挨拶遅くなりましたが、年が明けて2018年となりました。明けましておめでとうございます^^

 

今年で僕は34になり、妻は25となるのかな、確か。まぁ歳がどうなろうと40迄は多分変わらない。そんな気がしますけどね(笑)

色々ありましたけど、まぁ家族円満ではあるのでそれでイイのではないかなと思ったり。

 

目標や問題は山積みだけども(笑)

まぁそれもこれからの行動次第、自分がどう行動し、なにを選択するか?どのような自分になりたいのか?そういうのが大事なのだなと、そしてご縁ですね。これからもご縁がある方とは大切にしていき。自分の人生が少しでも豊かに面白く、周りも少し良い方向に変わればなとそんな所です。短い文章ですけども、こんな所です。

 

また纏まったものが出てきたらこちらに文字を載せるかもしれません。すみませんいつも気紛れで(;´∀`)

では、今回はこの辺で。有難うございました。

 

白影

選挙権年齢の十八歳以上への引き下げに伴い、自民党は少年法の適用年齢を「十八歳未満」に引き下げる法改正の提言をまとめた。

二月に同党の稲田朋美政調会長が「少年事件が非常に凶悪化している」と発言しているが、統計上、そうした事実はない。こうした動きについて、元小田原少年院院長の八田次郎さんは

 

少年法の精神である「育ち直し」の機会を奪うと批判している。

 

・選挙権とは別物

「選挙権年齢と少年法の適用年齢の議論は全くの別物。同じ土俵で議論しようという発想自体がナンセンスだ。少年はひと昔前より幼くなってきている印象すらある。むしろ、適用年齢は引き上げるべきだ。」

 

法務教官として少年院などで三十年以上わたり、非行少年の校生に携わってきた八田さん。少年法の適用年齢引き下げは「時代に逆行する」と批判する。

議論の背景には、六月に成立した改正公職選挙法がある。選挙権年齢を十八歳以上に引き下げた同法の付則に、少年法について「必要な法制上の措置を講じる」と記されたことを受け、自民党の特命委員会が議論を開始。

稲田政調会長が「前向きな意見をお願いしたい」と注文を付け、特命委は九月に「引き下げが適当」との提言を法相に提出した。法務省は二○一七年の少年法改正を視野に、十一月から有識者を交えた勉強会を始めている。

 

「育ち直し」の機会奪う

二月の川崎市での中学一年生殺害事件の容疑者が十八~十七歳だったことが議論の契機になったが、引き下げはどのような効果をもたらすのだろうか。

八田さんは「刑務所では十分な教育プログラムを受けられない。少年法の網から漏れる事で実名報道され、犯罪者の烙印を押されてしまう。刑事処分なら窃盗などは、起訴猶予か、せいぜい執行猶予付き判決だが、少年院なら矯正教育が受けられる。

 

教育の機会を与えないまま、レッテルだけ貼って野放しにするのも同然で、再犯の可能性は高まる」と危ぶむ。

 

・刑罰よりも教育

少年法の精神が目指すものは、非行少年への刑罰ではなく、教育を通じた健全育成、「育ち直し」だ。

 

八田さんは法務教官として、現場で不遇な環境を余儀なくされた多くの少年たちと接してきた。借金取りに追われながら育った少年、父親から殴る蹴るの虐待を受け続けた少年、母子家庭なのにいつも家を空けていた少年・・・。

八田さんは「満たされないいら立ちが攻撃性に結びついてしまう。『恵まれていないんだから仕方ないだろ』と非行を正当化する少年は多い」と指摘する。

少年院では、そうした少年たちと法務教官が「擬似家族」のような形で接するという。法務教官は家裁や鑑別所が作った成育記録などを基に、一人一人に合った教育計画を作成。

少年自身にそれまでの反省の問題点を洗い出させ、生活指導を重ねる。非行内容を反省させ、被害者の気持ちも考えさせる。

八田さんは「信頼関係を築くことが大切。『心配してもらっている』と思えれば、自分と向き合用になり、他人の気持ちにも寄り添える。『父を殺したいほど恨んでいたけど、父の事情も少し理解できるようになった』と話す少年もいた」と振り返る。

適用年齢が引き下げられれば、年長少年(十八、十九歳)はこのような教育の機会を失う。

八田さんは「大学進学率を考えれば、年長少年の半数以上が学生。彼らはネットなどバーチャルな世界で生きていて、総じて昔の若者より社会性が乏しい。自立性や精神的成熟度が未熟なまま、早い段階から刑罰を与えて何の意味があるのか」と疑問を投げかける。

 

・犯罪減っている

法改正の理由とされる少年事件は、実際に増えているのだろうか。

警察庁によると、昨年、刑法犯として検挙された少年は四万八千三百六十一人。

ピークだった一九八三年(十九万六千余人)の約四分の一にまで減った。殺人など凶悪犯も減り続け、昨年は十年前と比べ、約半分の七百三人だった

統計上は引き下げの必要性がないように思えるが、与論は真逆だ。内閣府が九月に公表した「少年非行に関する世論調査」では、少年による重大事件が増えていると感じている成人の割合が78.6%に上り、五年前の前回調査より3ポイント増えている。

 

・格差ない社会に

八田さんは「川崎の事件や長崎県佐世保市の高一同級生殺害など特異な事件が衝撃的に報道されたことが大きい。一般の人は加害者より被害者に共感しやすい」と背景を推測する。「国が被害者を支援するのは当然。ただ、司法制度の柱は加害者の処遇だ。政府は少年犯罪の根を絶つ方策を考えるべきだ。どうすれば子供の成育教育を整えられるか。貧困が少年犯罪を生む土壌になっていることは否めず、格差をなくす社会づくりこそ、求められているのではないか

中日新聞の特集 2015年12月1日の記事から 抜粋

保:保阪正康(ノンフィクション作家) 半:半藤一利(作家)

で、対談形式となっています。



●周到な天皇免責

記者:昭和天皇についてはどうみますか?


半:日本は無条件降伏をしたとされるが、ポツダム宣言は天皇の地位保全を条件に日本が受け入れた。地位保全は最初はポツダム宣言に明文化されていたのに、最後の段階で削られた。
ただ、外務省は「天皇の地位は保全される」と手応えを感じていた。だから米国は早い段階から天皇免責を決めていたのでしょう

保:連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官は、米国大統領選出馬を視野に入れていたね。日本国民が反旗を翻して自身の統治能力が問われることのないよう、天皇の保全を考えたのでは。

半:米国は天皇のを外すためにものすごく苦労したと思う。
側近の木戸幸一元内大臣を何度も呼び、天皇がいかに平和を愛し、政府と軍部の決定に「ノー」と言えなかったかを語らせている。天皇の言動が記された「木戸日記」も提出させた。形を整え、「天皇を訴追せよ」と主張するオランダやオーストラリアなどを説得した。


記者:証人尋問で東条元首相が口を滑らせる場面もあったようですが。


保:木戸元内大臣担当の弁護人から「天皇の平和の希望に反して行動した事例はあるか」と聞かれ、東条元首相は「日本国民が陛下の意思に反することはありえない。まして高官はなおさらだ」と答えてしまった。
それでは天皇に戦争責任が生じてしまう。そこで、さまざまな人物が証言を修正するような東条元首相を説得。次回の証人尋問の練習まで行った。

半:それを指示したのが、追求する側のキーナン検事ですからね。
「あれではまずい。もう一度質問するからちゃんと言い直させろ」と。そういう意味では茶番劇だ。

保:判決をよく見ると、絞首刑になったのは首相経験者や軍部の前線の指揮官ばかりで、陸海軍の中央、いわゆる統帥部の幹部は外れている。統帥権は天皇の専権で、戦争責任に直結するからですよ。東京裁判にこの種のからくりはいつもある


●国民も被害者に

記者:戦勝国による一方的な裁き、との批判もあります。


半:それまでの国際法では、侵略戦争とは何かを定義していないし、戦争を始めた指導者を犯罪人として裁く考え方はなかった。事後に法を作ったということですね。
ただ裁判を傍聴した一人として言うと、当時の国民感情には「政府と軍部の指導者に戦争責任があり、極刑にされるべきだ」という思いがあったと思う。裁判の起訴状は、日本国民も軍閥の被害者と位置づけた。

保:裁判は私たちが知らないこと、戦争の実態を明かしてくれました。

半:南京事件など日本軍の残虐行為は、日本国民に知られていなかった。国民は、日本軍は規律を守るものだと思っていた。日清戦争と日露戦争で天皇が出した開戦の詔勅には「国際法を守って戦う」という趣旨が書いてある。しかし、太平洋戦争では東条元首相が削ったとされる。

保:東京裁判が始まる前に、日本政府の中に天皇の命令、いわゆる勅令に基づいて戦犯裁判をやろうという動きがあった。しかし、天皇が「昨日までの臣下を裁くわけにはいかない」と認めなかったんです。

半:もし日本人の手で裁判をやっていたら、絞首刑は七人ではすまなかったでしょう。
日本人同士の間に永遠の恨みが残る。だから戦勝国による裁判は、一面では戦後の日本が混乱ではなく再出発できるという意味を持っていた。礎を持っていた。

保:その通り。勝者による復讐で、二度と戦争を起こさせない仕組みを作る裁判だったことは否定しない。だが、それを超える意義がある。


●昭和史から教訓

記者:それは?


保:「平和に対する罪」「人道に対する罪」を許さないという、二十世紀の文明理念を入れたことです。人類の普遍的な価値を裁判に持ち込もうとした努力を認めなくてはならない。

私たちの国はそれを受け入れ、反省した。

そうすると、私たちはすごい権利と義務を得たことになる。つまり、戦勝国に「あなたたちは東京裁判で裁いた責任がある」と言えるし、言わねばならないということ。侵略戦争や残虐行為が起きた時、「日本を裁いた倫理を、あなたたちは崩しているじゃないか。何やってるんだ」と。

しかし、平和を語る責任を日本は自覚していない

半:日本は言わなきゃいけない。戦勝国は日本と同じことをやっていると思う。
現代史で、裁判をやらなければいけない戦争は山ほどあります。ベトナム戦争で米国がやったソンミ村の虐殺はなんだ。イラク戦争では、攻撃される危険性があるからと先制攻撃し、日本の真珠湾攻撃より悪いですよ

結局、大量破壊兵器が見つからず、英国のブレア元首相は最近になって「間違いだった」と謝罪したが、日本の政治家からそういう声は聞こえない

過激派組織イスラム国(IS)を生み出し、世界の混乱を招いてしまった

保:集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法が制定され、日本はさらに平和を語れない立場に立ってしまった。「中国や北朝鮮が攻めてきたら…」などと言う政治家がいるが、

戦争は政治の失敗でしょう?
失敗を前提に政治をやるのは不謹慎だ
と思う。その前にやるべきことがある。

国際刑事裁判所が設置されて戦争犯罪を裁く常設機関ができ、日本も加盟したが、


米国、中国、ロシアは加盟していない。裁かれた日本の方が理知的になり、理念を説いて人類に貢献するという「逆転の事実」をつくるべきだ


半:歴史的教訓は全部、昭和史に書かれてある。昭和史からそれを大いに学ぶことです。



中日新聞の特集 2015年12月1日の記事から 抜粋

保:保阪正康(ノンフィクション作家) 半:半藤一利(作家)

で、対談形式となっています。

●くたびれた老人

記者:戦時中に育ったお二人にとって、裁判はどんな出来事でしたか?


半:私は裁判を傍聴しているんですよ。一九四八年春、十七歳だった。
A級戦犯被告として裁かれた白鳥敏夫元駐イタリア大使の息子が、私の旧制高校の同級生で、彼に誘われて関係者席に座った。被告席ははっきりは見えなかったが、戦争のリーダーはこんなくたびれた老人ばかりかと驚いた。これじゃ勝てるわけないと。

保:私は小学校低学年であまり実感がないが、判決の「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」という言葉が子供たちの間ではやったね。ラジオで何回も放送された。

半:「コウキ・ヒロタ(広田弘毅元首相)、デス・バイ・ハンギング」と聞いた時、父が「えっ、広田さん絞首刑なのか」と驚いたのを覚えている。軍人じゃないから、まさかと思ったようです。

記者:広田元首相は外交官出身で、軍人ではない唯一の文官。同情論もありますが?


半:自殺した近衛文麿元首相の代わりでしょう。ナチス・ドイツを裁いたニュルンベンルク裁判でも文官が一人絞首刑になっており、戦勝国側はそれを踏襲したと考えられる。

保:二・二六事件後に首相になり、軍の要求を数多く受け入れてしまった。城山三郎さんの小説「落日燃ゆ」は、彼を美化しすぎていると感じる。


●何人死なせれば

記者:その対極が東条英機元首相。今年公開された半蔵さん原作の「日本のいちばん長い日」でも、戦争継続論者として描かれました。


半:終戦直前に東条元首相が書いた手記が近年、明らかになったんです。
敵の驚異に脅え簡単に手を挙ぐるがごとき国政指導者及国民の無気魂なり」と、国民まで批判する内容。首相兼陸相兼参謀総長を務め、戦況がどんなにひどいか骨身にしみていたはずなのに、まだこんな事を言っていたのかと思いますね。

保:ずっとこのような認識を持っていた軍人だ。国民の生命・財産を守る意識がまるでない。
国民を何人死なせれば気が済むんだ、と思う。


今、裁かれるべき戦争 山ほどある


記者:日本の愚かしさの象徴として、検察側が提出しようとした「占領地の土地処分案」とは?


保:ドイツと世界を分割しようという案で、米国アラスカ州や中南米の支配まで想定している。
朝鮮や台湾に置いた総督府を、オーストラリアやインドにも置く内容。初戦の快進撃に有頂天になった参謀たちが、四二年二月に考えた。何を考えていたのかと吹き出すような誇大妄想で、証拠としては却下された。

半:歴史に対する日本人の意識の浅さが浮き彫りになった裁判でもあった。
裁判で不利な証拠になってはいかんと、終戦時に国や軍の資料をバンバン燃やしてしまったね。


記者:裁判での米国の思惑は?


保:何よりもハワイの真珠湾攻撃をだまし討ち、侵略としてさばきたかったが、立証できなかった。
日本が開戦直前に宣戦布告をしようとし、手違いで通告が遅れたことが、裁判で認定されたためです。米国は日本の暗号を解読して攻撃を予測しており、裁判でそれが議論されるおそれが出てきた。だから、裁判後半ではあまり真珠湾に触れなかったけど。


●残虐行為を問う


記者:日本を裁くために戦勝国が持ち出したのが、侵略戦争の共同謀議という考え方ですね?


保:ドイツにはヒトラーという絶対的な指導者がいて、ニュルンベンルク裁判ではそれに連座したナチスの指導者が裁かれた。検察側は、日本でも指導者らを「軍閥」で一くくりにし、侵略に合意していたことを立証しようとした。でも満州事変から終戦までの十五年間、指導者は次々に交代しており、実態に合わない。

半:それがこの裁判の弱いところで、共同謀議は日本では成立しません。
判決を受けた二十五人のうち、二十三人が共同謀議に加わったとされたが無理やりだ。
簡単に言うと、死刑判決の人は、共同謀議より残虐行為が問われたとみていい。判決には「捕虜虐待を防ぐ措置を怠った」などとしか書いていないが、木村兵太郎元陸軍大将なら、泰緬鉄道建設時の多くの死を英国が許さなかったと考えられます。
武藤章元陸軍中将の場合は、フィリピンで捕虜らが多く死んだ収容所への移送(パターン死の行進)。ただ、着任前の出来事で気の毒ですね。真の責任者が既に処分されていたからだろう。

保:武藤元中将が巣鴨拘置所で書いた日記があります。
判決を受けて自室に戻ったら、隣の部屋から嶋田繁太郎元海相の高笑いが聞こえた、とある。
嶋田元海相は終身禁錮刑で、命は助かった。武藤元中将の日記のこの一行に「なんで俺が死刑になって、あいつがならないんだ」という万感の思いがこもっている。


記者;被告に、思想家で国家主義を唱えた大川周明がいるのが目を引きますが。


半:侵略戦争の思想的根拠を作ったと目された。
ニュルンベンルク裁判で、思想家ローゼンベルクが裁かれたのにならったのでしょうね。

保:東京裁判では当初、言論人として徳富蘇峰が被告に擬せられたとされる。
国民に向け戦争をあおった代表格だが、高齢で裁判に耐える体力がないということで外されたのでは。実際には蘇峰は元気そのものだったのですが。
大川は裁判中、前の席にいた東条元首相の頭をたたくなどし、精神疾患があるとされて入院した。結果的に、日本の言論界は裁かれずに終わったと言える。


後編に続く


ニッポン饅頭 -nippon manju-
作詞:只野菜摘  作・編曲:浅野尚志
Guitar:ROLLY  Key&Shout:ハジメタル(exミドリ)  Dog-Shout:マルクス
Producer:成田大致(夏の魔物)
⇒豪華作家陣、ミュージシャンによるメタル&Jポップの高速爆音チューン。
アニメ、コスプレ、アイドル、温泉など「ニッポンカルチャー」の総まとめ的な内容となっており2020年に先駆けてLADYBABYが世界に発信するニッポン製のお土産ソング。

歌詞

ニッポン饅頭!

let's come to nipponx2

百花繚乱カワイイモノ コスメ コスプレ 爆買いオッケー ドンキ ビレバレ ビックロ コンビニ

どこも 安心 安全 なんです 京都 東京 五重のタワー 神戸 大阪・太陽タワー

富士 旭山 太陽サファリパーク (よっしゃ

にっぽん全国 可かわいガール (はははハロー) アイスクリーム スクリーム

新発売なのに売り切れだい パンがないならケーキで

そうだ 団子がないなら お饅頭 道後 銀山 熱海温泉(いいじゃん)

洞爺 阿寒湖 有馬温泉(ええやん) 9 know you konw 効能 泉質 戦意喪失 平和

エンジョイ さぁ エンジョイ ニッポン製の 文化を楽しんでね 味わってね

地下から てっぺんまで 味わってね なんちゃってなんて がんばっているうちに

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ビーフ バーガー チョコレート 甘すぎるだけじゃ飽きられちゃうの 中身にはちゃんと餡があんの

バニラの祭り ピンクのパーティ ゆるふわなキャラのパッケージ 名古屋福岡 スカイツリー・タワー

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ニッポン征服 超可愛いガール

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地下から てっぺんまで 味わってね なんちゃってなんて がんばっているうちに

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ニッポングー 遊びにおいで ニッポングー ウエルカムおいで

ニッポングー ロリポップ・キャンディ ニッポングー グーチョキ パーチョキ ピース

エンジョイ さぁ エンジョイ ニッポン製の 文化を楽しんでね 味わってね

地下から てっぺんまで 味わってね なんちゃってなんて がんばっているうちに

元気がないんだ そんな時も スマイルで かせぐんだ ためるんだ 人気と外貨と底力

ニッポンのよさ つめこんだマンジュウを おみやげにつれてってね 空越え 海越え 世界中

なんちゃってなんて がんばっているうちに 先輩も本物も 本家も元祖も 越えちゃってくの

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韓国併合による朝鮮植民地支配
 日本に居住する朝鮮人は、19世紀末頃から留学生を中心に数百名ほどいたといわれるが、日本に渡航する朝鮮人が増えたのは1910年の韓国併合以降であり、本格的に増加するのは20~30年代である。

 日本が1910年から1918年まで朝鮮において行なった「土地調査事業」という政策によって、多くの朝鮮人農民が土地を奪われた。朝鮮では農業以外の産業がまだ十分発展しておらず、土地を奪われ貧困に陥った農民は、生活の糧を求めて日本、満州、ロシア沿海州などへ移住した。日本へはとくに朝鮮南部から渡っていった者が多かった。

 同じ頃、日本の(とくに紡績、石炭、土建関係の)企業は安い労働力の確保のために、朝鮮での労働者の募集に力を入れるようになった。これらの業種の労働環境は、当時の日本では最も劣悪なものであり、朝鮮人労働者の賃金は日本人労働者よりも安いものであった(※1)。

 このように、仕事を求める朝鮮人と日本の急激な産業発展に伴う安価な労働力への需要が合致したことで在日朝鮮人人口は増加し、1917年には1万4500人あまりに達したという統計がある。

(1)「築港の富栄組では通常内地人仲仕が一円二,三十銭の日収あるとき、鮮人仲仕には九十銭を与へてゐる」(大阪毎日新聞、1917年8月14日付)

2.8独立宣言
 韓国併合当時、日本には朝鮮人留学生が数百名いた。大多数の学生は東京に集まっており、相互扶助会を作り、日本が取り入れた西洋的な近代文明や日本語を学ぶ一方、自由や独立について議論したりした。その中からは、多くの民族主義者が生まれた。

 第一次世界大戦の終結後、アメリカのウィルソン大統領の民族自決宣言に大きく刺激を受けた朝鮮人留学生たちは、1919年2月8日、東京で独立宣言文を発表した。この2.8独立宣言は朝鮮に持ち込まれ、朝鮮全土に広がる3.1独立運動の流れにつながっていった。

関東大震災と朝鮮人虐殺
 1923年9月1日、関東大震災が発生し、10万人にものぼる死者を生み出した。地震後、首都圏は戒厳令下に置かれたが、混乱する状況の中で朝鮮人による放火や井戸への毒物混入のデマを軍・官憲は意図的に流布させた。そのようなデマを信じた日本人によって多くの朝鮮人が捕らえられ、虐殺された。これらの虐殺を行なったのは、日本軍や警察、そして各地で組織された自警団を中心とした一般の日本人であった。

 この関東大震災時に殺害された朝鮮人は数千人に上ると考えられる(※2)。関東地方では、虐殺されたり、捕らえられたり、あるいは虐殺を恐れ他の地域に逃れたり、朝鮮半島などに逃げ戻ったりするなど、朝鮮人はほとんど見られなくなったとまで言われた。関西地方の朝鮮人が朝鮮半島に逃げ帰ることも多く、この時期、下関は朝鮮に帰ろうとする朝鮮人で大混乱していた。

 現在、関東大震災における朝鮮人虐殺については民間レベルでの調査が引き続き行なわれており、犠牲者追悼碑の建立や追悼式の開催なども行なわれている。

(2)日本政府は正式な調査を当時から現在に至るまで一切行なっておらず、当時の司法省の発表では232人、朝鮮総督府の発表では832人とされている。一方、当時、上海にあった朝鮮独立グループの機関紙『独立新聞』の社長、金承学(キム・スンハク)が在日朝鮮人留学生と共に実態調査した結果では、6415人の犠牲者数を数えた。

朝鮮人の大量移住(1920年~1935年)
 関東大震災での朝鮮人虐殺を機に、日本への朝鮮人移住は一時期停滞したが、朝鮮半島では日本の植民地政策による貧困がさらに強まったことで、日本に渡る朝鮮人は増え続けた。産米増殖計画(1920年~1933年)という農業政策が実施されたことも在日朝鮮人増加の一因となった。この政策によって、小作農へ転落する農民が増え、また、朝鮮内部において食糧が大幅に不足し、米価が高騰した。このため、生活苦に陥った人々が職を求めて日本へ渡った。

 一方、日本国内では1920年代に不景気に入り、失業率の上昇が深刻な問題となっており、朝鮮人の急激な流入によって日本人の職が奪われるということが指摘された。こうした中、日本政府は渡航制限を実施したが(※3)、安価な朝鮮人労働者を求める日本の企業は、この時期も朝鮮に労働者斡旋業者を配して、朝鮮人の渡航を促進させた。こうして在日朝鮮人は増え続け、統計によると1920年に3万人ほどだった在日朝鮮人は、1930年には29万人、1935年には62万人に達した。

 またこの時期、朝鮮人大量移住に大きな役割を果たしたのが、釜山と下関を結んでいた関釜連絡船と、済州島と大阪を結んでいた定期航路船君が代丸である。1920年代後半から1930年代前半にかけて釜山から下関に渡ってきた朝鮮人労働者は年間10~16万人、済州島から大阪へは年間1万5千人~2万人に及んでいる。下関にやってきた朝鮮人労働者は主には、全国各地に散らばっていったが、大阪にやってきた朝鮮人労働者はそのまま大阪にとどまる者が多かったようである(※4)。当時の大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほどのアジア最大の工業都市であり、そこには大規模な労働力市場があった。こうした労働力市場が、生活の糧を求める朝鮮人労働者の最大の受け皿となった。

(3)渡航管理制度:植民地時代に朝鮮人は日本国民とされたものの、朝鮮半島と日本内地間の移動の自由はなく渡航管理制度の対象とされた。関東大震災の朝鮮人虐殺を受けた日本政府は治安維持の観点から朝鮮人の内地への渡航を厳格化し、1924年に朝鮮人ニ対スル旅行証明書ノ件を発令、朝鮮人の日本への渡航は治安当局が発行した旅行証明書所持者に限るとした。さらに翌年、渡航制限を強化し、旅行証明書に加え日本での就職先が決まっていることや、乗船時の所持金が10円以上あることなどの条件を設けた。1927年には24万6809人が日本に入国する一方、8万3488人の朝鮮人が渡航を差し止められた。なお日本人は一連の渡航管理制度の対象とはならず、同じ日本国内である植民地朝鮮と内地間には移動の自由が保障されていた。

(4)1924年に大阪で働く工業労働者の出身地を調査した大阪市社会部の報告書によれば、約25万人のうち1万1千人が朝鮮人労働者であった。

朝鮮人集落の形成
 韓国併合以降、多くの朝鮮人が日本へ渡り、各地で朝鮮人の集住地域が形成されるようになった。朝鮮人の入居を嫌がる日本人家主が多かったため、朝鮮人は借家できず、空き地や河川敷、埋立地などにバラック小屋を建てて住んだ。そこに同胞が集まって朝鮮人集落が形成された。

 日本で最も早い時期に朝鮮人集落が形成されたのは大阪と考えられる。現在の大阪市東成区東小橋地域では、1909年(明治42年)に「朝鮮町が建設された」(※5) とされるが、この「朝鮮町」は海抜ゼロメートル地帯で、大雨が降ると冠水しやすい劣悪な環境で、日本人が決して住まないような場所であった。

 関西地方では朝鮮人集落が徐々に増えていったが、関東地方では関東大震災の虐殺の影響もあり、朝鮮人集落の形成は1924年以降となった。(※6)東京における大きな朝鮮人集落としては、江東区の深川枝川町とその隣接地域の塩崎町で、1930年代後半に形成された。この枝川町の朝鮮人集落は不衛生なごみの埋立地に長屋を建て、そこに東京府下の朝鮮人たちを移住させて作られた。(※7)

(5)『鶴橋・中本方面における朝鮮人の生活概況』(大阪市調査課、1928年)

(6)「彼らの多くは府下における細民住居地帯である三河島町、日暮里町、千住町、南千住町…そして彼らはその殆んど全部がバラック同様の長屋に住居するもので」(『在東京朝鮮人労働者の現状』東京府社会課、1929年)とあり、日本人貧民と混住していたと記述されている。また、横浜市の最初の朝鮮人集落が鶴見区潮田や中区宮川町に形成されたという記録がある。(『朝鮮人生活状態調査』横浜市社会課、1935年)

(7)「戦争のため中止になった東京オリンピックがこの町の誕生の直接の契機だったのだ。かなり以前から東京の海辺、町外れのこの一帯は、トタン一枚をかぶせただけの悲惨な朝鮮人の住まいが転々としてあった。…オリンピックで来る外国人にみっともない姿を見られるのは具合が悪いというので、一ヵ所にまとめて住ませることになった。これが枝川町のそもそもの始まりである。」(『ドキュメント朝鮮人』日本読書新聞社出版部、1965年刊)

在日朝鮮人への同化政策
 1930年代半ば、日本政府は急増する在日朝鮮人の現状をふまえ、治安対策の強化と同化政策を柱とする在日朝鮮人政策を実施していった。そして、同化政策を進めていく組織として協和会が各地に開設された。協和会の支部は各地の警察署内に設置され、支部長を警察署長が兼任した。協和会は朝鮮人から民族色を奪う皇民化政策を推進し、その後在日朝鮮人を戦争へ積極的に動員していく役割を担うようになった。

 皇民化政策は、朝鮮人の民族性を抹殺し日本人化することで植民地統治の安定化を図ることを目的とし、宗教や教育など、さまざまな手段を用いて進められた。天皇崇拝を強めるため国家神道の強要が行われ、各地の協和会では在日朝鮮人の神社参拝が義務付けられた。学校においては、朝鮮語の使用を禁止して日本語の常用を強要した。また、朝鮮の姓名を日本式の氏名に変えさせる創氏改名が行われた。

 1939年には在日朝鮮人に対する同化政策、戦争協力体制、監視統制の強化を図り、中央協和会が設立された。中央協和会は朝鮮人に対し協和会手帳の所持を義務化した。協和会手帳には本人の顔写真が貼付、住所・職業・生年月日、皇国臣民の誓詞などが記載された。これは戦後の外国人登録証の原型になっている。

戦争の激化と朝鮮人動員政策(1937~1945年)
 1937年に始まった日中戦争によって、日本では多くの民間人が軍隊にかりだされ、企業の労働力不足が深刻化した。日本政府は1938年3月に国家総動員法を制定し、労働力の確保に乗り出した。これにより多くの在日朝鮮人が炭鉱や土木作業現場に動員されていったが、それだけでは労働力不足は解消されなかった。日本政府は企業の強い要請を受け、朝鮮半島から8万5000人の労働者を募集する許可を各企業に与えた。募集当初は応募者が殺到したが、日本での劣悪・苛酷な労働環境が広く知れ渡り、次第に募集が困難になった。

 1941年に日本は太平洋戦争に突入し、労働力不足は加速した。日本政府は1942年2月、行政・警察力の行使が伴い、募集よりも行政的強制力のある官斡旋方式による朝鮮人の動員を開始した。

 それでも、アジア・太平洋戦争の拡大により、労働力不足が解消されず、日本政府は1942年10月国民徴用令を在日朝鮮人に対して発動した。しかし、在日朝鮮人からの反発は強く、出頭命令に対して多くの拒否者が出た。さらに1944年4月、日本政府は朝鮮半島に徴用令を発動した。朝鮮人たちは激しい抵抗を示すが、警察力を動員し、大量の労働者を強制連行した。このように強制連行された朝鮮人労働者はさまざまな研究から70万~80万人といわれている。
今話題?のイスラム国もといISIS国。
その国のイスラム教という教えの中でずーっと疑問だった事がありましたが・・・

ヤフー知恵袋で面白い解説がありましたのでここで一旦掲載させて頂きます。
ちょっとこれで自分としては多少はスッキリした感がありますw


イスラム教徒が豚肉を食べないのはコーランの第二章173節に食べてはいけないものとして死肉,血,豚肉とはっきりかいてあるからです。なぜコーランで豚肉が禁じられているかは定説がありません。
ユダヤ教の場合はもう少しくわしくなって蹄が割れて反芻する動物しか食べてはいけないと聖典に書いてあって豚は反芻しないので食べてはいけないとなります。
コーランに書かれていない食物についてはその国や地域で権威のあるイスラム法学者が判断をしますが一貫性はありません。
ちなみにイスラムでは豚や犬は卑しい生き物とされています。なので犬をペットとして飼うのは好ましいことではないとされています。しかし西欧化によってイランやエジプトでは室内犬が流行しています。
豚肉を食べないといってもすべてのイスラム教徒が厳格に守っているわけではなく国や地域によりますし人にもよります。インドネシアはイスラム教国とされていますが豚を飼う農家はたくさんあります。
日本に住むイスラム教徒も絶対に豚を食べないというのは現実的には無理です。


とヤフー知恵袋で解説してた人がいて助かりました。
まぁ神がそう言ってるから~と言ってしまえばそれまでなんですがwww


でも神様が決めたからといって全ての信者がその掟に従っているという話ではなさそうですね。
非常に興味深い所です。矢張風習、文化、生活に根ざした宗教というのは色々説がありますね~

また次も面白いネタを見つけたらここで記事にする予定です。
攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGは、「個別の11人」を名乗る、難民開放の革命を標榜する自爆テロリストたちの事件を発端とした、革命と戦争の物語です。
そのなかで、テロを起こすようにしむけるウィルスに使われた架空の著作「個別の11人」が能楽に関連したのもだったんですよね。
この物語の核となっている人物、クゼの独白で語られる内容は、以下の通りです。

パトリック・シルベストル著「個別の11人」。
インディビジュアリストの聖典。
それがなぜ素晴らしいのか。
それは、5・15事件を日本の能に照らし合わせ、その本質を論じたところにある。
能とは、戦国の武士たちがあらゆる芸能を蔑むなか、唯一認めてきた芸事だ。
それは、幾多の芸能の本質が決定された物事を繰り返しうるという虚像にすぎないのに対し、能楽だけが、その公演をただ一度きりのものと限定し、そこに込める精神は現実の行動に限りなく近しいとされているからだ。
一度きりの人生を革命の指導者として終えるなら、その人生は至高のものとして昇華する。
英雄の最後は死によって締めくくられる。
死によって永遠を得る。


正直、こうやって文字に起こすと、ちょっとわけわからんですねw

元ネタは三島由紀夫で、おそらく、能に対する考え方、「をはりの美学」「葉隠入門」「若きサムラヒのための精神講話」「文化防衛論 」あたりの評論、というか、エッセイが、その中心かと思われます。

三島由紀夫にとって、能とは、ただの芸能ではなかったのですね。
彼は、能を、芸術作品としてのみならず、人間の生活、戦争をも含んだその他のあらゆる行動様式の型、国民の精神が純度の高い状態で抽出された一種の結晶体としてとらえていました。
能の演目は、神様を讃えるようなものを除き、たいていがその主人公の人生のハイライトです。
実際に人生に起こりうる悲劇や喜劇の「型」としての「能」は、現実の人生がそうであるように、演者たちが集まって練習に練習を重ねることなく、ほぼ即興の状態で演じられます。
故に、革命を起こすこと、歴史に名を残すようなことを成し遂げること、それ自体も「能」と捉えた、そうゆう解釈なんだと思います。そして、葉隠にある「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という死に対峙して真剣に向き合うことの精神の極限的な緊張状態を「能」の演者たちに重ねていたのではないかと思うのです。
「死によって永遠を得る」
というのは、能の主人公たちが、その壮絶な死によって主人公として能の曲となって昇華されていることを思わせます。

本当は、作中に三島本人の名前を出して「近代能楽集」を持ってきたかったらしいのですが、戯曲集である作品をどうやって物語につなげるつもりだったのかは謎です。

さらに突っ込むと、この「個別の11人」ウィルスに感染しながら、強固な革命の意志がウィルスに打ち勝って、本当の革命を起こそうとするクゼの顔は、表情筋を動かすことが出来ないワンオフであり、能面と通ずるのですよ。
でも、最後、リンゴかじってたんでね、多分、本当は動かせたんでしょうね。
首相暗殺に失敗したあと、顔は変えたんじゃないか、と。集団自決からエスケープした時には、もう、表情筋を動かせる状態だったのかもしれません。
それでも、あえて能面の顔を保持していたクゼは、この作品における「シテ」の機能を十分に果たしていたと思います。

あと、スタンド・アローン・コンプレックス、という概念自体が、もう、能そのものですよね。
囃子方からシテ方、ワキ方...すべての演者さんは、いつもは個人個人で自分の芸を磨いています。何度も繰り返し一緒に練習するということがないのです。それでも、本番で舞台に集まれば、きちんと演目をやってのけます。もう、まさに9課のごとくに鮮やかです。


と、攻殻機動隊レビューがあるサイトにて発見。




三島由紀夫関連の本、特に能についての著作は読んでみる必要あるかもしれない。

と思った次第。


今日はなんでも鑑定団こと中島誠之助先生の講演会でした。


14時~の講演会で約1時間半程のものでしたが非常に濃密で価値ある時間だったと思います。

最初はなんでも鑑定団という番組がどのような事を経て今の番組に至ったか。
先生と番組の関係、他のスタッフ方。色々な関係性のお話を頂きました。

その後先生が何故古美術鑑定というある意味特殊と言える仕事に就いたのか?
それもお話下さいました。
ルーツはお家にあったようですね^^そして非常によい経験をされてきたとのこと。興味深いお話ばかりでした。

また、いいものはいいもの 悪いものは悪いもの と確かに存在はするのですが悪いものもあってもよいと、そういうのがあってこそいいものも光る。

人生はそういう二つがあるからこそ面白い。それは古美術世界でも言える事で

本物の中には紛い物、つまりは偽物ですね。そういったものも中には存在する。

偽物は確かにいけないが、偽物となってしまった物には罪はありません。
あるとすればそれはその偽物を作った側の人間にあるという事。

人は生まれながらにして善である。
が、その後人は色々な経験や影響、環境を受けて人は育つ。善し悪しに関わらず。

しかし良い影響悪い影響と申します。

古美術の世界ではそれが特に色濃くあり。古美術の商いをする以上どうしても疑ってあるいは
穿った目で見ないといけない立場にある。そういうある意味世知辛い業界でもあるということ。

非常に面白い話でした。



いい目を鍛えればいずれそれは本物を見るための目を養う事にも繋がる。

そしてこんな事を仰ってました。

物を作る時は必ずその時の時代背景、歴史、ストーリー、その作者が一体何処の誰でどのような人でそして何のためにそれを作ったのか?
様々な話がその骨董品には詰まっているはずだと。


それらを無視して打算的な話のみ、或いはその作品に対しての知識のみで分かった気でいる人は大概偽物を掴まされ安いというお話を頂きました。

何をするに対しても矢張その裏には背景には歴史が、ストーリーがある。
そういうのも大事だという事が良くわかりました。
今日はなんでも鑑定団 中島先生による講演会の日!


僕と嫁とお爺さん、お祖母さんの4人で行く訳ですが、どういう講演会になるのか楽しみです^^
ただ、嫁は途中バイトがあるので急いで帰らないといけないのがネック^^;
そして今月は行きたいイベントが他にもあったのですがどうやら行けそうにないです。
そこがちょっと残念(´;ω;`)


とりあえず、今日は講演会を楽しみます!
後色々お爺さんとこの前祖父の家でお話をしたワケですが色々とまぁ身内話ではありますが・・・
お爺さん大変だなぁと(;´Д`)と思わざるを得ないものが色々とある訳で。

この先どうなっていくやら(´Д`)ハァ…


ま、なるようにしていくか・・・な?
そのへんは嫁や親父を含め色々話し合いしながら良い方向へとなるたけ進めていくしかない


( ´ω`)フム


( ̄^ ̄)ゞでは