誰かのために今出来る事を模索しながらでも・・・

東北の大震災以降、その想いは強くなったきた

宮沢賢治の詩の朗読会なんかも、震災以降多くなってきてるのも、みんなが心の在り方を自分自信に問いかけだしているのかもしれないね

まだまだ、僕自身やり残した事がたくさんあるように思う

長々と書き綴ってみたけど、纏まってたかどうかは疑問です^^;

でも宮沢賢治のように、『そういうものにわたしはなりたい』と願い、想い続ける日々でありたいと願う、今日このごろです