法と道徳は違う。確かにそうですが、法を運用する上で道徳的観念は重要です。
 法解釈をする際に、何をどうみなすかは問題になります。たとえば、法律上、結婚した未成年は成人とみなします。成人と同様とみなしているのです。この解釈にも道徳的感情は影響します。家族を自然な基礎的単位(共同社会)とみなすか、単なる個人の集まり(利益社会)とみなすかは、道徳的感情の影響を受けるのです。フランス革命期のフランスは後者でした。対して、アイルランド憲法には、わざわざ前者であることを明記されています。自由権規約第23条一項にも、前者であることが明記されています。自民党憲法改正案は批判されましたが、家族規定自体は珍しくないです。ただし、アイルランド憲法も自由権規約も、その名宛人(義務を課せられている存在)は、主に政府であって、国民ではないです。この点、自民党憲法改正草案と異なります。
 さらに、法の欠缺(慣習法・制定法の不備)を埋めるのに、条理解釈は用いられますが、この条理解釈は多分に道徳が関係しています。条理解釈とは条理に基づいて解釈することですが、条理とは何でしょうか?法学辞典を見てみましょう。


ある社会の法秩序においてその根底に流れている、法的価値判断のこと。あることについて法が定めていないとき、あるいは不完全にしか定めていないときに、この条理を補って事件を解決する。(1)

 次のようにも書いてあります。
社会生活における根本理念であって、物事の道理、筋道、理法、合理性と同じ意味。社会通念、社会一般の正義の観念、公序良俗、信義誠実の原則等と表されることもある。一般的には法の欠缺を補うものとして考えられ、裁判事務心得(明八太告一0三)によれば、成文法も慣習もないときに裁判の基準として取り上げられるものとされている。民事調停法一条に用例がある。(2)

 新たな立法によって刑罰を課す場合、その量刑は裁判所に委ねられる。この場合、刑罰の軽重は、慣習や法律では決められていないので、社会の必要性に応じて、量刑する。(所謂社会学的解釈)これを条理解釈に含めることがあるが、条理解釈はそれだけではない。条理には公序良俗や信義則が含まれている。これは道徳的感情と大きく関係している。次に、公序良俗や信義則を調べてみよう。

 

公序良俗 社会的妥当性を意味する。これに反する内容を持つ法律行為及びこれに反する条件をつけた法律行為は無効とされる。(3)

 あるいは、別の法律用語辞典から一部引用すると。
 公の秩序・善良の風俗 公の秩序は、国家・社会の秩序ないし一般的利益を指し、善良の風俗は、社会の一般的道徳観念を指す。両社を区別する実益は乏しく、全体として社会的妥当性を意味するものとして用いられる、全法律体系を支配する理念を表したもの。略して公序良俗という。民法九0条は、これに反する法律行為を無効とする旨を規定している。(4)

 公序良俗は道徳が関係しているのが見て取れる。

 信義誠実の原則も辞書で見てみます。
 

民法1条2項に掲げられている原則で、信義則ともいう。一般に、社会生活上一定の状況下で、相手方の正当な期待に沿うように他方行為者が行動することを意味する。法律的には、法律や契約条項に規定されている権利義務条項を、具体的な事情に応じて創造したり調整する機能を果たしている。(5)

 
人の社会共同生活は、相互の信頼と誠実な行動によって円滑に営まれるべきであるとの考えに基づき、権利義務という法律関係の履行についても同様の行動をとることを求める法理。信義則ともいう。法と道徳の調和を図るための重要な観念となっており、民法一条二項は『権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。』と規定する。(6)

 徳の一種である「誠実」と「道徳」という言葉が出てきており、道徳とは切り離せないものであることが分かります。

 道徳と法が切っても切れない関係であることが分かります。しかし、法と道徳は違う。では、どこが違うのだろうか。一般に、心という内面を整えるのが道徳であり、動作という外形を拘束するのが法と言われる。この点には、今回は深くは扱わない。道徳と法の峻別は割と曖昧であることは、今回の記事からも垣間見られたのではないかと思う。


 参考文献
・尾崎哲夫(2010),『法律用語ハンドブック』(四版 東京 自由国民社)
・江草貞治(2012),『有斐閣 法律用語辞典』(第四版 東京 有斐閣)


 注釈
(1)尾崎(2010)p.156
(2)江草(2012)p.613
(3)尾崎(2010)p.81
(4)江草(2012)p.70
(5)尾崎(2010)p.160
(6)江草(2012)p.630

 日記ということで気軽に考えを書いてみる。
 ある人は、共産主義や社会主義は、国家主義とは相容れないと考える。また、共産主義や社会主義と皇室を敬うことが、相容れないと考える人もいる。果たして本当にそうなのか疑問に思う。


 社会主義体制とは、生産手段を政府が管理する体制のことです。これは国家主義に反しません。国家社会主義という言葉があるように、国家権力が生産手段を管理すればいいのです。あらゆる個別的所有権が生産手段になりうるので、この場合、(一部の生産物を除いて、)個別的所有権を原則的には認めないことになります。それが皇室への敬慕と反するかというと、そうとは限らない。生産手段を政府が管理する体制では、公務員が資源配分と生産物の分配を決めます。公務員という特殊な身分の存在を妨げないばかりか、天皇及び皇族の存在も否定しないでしょう。さらに、政府の上に存在する天皇が、三種の神器や祭祀の道具を継承しても、おかしくない。祭祀などの国事行為も妨げない。もし、政府と天皇は別物と考えるのならば、三種の神器等は、例外的に政府が管理せず天皇が管理する体制にすればよい。天皇への敬慕どころか、天皇陛下への敬慕なら、なおさら矛盾しないだろう。

 共産主義の場合はどうだろう。共産主義体制とは、生産手段をみんなで管理する体制です。この体制では、生産手段の独占をみとめません。一部の人が誤解していますが、共産主義は平等性を志向する主義でも個別的所有物の存在自体を否定する主義でもありません。世界中の人間が生産手段を共有化するには、世界統一の政府による生産手段の独占の禁止が必要であり、この点では、国家主義と相いれません。
 では、国内の生産手段を国民だけで共有する場合はどうでしょうか?この場合は、原則的に個別的所有権を認めていないがために、外国との貿易が難しい。しかし、もし、一国の資源で何とかなる国ならば、共産主義と国家主義は矛盾しないでしょう。ボランティアによる国会や国民議会で立法など行うことは可能です。この場合でも、天皇の地位や神器を生産手段とみなさなければ、天皇及び皇族の地位と共産主義は両立可能です。その場合、天皇陛下や皇族の方々も、共有化された生産手段で生活用品を生産しないといけなくなります。ならば、公務を軽減する必要があります。様々な条件が付くものの、共産主義と国家主義は両立可能であり、共産主義と天皇の地位の存在も両立可能だろう。共産主義が国家の憲法・根本規範となる立憲君主制というわけである。

 電気などのインフラ整備は共産主義ではできないだろう。共産主義と社会主義を混合した体制の場合はどうだろう。一部の生産手段を政府が独占し、その生産物を国民に分配する。それ以外の生産手段は国民全員で共有する体制である。共有化している生産手段から生産の生産物の一部に納付義務を課し、公務員に分配する。この場合、純粋な共産主義よりスムーズに国家主義と両立しそうである。天皇の地位との両立も可能だろう。


 共産主義や社会主義と、国家や皇室の存在は、相容れないのだろうか?相容れないと考えるのは、思い込みな気がします。特に、社会主義とは、無理なく両立しそうである。


 言うまでもないですが、共産主義も社会主義も反対です。むしろ、八紘一宇や仁徳天皇の民のかまどを根拠に、社会主義や共産主義を目指す民族左翼が、現れるのではないかと、危惧しています。こう釘を刺しておきたい。古事記に基づく改革は、2674年という重みを無視する行為に他ならない。

 奴隷と強制的苦役


 日記ということで気軽に書きます。


 奴隷という言葉の意味を確認します。奴隷にするとは、他人の弱みに付け込んで、労働を強要することです。法律上はどうなっているかというと、労働基準法5条と刑法第223条強要罪、および刑法第224条‐226条を見てみるといいです。


第五条 使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。


第二百二十三条  生命、身体、自由、名誉若しくは財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、又は暴行を用いて、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害した者は、三年以下の懲役に処する。


第二百二十四条  未成年者を略取し、又は誘拐した者は、三月以上七年以下の懲役に処する。

第二百二十五条  営利、わいせつ、結婚又は生命若しくは身体に対する加害の目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、一年以上十年以下の懲役に処する。

第二百二十五条の二  近親者その他略取され又は誘拐された者の安否を憂慮する者の憂慮に乗じてその財物を交付させる目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。

2  人を略取し又は誘拐した者が近親者その他略取され又は誘拐された者の安否を憂慮する者の憂慮に乗じて、その財物を交付させ、又はこれを要求する行為をしたときも、前項と同様とする。

第二百二十六条  所在国外に移送する目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、二年以上の有期懲役に処する。


 法律上の奴隷制度とは、本人あるいは親族の身体的自由や名誉と引き換えに、労働を強要する制度のことです。あるいは、詐欺などで職業選択の自由を侵害する制度です。奴隷の多くが人身売買に伴って移動の自由も侵害されます。労働者が児童の場合は異なっていたり、性産業に従事する場合は異なっていたりしますが、原則的には本人の自由な意思が侵害されるかどうか重要です。
 労働に対して適切な対価が支払われるかどうかが重要という人がいます。しかし、そうではありません。そもそも、何を以て適切な労働の対価とするかは、自明ではありません。ただし、もし、職業選択の自由の下での労働の対価は、常に適切と考えるなら、適切な対価を基準にするのは正しいです。あるいは、社会的弱者を奴隷と称する人がいます。確かに、配分が少ない人、教育が不十分で生産性に乏しい人や貯蓄のない人は、それを弱みとなり通常より低賃金で労働することになりがちです。しかし、それに関して、雇用主の道義上の責任や法的責任はありません。嫌なら、他の職場を探せばいいのです。起業すればいいのです。雇用主は働くことを強制などしていません。このような雇用主を取り締まると、失業などより過酷な状況になることもあります。もし、長い期間において、政府が決めた労働基準に合わない企業が多数存在しているなら、労働規制が強すぎて、就職をより困難にし労働者の生活を悪化させている可能性もあります。労働基準を下げることも考慮しないといけないのです。その様な人の賃金が通常より低く評価される一つの要因は、政府が救貧政策を行わなかったからです。しかし、それは政府に道徳的義務や法的義務があるという意味ではありません。財源がなければ、救貧政策すら困難ですし、財源があっても、義務ではありません。生存権の条文はプログラムを規定したにすぎません。憲法25条は、政府による財産権の侵害を制限しているのに対して、生活保護のための課税の許可を明記したにすぎません。景気の悪化を理由に、過酷な労働環境に身を置くことがありますが、それは誰の責任でもありません。様々なところに要因があるでしょうが、それは責任があるということを意味しません。




 では、日本で奴隷はいるでしょうか?職業選択の自由があるので、人材派遣会社は奴隷制度ではありません。ブラック企業は労働基準法違反かもしれませんが、一般に、奴隷労働を強制してるわけではありません。それは奴隷ではありません。

 しかし、現代の日本には奴隷制があります。裁判員制度です。日本国民が強制的に苦役を与える制度です。裁判員として時間を割くことを強制されるのは、骨が折れることです。その時間の間、他の仕事をしたりできないのです。全体の利益のために個人が抑圧されています。この制度は、憲法第18条違反と考えるべきです。

第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。 又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

 


 おまけ

 今回の記事は、人権の本質は義務と考える人にはある程度賛同されるだろう。一方、左翼にありがちな人権の本質は利益と考えを抱いている人には、反論されるのでしょうね。
 強制労働と奴隷は厳密には違います。けど、今回の記事で大事なのは、権理の本質は義務なのか利益なのかです。後者と唱える人間は、社会主義と親和的です。

 失業者が減少と非正規の増加にも拘らず、正社員が増えてないとして、アベノミクスを批判している人がいます。ブラック企業を必要以上に責める人は、その人と同様に愚かです。投資を活発にしたり労働生産性を上げるのが必要なのであって、企業を責めてもあまり意味がないです。
 あと、そもそもここ一年で正規雇用も増えています。