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死刑について考えてみる
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「死刑」 昔から賛否両論がある。
慎重に扱うべき問題(と言っていいのかも微妙)ですね。
※冤罪なんかの場合もあるから、その判断は慎重に進めなければいけないけれど、それはまた別の場合として。
今回は “死刑=殺人” に結びつくのを前提としています。
まぁ、それ以外に関して死刑を求刑しているのを見たことがないからだけど。
ハッキリ言えば私は「死刑」に賛成。
たとえ悪人でも善人でも命の重さは=(同等)だ。
死刑に賛成するくせに矛盾していると思うけど、生と死は誰もが平等に与えれらた権利に等しい。
だからこそ、相手の命を奪ったのなら自分の命を持って償うのは当然だと思う。
生命が大切とか、罪を償うチャンスは必要だ、そう言う人は絶対にいる。
学生のときに通っていた学校では、身内を殺された人がいたけど、その人は犯人を恨んでいないと言っていた。生きて罪を償って欲しいと。
私には理解できない。言葉の意味は理解できても、気持ちが追いつかない。
実際に、自分もしくは家族・友達が被害者になったときにそんなことを言っていられる自信はない。
故意であったにしろ、そうではなかったにしろ、その人がもういないという事実は変わらない。
残るのは辛く重い現実と渦巻く感情だけ。
だからこそ私は「死刑」に賛成。
だけど、日本の“死刑=絞首刑”に賛成なわけじゃない。
私は 「同じやり方」 で相手に罪の償いを求めたい。
だって日本には“無期懲役”はあっても“終身刑”はないから。
“終身刑”なら死ぬまで刑は続く。
“無期懲役”は刑の期間が決まってないだけで、更生されたと見なされれば釈放される。
それってえらい違いじゃない?
極端に言えば、たとえ何人殺そうが「犯行時は精神錯乱状態で覚えてません。責任能力はない。」「私は罪を受け入れ反省し、真っ当人間へと更生しました。」それが認められてしまえば、数年後に釈放。
アパートや道を歩く自分の隣にいるかもしれない・・・・・それって凄く怖いと思う。
その人が本当に更生したかなんて本人以外には実は誰にもわからないことで、
犯人とそう判断した人との“信頼と信用”という言葉で成り立っている危うい関係。
絶対に、もう二度と同じ過ちがないとは言い切れない。
冷たく言ってしまえば、他人の命に他人が責任を持つことなんて出来ないのだから。
話がそれた気もするけど、“死刑”には賛成。
============こっからはテーマとは別=============
この間ネットのニュースで、76歳の男性が道端に止めていた自転車を、男児が同級生2人と用水路に投げ入れられたって事件を見た。
笑ってしまうような話だけど、おじいちゃんは小学6年の男児(11)の頭を数回殴るなどし、4日間の軽傷を負わせた疑い。そんで、傷害容疑で緊急逮捕。
は?って思ったのは私だけなのだろうか。
普通、自転車を用水路に投げ入れられて平気でいる人なんてそうはいないだろうよ。
殴ったことは悪いとしても、人のものを壊して相手に前科がつくって・・・・ありえなくない?
子供、どんだけ自由な家庭で育ったんだよ?これじゃ、悪きことをしても未成年のうちはなにやってもOKって思うんじゃないのか?
まず裁判員制度をスタートするとか言う前に、少年法とかもちゃんと見直した方がいんじゃないか。
未成年だからって理由は、顔も名前も伏せる理由にはならないし、刑が軽くなる理由にもならないと思う。
それだけのことをやってんだから、自分の行動に責任持つのは当たり前のことだと思うんですが。
なんか世の中おかしいよ。そう思っている私がおかしいのか?
正しい判断って、いったいなんだろう。