「平成の三羽烏」は辰吉、鬼塚、渡久地であるが、いずれも個性的で渡久地もまたその個性は突出していた。
渡久地はアマチュアのトップからプロ入りし、東日本新人王の決勝戦では川島郭志をKOし、10戦全勝全KO勝ち。
フライ級のボクサーとは思えないほど、パワーを重視したボクシング。
1990年3月には松岡洋介(黒潮)をKOし、無敗のまま日本フライ級タイトルを獲得。
そんな順風満帆の渡久地に三度目の防衛戦が組まれたが…相手は後の世界王者のチャコフ・ユーリ。
ユーリはアマチュアの世界選手権で優勝したように、アマチュアのトップ中のトップ。
そんな時に渡久地は失踪。
世間は「渡久地はユーリから逃げた」と失笑したが、そう思われても仕方無い。
失踪から二年後、渡久地は戻り、岡田明広(花形)を判定で破り日本フライ級王座に返り咲いた。
試合後のリング上で渡久地の勝者インタビューが始まると、判定を不服とした観客から渡久地に野次が起きると、渡久地はマイクを使って、「文句があるならベルトは岡田にやるよ」と言い返し、物議を醸した。
この日本フライ級王座は三度防衛し、いずれもKO勝利。
1996年8月、かつてのライバルであった鬼塚勝也をトレーナーにして、因縁のチャコフ・ユーリの持つWBC世界フライ級タイトルに挑戦も、やはり、ユーリの壁は高く9回にストップ負け。
その後も戦い続けたが1999年10月の試合を最後に引退。
引退後はピューマ渡久地ボクシングジムを開設したが…。
記憶喪失になり、夫人とも離婚し、ジムは夫人が引き継ぎ、渡久地は地元の沖縄に戻り、両親と実子の娘さんが渡久地を介護しているのがテレビの特番でやっていた。
戦績27戦23勝(19KO)4敗